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【SBS】新宿文藝シンジケート読書会、第76回概要
1.日時:2017年06月24日(土)18時〜20時2.場所:マイスペース新宿区役所横店7号室3.テーマ:田上孝一『環境と動物の倫理』を読む。4.レジュメ:荒木優太【肉食やめますか?人間やめますか?――田上孝一『環境と動物の倫理』を読む】
■ 上掲の通り、2017年6月24日土曜日に、第76回新宿文藝シンジケート 読書会が開かれました。同月に取り上げられたのは、田上孝一『環境と動物の倫理』(本の泉社、2017)。冒頭レクの担当は選書した荒木優太(@arishima_takeo)です。レジュメのPDFはこちら。テキストはエントリ末尾にコピーします。
ベジタリアンな社会主義
【本書の主題は環境倫理学における動物の問題であり、動物への考察から不可避的に出てこざるを得ない規範的提言である、ベジタリアニズムについてである。いわば本書は、動物問題からする環境倫理学への、一つの理論的アプローチと言えよう】(p3)
■ 上掲の序文で記されるように、『環境と動物の倫理』は、倫理学やマルクス研究を専門にする著者がこれまでに発表してきた自然環境や動物の権利に関するテキストを集めたものであり、シンガー、キャリコット、レーガン等による難解な論を平易な言葉で紹介し、環境倫理学やベジタリアニズムという思想に対する導入書としてたいへん優れたものとなっています。
■ しかし、それ以上に当書がユニークなのは、自らを"社会主義者"と定義し、ミートフリーな生活を送る著者が、ベジタリアニズムをただの菜食趣味や偏食とは全く次元が違う問題、【社会主義的人間のライフスタイル】【社会主義者としての実践の一環】(p137, 139)として捉え、論じている点にあるでしょう。
■ なぜ、肉を食べない生活(そしてそれはむやみにクルマへ乗らない、タバコを吸わない生き方と並列的である)が環境に対して倫理的であり、来るべきオルタナティブなライフスタイルとして推奨されるべきなのか?「アタマ湧いてるんですか?」と思った人にこそ、一読をお勧めしたい内容です。少なくとも、当日の議論では、大半の参加者が「肉食は止められないが、止める必要があると主張する理由は納得する」といった意見を述べていました。つまり、荒木のレジュメが煽るように、肉食やめますか?(倫理的に)人間やめますか?それが問題だ!ということです(←大袈裟
参照:当日資料 "肉食やめますか?人間やめますか?――田上孝一『環境と動物の倫理』を読む"(作成/荒木優太)
※冒頭に貼りつけた動画を観ながらお読みください。
序、野生動物の邪?――ヌスバウムって誰?ポスト・ロールズの政治哲学者(Martha Craven Nussbaum, 1947~)。ロールズ正義論を拡張し、障碍者・外国人・動物にとってもフェアーな社会を目指す。―引用→「動物園にいれる虎にはガゼルが食用として与えられるべきではないと言うことができる。だが、野生の虎についてはどうだろうか?人間は動物の世界を取り締まり、弱い動物を肉食動物から保護するべきだろうか?」(『正義のフロンティア』、p.430)――原理的にいえばイエス。動物には、子供や障害者の場合と同等の権利がある!(後見人になれ)―引用→「痛みをともなう拷問によるガゼルの死は、ガゼルにとっては、拷問が虎によってなされた場合でも人間によってなされた場合でも、同じように邪である」(p.431)――自然?権利の侵害は侵害なんでそんなん関係ないんですけど?ぶっ飛んでる(=徹底化された)思考。動物倫理のトガリ方が、いまアツい。一、人間中心主義批判―引用→「我々は、宗教的伝統に訴えるのでなければ、人間と他の存在をそれこそ“アプリオリ”に区別するような認識論を持ち得ない」(p.18)――人間の尊厳はどこにある?〈人間は人間だから特別〉はトートロジー(=没論理)&種差別主義的。知性で区切ると幼児や老人や障碍者を排除可能⇒動物や環境に対する倫理学の必要(じゃないと論理的に一貫しない)。―引用→「核心を成すのは、なぜ人間は道徳的行為者であるのかという人間自身の問題」(p.19)――ぶっちゃけ動物愛護精神はどうでもいい。非人間的なものを仲介することで改めて見えてくる、私たちが普段依拠している尊厳や権利の発想を支える論理構造。
