2017年上半期の映画
■ 映画を観たことについて、書くタイミングを失うことが、多い。とりわけ、映画館まで出かけたそれについて。
■ べつにたいした理由があるとかではなく、わざわざ外出までして観た映画について、いいとか悪いとか、思ったことをなるべく正確に書こうと思ってウダウダしていたら、いつのまにか「ハ?いまシン・ゴジラについて書くとか言ってる君の名は?」みたいに、それに言及すること自体がKY化しているからだったりする。
■ 昨年はここ最近ないほど映画館へ行く機会が多かったのだけれど、そんな感じで、言葉をアウトプットするタイミングを逃してしまったのだった。
■ 2017年もそこそこ映画館へ足を向ける機会があり、さらには観た作品も強く印象に残るものばかりでもあったため、今年こそは、少なくとも、「おもしろい/つまらない/どちらでもない」程度のことは公に書き留めておこう、と思った。
■ と、言うわけで、2017年6月までに観た映画は以下の通り。全部で10本を1位から3位、以下は観た順に表記した。シネフィルな人にとっては「映画嫌いでしたっけ?」と肩をすくめられ、ワイドショーが取り上げる映画にしか興味がない人なら、「なんでそんなに映画好きなんですか?暇人?」と呆れられるぐらいの中途半端さだろうか。
1位:『人類遺産』/ニコラウス・ゲイハルター
2位:『太陽の下で-真実の北朝鮮-』/ヴィタリ・マンスキー
3位:『ブラインド・マッサージ』/ロウ・イエ
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『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』/ギャヴィン・フッド『沈黙-サイレンス-』/マーティン・スコセッシ『The NET 網に囚われた男』/キム・ギドク
『エリザのために』/クリスティアン・ムンジウ『哭声/コクソン』/ナ・ホンジン『午後8時の訪問者』/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ『セールスマン』/アスガー・ファルハディ
■ 去年はシーン全体の勢いもあって邦画だらけ(全体の約9割近く)だったのだけれど、今年は見事に一本も無い。目を凝らせばそれなりに「いい」ものがあることは知っているが、金銭的にも時間的にも、わたしが選好するなかには入ってこなかった(下半期は数本、観ることになると思う。多分)。
■ 以下、このエントリでは1ー3位以外を観た順に書き、次回は1-3位について書きたいと思う。(※ 何本かは激しくネタバレになっているので、未見の方は注意してください。)
『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』/ギャヴィン・フッド
劇場:1月後半、TOHOシネマズ 川崎
■ 今年の劇場一作目。観た当初は、いきなり「今年のベスト5には入る!」と大興奮した。上でも書いたように、今年はいい作品が多くて既にだいぶ押し出されてしまってはいるが、その記憶自体はいまも鮮やかだ。
■ 「ドローン技術とAIが今後の軍事を変えるゥ!」そんなことを、駅前で立ち食い蕎麦をたぐる五十がらみのオッサンですら訳知り顔で口にする(まじな話)2017年なのだけれど、この映画は、軍事専門家以外の人々以外に、前者を完全に信じさせるだろう。劇中で描き出される対テロリストの国際的監視ネットワークと攻撃体制---基地、人、モノ---圧倒的なハイテクがそれらを融合するさまは極めて説得的で、現地の緊迫した状況に対して成される政治的駆け引きは、俄に思考が追いつかない速度で展開される。「あら、あら」と言っているうち事態がドンドン進展してゆく巧みな演出もあり、観者は、考える暇もないまま、いつの間にか「手に汗握る」状態へと『誘導』されてしまう。
■ その状態は、なんというか、とても紙一重だ。軍事をモチーフに扱う作品の娯楽性や倫理について、ポリコレ警察よろしく、あれこれ『正しい』ケチをつけすぎるのは野暮だけれど、もし仮に、上のような作劇的高度さが、「ウヒョー、やべえテロリストを首尾よくぶっ殺したゾ!」と叫びたいだけの衝動を糊塗しようとするだけのものなら、さすがにのれない。
■ 勿論?『アイ・イン・ザ・スカイ』に、そんな無様さはない。自爆攻撃の準備をするテロリストのアジトを、周囲の犠牲(とりわけ、具体的な動きが作戦に影響する物売りの少女)を顧みずドローンで攻撃するか否か?最終的に決断するまでが物語のハイライトだが、終始争われているのはその正当性である。「いまテロリストを排除しなければ、確実に、何倍ものひとが死ぬ」→「しかし高い確立で、ひとりの少女を巻き込む」。どちらを優先すべきか?誰が責任をとるべきか/とれるのか?
