サラエボ、イメージと現実と
■ 「SARAJEVO NOW」これは、サラエボにある歴史博物館の外壁にかけられていた垂れ幕に印字されていたものである。2017年6月末、私はボスニアの首都サラエボに6日間滞在して様々な場所を訪れた。なかでも最も強い印象を受けたのが、この博物館であった。
■ サラエボを1人で旅した理由はなんだったろう。正直、はっきりと言えるような理由はない。また、ひとつではない複数の理由が重なり、私はボスニアに飛ぶことに決めた。
■ サラエボという土地の名をはじめて知ったのは、高校時代である。90年代半ば、テレビのニュースではサラエボ内紛の惨状が連日伝えられた。民族浄化、ジェノサイド、大量虐殺という言葉もそこで知った。その連日の報道により、私はサラエボに対して「民族紛争」というイメージを強く持つこととなった。そして、サラエボに実際に行ってみるまで、そのイメージが払拭されることはなかった。
■ サラエボの国際空港は小さかった。ベオグラードで乗り換えるはずの飛行機が1時間程遅延し、サラエボに到着したのは朝8時半を過ぎていた。中心街まで行くバスが来るのは午前11時なので、それまで2時間半もある。
■ 空港内でユーロから兌換マルカへと両替を済ませ、客がひとりもいない2階の喫茶店でカフェラテを頼んだ。190cmはあろうかという背の高い男性が、小さな紙コップになみなみと注がれたカフェラテを運んできた。きっと彼なら片手でそのコップをひねりつぶすことも可能であろうに、一滴もこぼさないよう、そろそろと歩きながら大事そうに運んできてくれた。そのとき、「嗚呼、私は(旧)社会主義国に来たのだな」と、じんわり実感した。
■ 社会主義国に行ったことのある人になら、私の実感が少しだけ伝わるかもしれない。どこか大事なネジが1つだけ足りないような緩さ。合理と便利が一致せず、シュールさが笑いにつながらない。そんな感じである。決して美味しくはないカフェラテを飲みながら、私は読みかけの小説を開いた。
歴史博物館
■ 初日から帰国日まで、サラエボでは良天候に恵まれた。恵まれ過ぎて、昼下がりは必ず炎天下となり、外出できないほどだった。だから、私は早朝にでかけ、午後にはホテルへ戻り、休憩することにした。
■ 毎朝、部屋の窓を開けると、斜向かいにあるベーカリーから小麦粉の焼ける良い香りが漂ってきた。サラエボにはいたるところにベーカリーがあり、いつも街中に良い香りが漂っていた。そして、とんでもなく美味しいパンたちが、たったの50円で売られていた。
■ 歴史博物館へは、滞在3日目に訪れた。それは、サラエボでも有名な「スナイパー通り」にあった。建物の外観からして、その博物館は手入れが行き届いているとは決して言えなかった。草木はボーボー、壁やペンキは剥げてボロボロ。「本当にここが博物館なのか」と疑い、近くに別の建物はないかと探したほどだ。ゴミや落ち葉の散らばる階段をのぼると、入口脇の庭に、日本の公園で良く見るような遊具があった。そこに40代くらいの男性が3人、遊具に寄り掛かったり座ったりしながら、おしゃべりをしていた。
■ 館内へ入ると、遊具のところにいた男性の1人も一緒に入ってきた。どうやら、受付の人であるらしい。チケットを購入し、「展示室は上だよ」と言われて階段をあがると、若くて美しい金髪の女性が2人、ビーズクッションに身を横たえながら無言でスマホをいじっていた。もしや学芸員…?しかし、彼女たちは、私が展示室に入っても、チラリともこちらを見なかった。
■ 展示室では、予想外にも前衛的な美術の展示が行われていた。それは「ACTOPOLIS SARAJEVO」といい、サラエボを含めた欧州の複数都市が合同で行ったアートプロジェクトの一環だった。(プロジェクト全体の詳細は、こちらをクリック。「ACTOPOLIS SARAJEVO」の詳細は、こちらをクリック)
■ 「歴史博物館で前衛美術?」私は不思議に思った。しかし、手入れの行き届いていない外観やボロボロの壁、受付の男性、学芸員らしき金髪女性を思い起こし、「以前は歴史博物館だったが、現在は美術館として使われるようになったのだろう」と考えて合点がいった。
■ 外は炎天下だというのに、エアコンのついていない展示室では全身が汗だらけになった。一通り観覧し終えると、奥に、照明のうす暗い展示室がもう一部屋あることに気が付いた。また前衛美術かと思い、その部屋に入ると何か「古いもの」の匂いがした。雰囲気が変だった。その部屋では私より先に、数人が展示を観ていた。