二、動物倫理=動物解放論+動物権利論――動物の尊厳を守るための二つのアプローチ。――第一アプローチ=解放論。功利主義的(幸福の総量=苦楽のプラマイが大事主義)。代表的論客はピーター・シンガー。境界線は苦痛を感じるかどうか。具体的には、動物実験(例外アリ)、畜産、肉食の禁止。――第二アプローチ=権利論。解放論ヌルくね?苦痛を感じない主体や感じさせない殺し方なら殺してもOK?……否!義務論的(ねばならぬはねばならぬ主義)。代表的論客はトム・レーガン。境界線は生きてるかどうか(生の主体……キャリコットによって環境倫理にも拡張、地球だって生きてるじゃん?)。具体的には、前項に加えてサーカス、動物ギャンブル、動物乗り物、動物園なども禁止。
三、第三の道としての田上倫理学――第三アプローチ?田上のレーガン批判(帰結=結果を考慮に入れない原理主義批判)……からの「混合義務論」の提案。―引用→「権利論に求められるのは、事前に構築されたお手盛りの義務の体系を機械的に適応することでジレンマを回避できたと自己満足することではなく、ジレンマはジレンマとしてこれを直視し、具体的な状況に応じて説得力ある選択肢を提起できるような、リアリティのある理論展開」(p.80)――ジレンマがあることと理論破綻は別問題。
四、ベジタリアニズムのススメ―引用→「私自身にしても、幼少時からの非常な肉食愛好者であり、肉のない生活など考えられなかった。〔中略〕ところが、偶然インドを旅することによって、それまで抱いていた食に対する偏見が一掃された。彼の地では肉を食べないのが「当然」で「普通」のことであり、肉を食べる方が「特別」で「異常」なことだからだ」(p.145)――ベジタリアニズムとは……×スローフード、×菜食主義、×ビーガン、×宗教的タブー。―引用→「ベジタリアンとはベジタリアニズムの実践者である。ベジタリアンとは原則的に肉食を抑制しようとする人」(p.106)―引用→「全か無かという極端な思考ではなく、程度問題として考える必要」(p.113)――肉食のゼロ/イチ思考を止める。たとえば週一の肉抜きの日で早くも(セミ・/デミ・)ベジタリアンの出来上がり。簡単でしょ?第一の直接標的は、大量消費社会に適合した工場畜産の非道。
五、消費を通じて社会を変える―引用→「私が社会主義者である前提には人間にとっての善とは何か、人間はどうすればよく生きることができるかという、倫理の問題がある」(p.134)―註→人間的に善く生きたいという願望。幸福(=快楽)が満たされればそれでいいのか?という前回に対する一つの応答。―引用→「たとえ頭では分っていても、実際に食事パターンを変えるのは容易ではない。だからこそ、食の意味を捉え返す必要がある。すなわち、それは“たかが”ではなく、オルタナティヴな社会主義における理想的な生活の現在における先取りであり、社会主義者としての実践の一環であると」(p.139)――日常的な行動の積み重ねが社会を変えていくのでは?――下らない本で読書会すべきでない理由=下らない本が売れる→出版社が下らない理由で調子乗る→依頼に応える下らない著者が調子乗る→良質な書き手が育たない→下らなさの蔓延→この悪循環!――消費によって間接的に下らないものを支持してないか?好循環に転換するには、反対のことをすればよい。多少高くても、良い(愛のある)本を。即席新書商法は出版社・著者・読者、誰も幸せにしない。巨大企業・有名著者・炎上商法に騙されないための〈出版革命としてのテクスト論=人間ではなくテクストが大事主義〉へ?
六、その他の議論――私たちは肉食批判者を論破できるだろうか?ex1, 種差別主義&解放論でなぜ悪い(p.135への疑問、人「種」差別は厳密にいえば種ではない、権利範囲は同種に限定していい論)。ex2,権利の過剰発行は権利全体の失効に通じるのでは?――分かっちゃいるけどやめられない。「やめられない」の論理を言語化する。――ペットのしつけ、ペットの去勢、外来種の駆除……是か非か?参照:伊勢田哲治+なつたか『マンガで学ぶ動物倫理』。