今年みた映画---2017年上半期その1から続く

3位:『ブラインド・マッサージ』/ロウ・イエ


劇場:1月後半、アップリンク渋谷で

(※ 現在はUPLINK Cloudでオンライン動画のレンタルが可能)。



「視えない人」のセックスってすごいですね


■ 知人の彼女がこの映画を観終えて、最初に言った感想だという。そのひとは下北沢とか中野が象徴するカルチャーの大好きな、いわゆるサブカル女子(大学生)で、これまでロウ・イエの映画を観たことがない、という話だった。「ほかのも、こんな感じなんです?」そう問われた知人は「まあ、そう…かも?」と曖昧に答えたらしい。

■「こんな感じ」が、どんな「感じ」なのかは、もう少し彼女にことばの解像度を上げて貰わないと分からないのだけれど、ロウ・イエが一貫して映画で追い求めてきたものという意味ならば、『ブラインド・マッサージ』は、その「感じ」がもっとも濃密にあらわされた、たぶん、いまでで一番の作品なんじゃないかと思う。

■ 男か女かを問わず、性愛の衝動を中心にすえて人間と人間との関係性を描いてきたロウ・イエの映画は、感情の機微と連動するかのように激しく揺れ動き、頻繁にクローズアップを使う手持ちカメラの撮影に大きな特徴があるのだけれど、『ブラインド・マッサージ』は、そこに『盲』…「視える/視えない」というモチーフを持ち込む野心的な試みによって、表現の枠をさらに一段押し広げることに成功した。盲者の経営するマッサージ院を舞台にした物語のなかで、カメラの被写界深度を操作し、ぼやけ、白く霞んだ「視えない人」の主観/視線を構築しようとした映像は、医科学的な見地からの正確さみたいなものはともかく、あまり類例のないものだろう。

■ そして、当然ながら、物語には「視えない人たちのセックス」も、必然性をもって表現される。「視る」ことを制限された彼彼女たちの生活(晴眼者の俳優は、視界が白濁するコンタクトを付けている)は、残された感覚器の活用で営まれるわけだが、人間のもっとも親密な接触であるところの性愛では、嗅覚と触覚の重要性が「視える人」よりはるかに大きくなる。自他の境界を確認するには、聴き、嗅いだ上で、最終的に「ふれる/さわる」しか無い。常に相手の輪郭と量感を確かめる(なにしろ見えないのだから)行為と共になされるそれは、愛撫の質からして、ちがう。なぞるように鼻や顔を相手にこすりつけあう様子は、「視える人」よりも、なんというか、ずっと「近い」のだ。

■ その近さが、ロウ・イエに特徴的なクローズアップの多用と共振し、なまなましく切実な性への欲求が描きだされている。マッサージ院へ新しく勤務するためにやってきた恋人たちの睦み合いや、抑制の効かないほど高まった性衝動のはけ口を買春に求める若い施術者の男が娼婦に迫る姿は、多感(?)なサブカル女子ならずとも圧倒される。




「視えて」いる美、愛の本質

「毎日 昼も夜もひたすら思う 一目見てみたいと」「どうか教えて欲しい 知りたいんだ 君がもつ"美 "を」「美はとても魅力的なんだね?」

■ 「視えない人」たちの物語である『ブラインド・マッサージ』は、彼彼女たちの単なる愛憎劇ではなく、観客(ロウ・イエは否定しているが、その中には「視えない人」も含まれるのだと思う ※)に、目に映る美と愛の関係について問いかける物語でもある。

(※ 映画には要所で音声によるナレーションが入り、視覚障碍者でも物語の流れを「聴いて」理解することができる。劇中のマッサージ師たちと同じように、「視えない人」は、音から世界を想像し、「視える人」とは違うものを受取ることができるのではないだろうか)

■ マッサージ院の院長シャー・フーミンは、ある日、新人のマッサージ師ドゥ・ホンが稀に見る美人だということを客から告げられ、彼女の『美』を「視たい」と思うようになる。1歳から全盲であるシャーには、美しさの意味は理解できても、実感することはできない。迫られたドゥ・ホンは、世俗的な価値(美)を手に入れたいという虚栄であり、愛ではないと拒絶する。「目が見えない女ほど愛を見抜くの」。

