新聞記事
長堤聖寺の場所にあったカルメル会修道院については、いくら調べても、結局よくわからなかった。あきらめて、サンタバーバラに移転したあとの彼女たちに関する情報を探した。サンタバーバラにもPoor Clare Colettine Nuns of Santa Barbaraという女子修道会があり、もしかしたらロングビーチから移転した修道院ではないかと思ったが、そうではなかった(彼女たちのウェブサイトに記された沿革には、1928年にカリフォルニア州オークランドで設立とあった)。
その新聞記事は、上から何番目だっただろう。
サーチエンジンの検索結果に表示されたサイトのうち、カルメル会と関係ありそうなものを上から順に見てみたのだった。サンタバーバラの地域紙らしい、Santa Barbara Independent という新聞社の、2014年の記事だった。
記事は長く、事実関係が込み入っていてまじめに読む気にならなかったが、出だしから1/3くらいのところに “Long Beach”という語があるのを見つけた。そこにはロングビーチの修道院を移転する決断を下したジーン・マリーという修道女のことが書かれていた。
"The Miracles and Misery of Mt. Carmel"(カルメル山の奇跡と惨状)。見出しにはそう書かれている。カルメル山(Mt.Carmel)というのはパレスティナにある実際の山で、カルメル会(Order of Carmelites)発祥の地である。カリフォルニア州サンタバーバラ郡でブドウ栽培が始まったのは1970年代だが、今では有名なワインの産地だ。そこにSanta Rita Hillsという地域がある。
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Santa Rita Hillsの中にあるMt.Carmel Vineyardというブドウ園の中に、敷地面積が約3,700平方メートルもある修道院の残骸が残されている。工事の資金繰りがつかなくなって建設途中で放棄され、20年以上もそのまま放置されている。Mt.Carmel Vineyardにリースされている24エーカーの土地、さらに未完成の修道院の建物とその201エーカーに及ぶ敷地はRita’s Crownと呼ばれ、現在は州政府公務員の年金基金用投資物件となっている。所有者はCalPERS(カリフォルニア州職員退職年金基金)という団体だ。
修道女たちの教団は修道院建設計画の頓挫によって建物、ブドウ園、300エーカーの土地を失い、訴訟を起こされて破産した。そして、修道院になるはずだった建物は、未完成のまま残された。
けれど、年老いた彼女たちは、まだその土地にいるのだという。ジーン・マリー修道女を含む3人の修道女がプレハブの建物やトレーラーハウスに住んでいて、全員が80代だ。
ジーン・マリー修道女と修道院の移転
ジーン・マリー修道女は1928年にロサンゼルスで生まれた。カトリックの家庭で育ち、1946年にカルメル会へ参加すると、1949年にはロングビーチの修道院へ配属された。しかし年月と共にロングビーチは発展し、静かな修道生活を送るのが難しくなり、彼女と仲間の修道女たちは修道院の移転を決意したのだった(この経緯については、前回まででも触れた)。
ジーン・マリー修道女の祖父は銀行家として成功したアイルランド人で、彼女にも遺産を残していた。修道女はその遺産も使い、もとは牧場であったサンタバーバラ郡の土地を購入したのだ。移転の時点でロングビーチの修道院はすでに40年の歴史をもち、地域でも有名だったので、ロングビーチのローカル新聞が彼女たちの引越し費用を負担した。その新聞の読者の中で、すでにブドウ園経営をしていた起業精神のある男性たちが、「修道院の敷地の一部をブドウ園にしてはどうか」とジーン・マリー修道女に提案した。ブドウ園の収益が修道院の運営に役立つと思ったのだ。彼らは修道会から30年の契約でサンタバーバラの土地の一部を借り受け、ブドウを植えることにした。
修道女たちは1988年にロングビーチの物件を300万ドルで売り(購入したのは長堤聖寺を運営する仏教団体だ)、サンタバーバラの土地を90万ドルで購入した。さっそく新修道院の建設計画を立て始めたが、それは最終的に400エーカー規模のプロジェクトにまで膨れ上がってしまった。他の地域と同様、サンタバーバラにも行政が定めた開発事業に関する様々な規制があり、ジーン・マリー修道女はそういった複雑な規制の取り決めに直面することとなった。その一方、起業家たちはブドウ園をMt.Carmelと名づけ、運営を始めたのだった。
