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画像出展:Scrapbookpages Blog

 アウシュヴィッツのガス室へ全裸で連れ込まれるユダヤ人男性たちの写真を評して、男性の突起物というのは物哀しさを誘う、と書いたのは誰だっただろうか。誰が書いたどの本だったかは忘れてしまったが、その文章を読んで以来、私は男性の突起物が引き起こす様々な悲喜劇に、時々、思いを馳せるようになった。言うまでもなく、男性の突起物は生殖器としての機能が遺伝的に付与されており、その限りにおいては、他の動植物の雄と何ら変わりがない。人間の男性もまた、本能によって女性との生殖行為に励むのであり、より優れた子孫を残すために、あの奇妙な突起物が備えられている。
 

 しかしながら、人間の男性には社会的な規範、つまり、善悪や真偽を判断する理性が植え付けられており、おそらく、この理性こそが、男性の突起物に纏わる様々な悲喜劇の源なのろうと思う。男性の突起物は(以下、人間という呼称は省く)、その人自身の意思決定でコントロールすることができない。ポール・オースターは『写字室の旅』において、男性自身の意思に反するその突起物を、ビッグ・ショットと揶揄的に表現している。ビッグかスモールかはともかくとして、まるでアルコール中毒者がテキーラのショットを何杯飲んでも止められないように、男性の突起物もまたその人自身の意思で海綿体の充血を止めることができない。

 ところで、ビッグ・ショットという言葉は「お偉いさん」という英語のスラングであるらしい。しかし、私にはビッグ・ショットという言葉は、ポール・オースターが自嘲気味に使っていたように、男性の突起物としての喩えの方が相応しいように思える。辞書でshotという英単語を調べてみると、「発射」や「発砲」だけではなく、「打ち上げ」(宇宙船やロケットなどの)という意味もあるようだ。もちろん、男性の突起物は彼の意に反して打ち上がる。それは、決して「お偉いさん」などというような高尚なものではなく、物哀しくて、やり切れなさを含み、ときには、情けなく、寂しい放物線を描くこともある。そして、その打ち上げが、本来備えているはずの機能を果たさないまま、萎んでいくことも多々あるのだ。それらを考慮すると、ビリー・ジョエルの名曲「ビッグ・ショット」は、一転して、男性たちの哀歌(エレジー)に置き換わる。

 喜劇はシリアスな状況においてこそ、その喜劇性を存分に発揮する。映画館など静まり返った人々の渦中にあって、突如、笑い出したくなった経験は誰しもあるはずだ。男性の突起物もまた、ときに、喜劇性を帯びる。例えば、澄ました顔でビジネスマンが目抜き通りを歩いている様を想像してみる。彼は三十代半ばで、髪をワックスで綺麗に整えており、端から見れば、ほとんど非の打ち所がない美男である。ところが、誰にも知られることのない彼の胸中は決して穏やかではない。なぜなら、彼は目抜き通りを澄ました顔で歩きながら、そのとき、コントロール不能な突起物と格闘しているからだ。周囲が静けさに満ち、穏やかであればあるほど、彼の胸中は焦り、彼は穏やかさとは程遠い領域へ連れて行かれる。公共の場で人知れず密かに繰り広げられる、この孤独でみじめな闘いは喜劇である。また、同時に、悲劇的でもある。例えば、シラーの悲劇『群盗』において、登場人物の誰もが、出来事の錯綜の中で、自分では制御できず、自分が望まない最期を迎えるのと同じように。

 この厄介な男性の突起物は、死の瞬間まで、侘びしさという魔手で男性たちを追いかけ回す。一説によると、死の間際、男性の突起物は本能によって子孫を残すための形態に変化するらしい。もちろん、子孫はおろか、それに見合った相手すらおらず、彼は最期の花火を打ち上げたまま、死んでいく。このように、男性の突起物は、そのビジュアルの哀しみだけでなく、作用の自己制御不可能性においても、どこまでも寂しい。いったい、私たち男性は、自分の意思が決定権を持たないこの突起物に、どこまで翻弄され、どれだけ愚弄されれば、神の免罪符を受け取ることができるのだろうか。