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田代一倫『ウルルンド』(発行:KULA、2017年)


あわいに漂う写真

 9月に刊行された田代一倫の写真集『ウルルンド』(KULA、2017年)を折に触れては眺めている。「ウルルンド」とは竹島/独島の近くに浮かぶ韓国の離島。ハングルで「울릉도」、漢字名で「鬱陵島」と書く。
 田代は今年の2月と5月にこの小さな島を訪れ、数日間の滞在中に出会った現地の人々を撮影した。前作の写真集『はまゆりの頃に 三陸、福島 2011~2013年』(里山社、2013年)が2年間に撮影期間が及ぶ長期のシリーズで、453点もの肖像写真を収録した大作だったことを思えば、「ウルルンド」をめぐる2つの取材旅行はごくささやかな規模である。B5変形72頁の小冊子という体裁をとった本書は、旅のささやかさを仕様においても体現していると言えよう。

 田代は徹頭徹尾、肖像写真にこだわる写真家だ。東日本大震災の被災地とその周辺を取材した『はまゆり』に限らず、2010年にスタートした〈椿の街〉シリーズから現在に到るまで、基本的な撮影スタイルは驚くほどに変わっていない。
 ひたすら訪問先で出会った老若男女に声を掛け、彼/彼女らの全身像を背景におさめるかたちで撮る。そのとき、遠すぎず近すぎもしない節度ある距離が保たれ、被写体と写真家の眼差しは対称関係を切り結ぶ。人懐こい笑顔で撮影に応じる人、たやすく踏み込めない心理的距離を憶えさせる人、ちょっとよそゆきの表情でかしこまった立ち姿をとる人。「人物+背景」というフォーマットは同じでも、被写体一人ひとりの反応は容易に分類できない揺らぎやすさを伴って、ひとまずの係留に到る。

 『ウルルンド』でも事態は同様だ。場所性を思えば日本と韓国の領土問題といった政治的文脈は否応なく意識されるが、場所性や政治的文脈にばかり囚われるのであれば、本作の最大の魅力は汲み尽くせない。というのも、写真家-被写体が切り結ぶ不安定で移ろいやすい関係性は、むしろそういった解釈の大枠を内から決壊させるように思えるからだ。


「いつもとは違う」

『ウルルンド』には特定の属性に偏らない様々な人たちが登場する。ホースで水を撒く手を止めないままにこちらを振り返る男性がいる。路傍に座り込み果物か何かの皮を向く老人も。それから仕事中の漁師、雨にビショ濡れになる若者、子連れの主婦。家の庭先なのか、相手の生活空間に半ば踏み込んで撮影したとおぼしき写真まである。人物に遅れて、坂が多く起伏に富んだこの島の地形も意識される。

 写真家は写真集の巻末に附されたコメントで、「半ば義務のように毎日同じ道を歩き、坂の上り下りを繰り返していました」と滞在時の日課について振り返っているが、そう広くはない島でのコンパクトな歩行の経験が写真に潜在する情報から追体験できるのも、本作の醍醐味である。田代のコメントはさらにこう続く。


「そうすると、人々の暮らしや立ち居振る舞いの中に、東に位置する〈竹島/独島〉やさらに海を隔てた日本が見えるような瞬間がありました」


 なるほど島民たちの生活の様態や島の風土と産業は、日本人の私たちのそれと遠く隔たったものではないのかもしれない。しかし一方で、私は「いつもとは何かが違う」という印象を『ウルルンド』の写真群から抱いた。とりわけ、人々の表情の「読み難さ」が、これまでのシリーズより顕著であるように感じられた。何とは言ってもこの地が日本ではない異国だからだろうか。言語の壁が、被写体との交流の回路をより複雑にしているとでも言うのだろうか? 
 実際に田代に話を聞いたところ、旅行中に知り合った気さくな島民が撮影に同行し、通訳をしてくれた場面もあったそうだ。異国だから、言葉が通じないから相手との心理的距離が生じやすくなるという推察は、あまりに偏狭な思い込みであったかもしれない。というよりも、知らず知らずのうちに作品に対して思い定めていた「いつも」なる観念は何なのかを、まず自問すべきだったと言うべきだろうか。

 「いつもとは違う」という印象の由来が、前作『はまゆり』との比較から生じるぼんやりとした感触なのだとしても、その感触は作品についての判断に繋げるにはあまりにも頼りない。このとき、たとえ変わらぬ撮影スタイルだろうと同一フォーマットが踏襲されていようと、田代の写真は作品間の比較が難しいことに気づく。「この表情は親密さの証だ」「体の構えからしてよそよそしい」などと感情を分類することの不毛さ。表情とはそもそも読み尽くせないものであり、次の瞬間にはかたちを変えて流れ去るものであることに想到する。


写真家の確信と選択

 ところで本書の刊行時、「ウルルンド」シリーズより33点を抜粋した田代の個展が新宿のphotographers’ galleryで開催されたのだが(2017年9月5日~9月24日)、個人的にはホワイトキューブでの展示よりも写真集での見え方のほうが断然に魅力的に映った。これはやはり、写真集の判型と紙質の選択が功を奏しているのだろう。使用された紙は、新聞の折り込みチラシや雑誌などでよく目にする薄手の「微塗工紙」である。触ってみるとわかるのだが、かなりペラペラで折れやすく、上質な印刷や耐久性は期待できそうにない紙である。通常、写真集にこのような紙を使用するのはかなりの冒険と思われる。

 だが、厚みと重みをもつ角張った装丁の『はまゆり』とは対比的な、すぐにくたびれてゆくことを前提とする『ウルルンド』の「脆弱さ」は、逆説的な充足感を手にもたらす。本の厚みが経験の厚みを代理するとは限らない。ウルルンドでの出会いと経験を、脆弱ではあるがどこか風通しのよい支持体に落とし込むこと。これもまた、誰かと出会い写真を撮る経験を積み重ねてきた写真家の、ひとつの確信、信頼が成し得たかたちではないだろうか。

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『ウルルンド』の見開きの様子(筆者撮影)

 写真集としての『ウルルンド』にはもうひとつの興味深い点がある。それは、写真を裁ち落としで見開きいっぱいに見せるレイアウトだ。左右に配する写真のセレクトが絶妙なのだ。どことなく似た風貌をもつ者同士が対を成し、2月と5月が並置され、人物の身体的所作が呼応する。ときには画面内の部分的要素(駐車された車や舗道の流れ)を利用して、異なる2つの場面が強引に接続される。これにより、画面のフレームは開かれて、イメージからイメージへの循環運動がはじまる。2月と5月という異なる季節、個別の出会いの経験が、循環運動のなかにくるみ込まれる。「毎日同じ道を歩いた」という写真家の行きつ戻りつの経験が近しく感じられるのは、写真間に連鎖をもたらすレイアウトの効果も遠因となっているのかもしれない。

 もっとも印象的な一点を挙げるとしたら、私は最後の頁の海辺で撮られた写真を選ぶ。携帯電話を耳に当てたままの中年男性が、岩礁に立ってやや遠めの距離から写真家の眼差しに応えている。その背後に広がるのは何色とも名指し難い中間色に染まった海と空だ。この色彩は、本書全体の基調にある、被写体-写真家の繊細な距離感を象徴しているように思える。海と空のグラデーションの果てにあるものは何だろうか? 境界を持たない海と空の先に、次の旅が予感される。



(編集、校正/東間 嶺@Hainu_Vele)