---『回花歌』梗概---
舞台は2000年代、とある大陸の西方にある街。"私"と家族は牛肉麺屋を営んでいる。街は、かつて核実験が行なわれていた土地のすぐ近くにあり、その影響を暗に示すような出来事が、家族の周囲ではいろいろと起きている。しかし、"私"と家族を含め、街の人々は核や原子力に対する正しい知識や情報を持たず、故に恐れを抱くこともない。彼らは宗教と自身の信仰心を大事にし、家族や親族、友達を大事にして生きている。「何かがおかしい」と感じられるような状況下でも、人々の生活は変わらずに続いてゆく。『回花歌』は、そんな物語である。
 

3---薬草より続く)

4--- "信仰と労働"


 夕方は、店のテーブルがすべて満席になるのは稀だった。簡易椅子を使うまでもなく、夜7時の閉店を迎えるのが常だった。牛肉麺はたいがい朝食や昼食に食べられるのが普通であるから、私達の店のメニューが牛肉麺のみであることを知ると、何も食べずに帰る客も夕方には多かった。なかにはメニューには無い料理を、無理やり注文する者もいたが、父は頑なに拒み、たとえ客が悪態をつけようとも注文を受けることはしなかった。それについて一度、兄が、牛肉麺以外の注文も受けた方が儲かるのではないかと、父に尋ねたことがあった。すると父は、我々は神のおかげで商売ができているのだから、稼いだ金は神のものであり、自らの儲けたいという欲望のためにほかの注文を受けることは許されない、もし注文を受けるのであれば、その前に神に伺いをたてるべきだろうと、静かに、そして論理的に答えた。


 私達家族も含め、街の人が信仰する宗教には旧教と新教という2大教派があり、私達家族が信仰する旧教は、新教に比べると戒律が厳しかった。旧教の敬虔な信者である父は、定められた時刻の礼拝を欠かすことはなかったし、重要な祭日に行われるモスクでの活動には誰よりも積極的に参加した。父から直接聞いたことはないが、母によれば、父は、ゆくゆくはサウジアラビアを訪れたいと考えているらしく、確かに父がいつも立っているレジスター奥の壁には、元は極彩色で描かれていたのだろう、いまではすっかり色褪せた小さなポスターが貼られており、そこにはサウジアラビアにある聖地の風景が描かれていた。それは私が生まれる数年前、父が都市へ出稼ぎに行った際、買ってきたものだという。



 また、父が叔母と普段あまり話さないのは、叔母の実家が新教であるためらしかった。叔父との結婚後、叔母も一応、旧教を信仰するようにはなったが、ときに叔母は旧教の厳しい戒律を面倒くさがり、店が忙しいなどの適当な理由を見つけては礼拝を行わないこともあった。それについて、父は良く思っていないようだった。

 夕方6時半を過ぎると、いよいよ客は来なくなり、私は開け放った出入口の柱によりかかりながら後ろ手を組み、バスターミナルの向こうに暮れてゆく空を見ていた。閉店間際には、すでに仕事を終えた叔父夫婦が再び私達の店に来る。昼と同様に父と兄、ライヒは叔父の運転する農業用トラクターの荷台に乗り、夕方の礼拝のためにモスクへと向かう。走り去るトラクターを店の出入口から見ていたら、ライヒが大きく手を振ったので、私も手を振り返した。



 出入口の戸を閉めて店に戻ると、母がレジスターの抽斗を開け、1日の精算を始めるところだった。母の背後からは叔母が、レジスターの中を卑しい顔で覗きこんでいた。私はテーブルの上に残されたお碗の無いことを確認して厨房へ行き、下げた食器を入れる青いプラスチックケースを数えると、再び厨房を出て母のところへ行き、今日は7ケースあることを告げた。

「ちゃんと整理して入れたの?」

そう言いながら、母はレジスターの中からお金をいくらか取りだして渡してくれた。いつも夜7時半になると、食器洗浄店の店員が来て、使用済の食器と引き換えに消毒済の食器を置いていってくれることになっていた。その際にお金がかかるのだった。

 この街には私達とは異なる宗教を信仰する人々も暮らしていて、食器洗浄店のなかにはそうした人々の店もあった。その店の者がたまに営業に来ては、洗浄代が安いことを強調して契約をとろうとするのだが、私達の店は同じ宗教を信仰する者の店としか契約は交さないことにしていた。

 しかし、3日前、異宗教を信仰する者とライヒが安易に仮契約を取り交わしてしまうという事件があった。それを聞いた父は、その異宗教の店にすぐ電話を入れ、仮契約の破棄を伝えた。夕食後、父はライヒだけを店に残し、肉屋や八百屋、辛味屋、食器洗浄屋など、私達の店と関わりを持つ店は全て宗教的信用をもとにつながっているということを、静かに説明した。父がライヒに語ることを、私は、店から母屋につながる戸をほんの少しだけ開き、ひそかに聞いていた。

(5へ続く)


(編/構/校:東間 嶺@Hainu_Vele)