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計画の破綻
修道女たちはサンタバーバラの住民に暖かく迎えられ、一時はセレブ扱いされたものの、ブドウ畑の只中に3,700平方メートルの修道院を建てるという計画が明らかになると、雲行きが怪しくなってきた。たとえばある農園主は、修道院の土地を通って井戸にアクセスするための通行権を持っていた。また、宗教的な施設ができるのを嫌がる人たちもいた。地域の事業家たちは修道女に同情的であったものの、修道女たちはビジネスの実務は不得手で、計画は立ち往生した。その後、地域のカトリック信徒からの熱心な支持もあり、最終的に役所の承認を得て建設計画は走り出した。しかし、それが更なる困難の始まりとなった。
教団は複数の建設業者や建築家と計画を進めたが、1992年、主任技師が建物の設計に不備があることを発見した。主任技師は設計を行った建築家と自治体に対して建設を中止すべきだと警告したが、その警告はなぜか無視され、建設工事はそのまま進められた。だが翌年には資金が尽き、工事は中断に追い込まれた。修道女たちは業者のせいだと言い、業者たちは修道女が開発事業に不慣れで思うように作業ができなかったと反論した。
ジーン・マリー修道女によると、建設事業の開始時には150万ドルの費用を見積もっていたが、終了時までに支払った金額は300万ドルを越えたという。信者や他のカルメル会から集まった寄付もあったが、追加の費用を払うことはできなかった。修道女たちはすべて支払ったとしているが、未払い分があると主張する業者が訴訟を起こした。
その結、破産の手続きが取られ、教団は資産のほとんどを失った。修道院の敷地建物とブドウ園、計300エーカーの利権を手放す代わりに、隣接する、ジーン・マリー修道女の兄が所有していた100エーカーの地所は所有が認められた。それが今、彼女たちが住んでいる土地だ。
修道院の移転事業が頓挫したあと、カルメル会の上部組織は残された修道女たちに対して、しかるべき修道院で修道生活に戻るよう勧めた。しかしジーン・マリー修道女と他のふたりはそれを受け入れず、サンタバーバラに残った。
奇跡と願望、世間に疎い神様
修道院の惨状とは裏腹に、敷地内で栽培を開始したブドウ園のほうは良質のブドウを生産するようになり、周辺のブドウ園とともに、Santa Rita Hillsというブドウの産地として2001年に正式に認定された。Mt. Carmelのブドウで作ったワインは評判がよく、30年のリースでブドウ園を借り受けていた人たちは、借地期間を25年延長した。
修道会が破産手続きをした後、修道会の土地はオークションにかけられ、若い投資家が300エーカーを100万ドルで購入した。その時点で、彼は修道会の破産を知らなかったらしいのだが、購入した土地を訪れたさい、ジーン・マリー修道女と面会し、信仰に深く目覚めたという。投資家は修道院建設が実現するよう、カトリック教会やそれ以外の団体にも支援を呼びかけたが、その努力は実を結ばなかった。
その後、投資家は購入した土地のうち100エーカーを100万ドルで売却し、2007年には残りの土地をCalPRESと提携するブドウ園に450万ドルで売却した。100万ドルで買った土地が、550万ドルで売れたわけだ。
土地の転売だけでいくらでも儲けることができそうだが、Mt. Carmelブドウ園は変わらずブドウ栽培を続けていて、彼らのブドウで作られたワインは高い評価を得ている。修道院の建設にかかわった開発業者や建築家たちは、経歴書に『プロジェクト未完』の黒星をつけることになってしまったが、それ以上の惨事には見舞われなかった。そして長堤聖寺は、ロングビーチの一等地でそれなりの存在感を誇っている。
この一連の騒動にかかわったすべての関係者の中で、その努力にもかかわらず最も報われなかったのは、破産したカルメル会の修道女たちだろう。でも彼女たちは、いつか修道院を完成できると、今でも信じている。それは奇跡を望むのと、どれくらいの違いがあるのだろう。
サンタバーバラに残った3人の修道女たちは、修道院の外で活動できるよう、還俗の手続きをしたのだという。だから修道生活は放棄してしまったが、信仰を追求する生活はもちろん続いている。世の中にはいろんな神様がいるけれど、彼女たちの神様は世間のことには疎かったようだ。
でも、人間の世の中のことに長けた神様というのも胡散臭い感じだから、それはそれでいいのかもしれない。
(デジタル画像編集、編集、構成/東間嶺@Hainu_Vele)