---『回花歌』梗概---舞台は2000年代、とある大陸の西方にある街。"私"と家族は牛肉麺屋を営んでいる。街は、かつて核実験が行なわれていた土地のすぐ近くにあり、その影響を暗に示すような出来事が、家族の周囲ではいろいろと起きている。しかし、"私"と家族を含め、街の人々は核や原子力に対する正しい知識や情報を持たず、故に恐れを抱くこともない。彼らは宗教と自身の信仰心を大事にし、家族や親族、友達を大事にして生きている。「何かがおかしい」と感じられるような状況下でも、人々の生活は変わらずに続いてゆく。『回花歌』は、そんな物語である。
(『6---"友達"』より続く)
7--- "女性の生き方"
「私達も結婚した方がいいのかな」と、ズフラは唐突に尋ねてきた。彼女はいつも笑っていた。しかし、それは表面的なものではなく、笑いたくて笑っていることが私にはわかっていた。だからこそ、彼女の笑顔は他人に求めるところがなく、逆に私が落ちこんだときには元気を与えてさえくれた。私は首を横に振り、「まだしない、するわけない」と答えた。ズフラは数回頷いて「私もしたくない」と言い、インターネットを通じて知り合った北京の大学に通う女の子の話をはじめた。
「彼女は大学2年生で、英語科で勉強しているんだって。授業は厳しいらしいけれど、生活は充実してるって言ってた。大学の寮で暮していて、8人部屋だけどすごく楽しいって。礼拝やラマダンのときはどうしてるのって聞いたら、授業のある日はその時間に心の中で祈るだけにしてるんだって。ただ、やっぱりラマダンは大切だから、その間は授業がある日も陽が昇っている間は食事をとらないし、ラマダン明けには必ず帰省するって。大学を卒業したら、英語が話せるからオーストラリアやアメリカで仕事を探すみたい。」
ズフラの話が終わるころ、指導者が教室に入ってきた。私達が信仰する宗教には指導者がいるのだけど、その指導者がモスクでの授業では先生として私達に教えてくれていた。ふと、彼女の向こうに座っているズフラの弟のウマルを見ると、腕を枕にして小さな寝息を立てていた。指導者は黒板の前に立ち、生徒たちを見渡してアラビア語で夜の挨拶をした。
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指導者はまず、授業日程や開始時刻が大幅に変更されたことについて理由を話し、丁寧にお詫びの言葉を述べた。その日の授業はアラビア語の翻訳だった。指導者がトルコで買ってきたという短編小説のコピーが配られ、私達はそれを1人1行ずつ翻訳していくことになった。小説の内容について指導者からの説明は何も無かった。だから、翻訳を進めながら、物語の扉をひとつひとつ開くように小説の内容を知ることとなった。
…小説には1人の女性が出てきた。靴屋で働く独身の23歳。家族や親戚、友人はいろいろな男性を女性に紹介しようとするが、女性はそれらをすべて断る。なぜなら、彼女は「私の心に男性の入る余地は無い、神に全てを捧げている」からだ。そのため、結婚はしていないけれど黒いヒジャブを常に被り、他のどの女性よりもしっかり顔を隠して生活を送っていた。しかし、女性は、靴屋に来た1人の男性客に偶然、恋をしてしまう。神にすべてを捧げるはずだったのに、彼女の心には迷いが生じる。…
小説は、そのようなストーリーだった。
いつのまにか、夜10時をまわっていた。指導者は授業の終わりを告げ、翻訳をそこまでにした。小説の続きが気になりながらも、私はもらったコピーを綺麗に折りたたみ、ジーンズのうしろポケットに押しこんだ。指導者は、来週の土曜日も翻訳を行なうので小説のコピーを持ってくるようにと言い、アラビア語で終わりの挨拶をした。私達は指導者へ感謝の言葉を述べ、それぞれ教室を出て行った。指導者は微笑みながら、私達生徒が出て行くのを最後まで見守ってくれていた。
私達3人は、モスクの敷地から門をくぐって外に出た。そして、トラクターに再び乗りこんだ。私が、「小説に出てきたあの女性はどうなるのだろう」と言うと、ウマルは、「あの女性って誰?」と聞き返しながらエンジンをまわした。彼は授業のあいだ、ずっと寝ていたに違いなかった。「どうなるのかな」とズフラは答えたが、そのあとに続く彼女の言葉は、トラクターが前進するダッダッダッダッという音にかき消され、私の耳にしっかりとは届かなかった。けれど、なんとなくズフラの口の動きに合わせて相槌を打ち、同意を示すと、彼女は満面の笑みでズボンの右ポケットからフルーツキャンディーを取り出して、私にくれた。モスクに行くときにくれたのと同じものだった。私達は、同じタイミングで包み紙をはずし、口の中にキャンディーを放りいれた。
夜の風は冷たくて、少しの湿気も感じさせないほど乾いていた。トラクターの排気ガスと砂埃のまじる匂いが、鼻腔を刺した。それでもズフラは、顔に向かい風を受けながら笑っていた。横顔と長い髪が綺麗だった。キャンディーが入っている彼女の片頬が、プクリと膨らんでいた。私はしばらく無言で、彼女の横顔を見つめていた。2人の食べるキャンディーの甘い匂いが、私達の吐く息とともに冷たい夜風に消えていった。顔を上げて空をみると、皓々とした街灯の先に、星や月の光が夜空に浮かんでいるのが見えた。
(8へ続く)
(編/構/校:東間 嶺@Hainu_Vele)