■ シャーの渇望、ドゥ・ホンの拒絶をスクリーンでみつめる(「視えている」)観客は、二人を惑わす美の姿が「視える」自分の、「視えている」という自明性について意識させられる。美は愛の本質にかかわるのか? ロウ・イエの答えは、ラストシーンで、印象的に示される。

■ 小雪が舞う田舎街、カメラは、マンという名の娼婦と駆け落ちすることを選んだマッサージ師シャオマーが開いた新しい施術所にむかう。しばらくして画面にはシャオマーがあらわれ、視線は表廊下の流し台で髪を洗う女(マン)へと寄ってゆく。急速にぼやけながら、シャオマーに気付いた彼女と正対する画面は、駆け落ちのときからわずかに視力を回復していた彼の視界であることを伺わせる。再びカメラが明瞭さを取り戻し、シャオマーを映すと、すこし前から流れ始めているエンディング・テーマの歌詞※とあわせるようにかれは目を閉じ、ぼやけたマンの顔を脳裏に蘇らせながら微笑みをうかべるのだ。

(※ 歌詞は以下のようなものだ→大好きなあの娘が僕の目を食べてしまったので、僕の目には赤い色だけが残った。時間が巻き戻せるなら、僕は最初から目を閉じるだろう そうすれば何も見えなかっただろうから)

■ 【極めて最初の時点から、矛盾を抱えながら作っていた】web D!CEのインタビューにそう答えるロウ・イエは、シャーとシャオマーの二人に対照的な運命を与えることで、愛の本質と美(すなわち目に映るもの)は無関係なのだという見解を示す。『美』に惑わされたシャーがドゥ・ホンに去られ、毒をあおるまで追い詰められるのに対し、偶然の出会いから娼婦に愛を見出したシャオマーは、「視える」ようになったにも関わらず、「視る」ことに囚われていない。かつて衝動的な自殺を図るほどの絶望をおぼえた状態を受け入れ、女も、そんなかれを愛している。


観客は一連のシーンを自分の好きなように解釈すればいいと思います。盲目の状態というのは単に目が見えない人のことを指すわけではないんです。この作品は目の見える人間のために作ったんですから。現実の世界とのかかわりを暗喩(メタファー)として描いた作品だと言われることがありますが、目が見えない世界というのは、暗喩(メタファー)の世界なんかよりも奥が深くて、すごい世界ですよ。



■ シャーとシャオマー、ドゥ・ホン、娼婦マンのお話は、「視える人」であるわたしにとって、些か大げさな、ロマンチック・ラブにすぎると感じる部分もあるが、上に書いてきた役者たちの熱演とツォン・ジエンによる圧倒的な映像の世界は、そんな子供じみた見識など寄せ付けない力をもっている。

■ ただ、そうした力=視覚的な美を感じることができるのは、当然ながら「視える」からこそのもので、いまもシャーとドゥ・ホンを追い詰めたそれ=『美』に囚われた美術家としてのわたしは、少なくとも「視えて」いるうちは視続けていくし、追い求めることをやめないだろう。それほど美は魅力的、なのだ。

(2017年の映画---上半期2位:『太陽の下で-真実の北朝鮮-』/ヴィタリ・マンスキーに続く)

補遺:目の見えない人は世界をどう見ているのか
■ 映画に関連して、一昨年話題になった新書を紹介しておく。著者は東工大の准教授で、美学や身体論を専攻する学者だが、視覚障碍者の世界認知に関して、わたしたちが多くの誤解や思い込みに基づいた『予断』を持っていることが丁寧に解説されている。WIREDのインタビューと共に読むと、「福祉でないアプローチ=身体論」という考え方なども含め、新鮮な驚きがあるだろう。

■ さらに併せて、先日配信されたYahoo! ニュースの記事も参照してほしい。映画の中で試みられていた『視覚障碍者の視線』を、その全体数で多数派を占める弱視者の方々から協力を得て、より科学的なアプローチで再現している。視覚障害=全盲という認識も、思い込みの一つなのだ。「視えない」世界は、多様で、複雑である→【弱視者の見ている世界―― 人生の途中で「白杖」を持つ