■ 中に入り、時計まわりに進むと、展示物は前衛美術ではなかった。演劇やオーケストラ、ピアノのコンサートなどの古いフライヤーや写真が展示されていた。そして、そのフライヤーに印字されている開催日は1992年あるいは93年。つまり、それらは紛争当時に製作されたものだった。フライヤーでは瓦礫となったコンサートホールの前で燕尾服を着た奏者がバイオリンを弾いていたり、劇中を写した写真では前衛的な舞踏を披露したりしていた。
黒い部屋
■ 次のエリアに進むと、紛争当時のアパートの一室が再現されていた。乱雑な部屋の様子、ボロボロの食器や家具、子供のおもちゃや洗濯物などが置かれていた。それを見て、何も言葉が出てこなかったし、何も考えることができなかった。ただ目の前の展示物を受け止めることに必死だった。
■ そこからは、紛争がさらに混沌を極めたことを示すような写真や物が、淡々と展示されていった。怖いくらいの淡々さであった。展示物のタグも、展示物そのものも、ガラスケースの中に無造作に置かれているだけだった。綺麗に整頓されることを拒否しているようにも見えた。ふと、天井を見上げれば、当時使用されていた自転車の丸焦げになったものが吊るされていた。壁のパネルには写真が4枚ずつ貼られており、観覧客の感想が書けるように、小さなメモ用紙とボールペンがぶら下げられていた。中国人が書いたと思われる「安らかにお眠りください」という感想が、なんとも「らしいな」と思った。
■ 展示はそこで終わりではなかった。その一室の奥に、さらにもう一室が設けられていた。そこに足を踏み入れたとき、「この部屋にあるものを正視してはいけない」という直感が働いた。そのせいか、銃殺された子供の、血のついたセーターが展示されていたことしか覚えていない。その部屋には前と後ろに入り口があるのだが、どうやら私は出口から入ったらしかった。というのも、出口だと思って出たところに、次の張り紙がされていたからである。
「黒い部屋(※)では、包囲されたサラエボで起きた苦しみや死を展示しています。(展示されている)物語や物は不穏な内容を含んでいます。だから、観覧客の方々は自分自身の責任で、ここの展示を観てください。学生を引率する先生たちには、学生の反応に特別の注意を払うよう、私達は警告します。」(※=筆者訳:奥の一室)
"いま"のサラエボ---忘却されない記憶と共に。
■ 歴史博物館から外に出ると、ひどく空腹であることに気付いた。近くの大型ショッピングモールへ行き、アラビアータとシーザーサラダを食べた。日本のカフェで注文する2倍の量があり、ゲッソリしながらも食べきった。食べながら、私は「前衛美術館ではなくて、きちんとした歴史博物館だったな」と展示室や展示物を思い起こし、しみじみ感心した。日本の美術館や博物館ではあまり触れたことのない斬新な導線だったが、最初に展示されていたものが現在のサラエボを象徴するアートプロジェクトだったことに、サラエボの人々の気概が伺えた。
■ サラエボ滞在中、私は様々なところへ行った。そして、様々なところで銃弾の跡を見た。とくに観光地ではないところでは、跡がやけにリアルに残されていた。しかし、そんな跡の残る家やアパートに現在も住む人がおり、洗濯物を干したり、バルコニーで花を育てたりしている。「今」を大事に営んでいる。「今」を生きる街。これが、実際にサラエボを旅してみて、私が抱いた街の印象だった。
■ だからといって、90年代に起きたあの紛争を忘れたわけではないだろう。忘れるどころか、強く思い出す日だってあるかもしれない。これは、サラエボを旅した人のブログに書かれていたのだが、その人はホテルのオーナーから次の話を聞いた。
「サラエボ紛争は、いま思い出しても何故あんなことが起きたのか、よくわからない。また、昨日まで仲良くしていたセルビア人が何故、突然我々に襲い掛かってきたのか、全然わからない。」
怒り、憎しみ、悲しみ、不可解な気持ち。表現されることが叶わなかった過去の感情たちは、一体どこへ向かえば良いのだろうか?
■ 帰国する日にサラエボで乗ったタクシーの運転手と話をしたとき、「日本は昔、原爆を落とされたろう」と言われた。私が「長崎と広島に落とされた。けれど、長崎の友達にはアメリカ人の友達がいる」と返したら、「嘘だろう?どうしてだ」と質問をされた。さらに彼は「日本の寿司は何故あんなに小さいんだ」とも言っていた。いや、それはサラエボの料理が多すぎるだけだから。
(了)
(了)
(編/構/校:東間嶺@Hainu_Vele)