■ 古典的な『救命ボート/トロッコ倫理』の変形でもあるが、欧米人がいかに『正しさ』へこだわっているのかが、垣間見える。(日本の場合、それは責任のなすり合いとして表現される=『シン・ゴジラ』を想起せよ)
■ 結局、攻撃によって少女は巻き添えになり、絶望の叫びをあげる親たちを映して映画の幕は引かれる。瀕死の少女を病院へ搬送したのは街を支配するテロリストであり、目的を達成した攻撃が次の憎悪につながることを予感させる演出には、「わるいテロリストはぶっ殺されました、メデタシメデタシ」に留まっていない作り手の誠実さを感じた。
■ とはいえ、「そもそもターゲットであるテロリストを生み出したのも欧米諸国の悪政であり、自業自得では?」というポスコロ的批判の視点が一切ないのはビッグ・バジェット映画の限界か。本当なら「テロとの戦争」に直接のかかわりが薄い国こそ、そうした批評性をもつ映画を撮れるのではないかと思うが、かろうじて資格があるはずの我らが日本で作られるのは『シン・ゴジラ』なのであった…。
『沈黙-サイレンス-』/マーティン・スコセッシ
劇場:公開すぐに、新宿バルト9で
■ 年初最大の話題作で、全体的には前評判通りの仕上がり。特に映像のクオリティがすばらしかった。いい意味で、「大金の投じられたハリウッドの超大作」といった印象をうける。イッセー尾形はじめ、役者陣も熱演していた(窪塚はぴんとこなかった。みんな褒めてるけど)。
■ ただ、主題(『転向』『弱者の神---同伴者イエス』)に関しては、劇的な演出に驚きはしても、それ以上に感情がゆさぶられることはなかった。結局、わたしのように特定の超越者への信仰を持っていない人間には、司祭や信徒たちの行為が自らの人格にとってどのように深刻なものか、真に想像することなどできない。彼らの悲嘆から、距離の遠さばかりを感じさせられる(※)。スコセッシはみずからの信仰にかかわる問題として作品を撮ったようだし、グレアム・グリーンも【20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家】と評するように、遠藤作品をもっとも必要とするのは国を問わず、キリスト者なのだろう。
(※)信仰ではなく、倫理の問題としてなら、すこし感じ方も違う。原作に対するカソリック協会からの批判と遠藤の応答は、その意味でとても興味深い。裏切りの弱さと弱さへの擁護を指弾するのか、弱さに至る過程とその後に共感をおぼえるのか。どちらも説得的だが、遠藤の書きぶりはより感動的である。(以下、Wikipediaの『沈黙』から、『カトリック教会からの批判と遠藤のその後の発言』を参照のこと)
■ 余談:映像は、カメラ割りがどうとかの次元ではなく、もっと具体的な、ものの細部の再現の方により感心した。垢にまみれ、ほとんど泥人形のように地べたをはいずり蠢く農民たちの姿、そことは別世界のように風雅な奉行所の佇まい……。考証も含めて、日本人以上に過去の日本を正確に再現する手つきの誠実さは、映像が作品として自立するためになにが必要となるのか、その一端を示している。
『The NET 網に囚われた男』/キム・ギドク
劇場:2月半ば、シネマカリテで。
■ 巨匠、キム・ギドクの『脱北』もの。『殺されたミンジュ』がちょうど一年くらい前(2016年1月後半)に公開されたので、二年続けてギドクの新作を観ることになった。いや、『新作』といっても最近のギドクは次から次に作品を撮っているので、一体どれが前作でどれが最新作なのか俄には分からなかったりするのだけど。
■ で、まあ、『ミンジュ』が、低予算実験映像の試みが悪い方に出たあんまりなシロモノでもあり、今作はたいして期待していなかったのだけど、結果的にその予想は裏切られた。少なくとも、次に日本公開されるという、原発事故をモチーフにした作品を観てみようと思わせるくらいには。
■ で、まあ、本作の狙いはシンプルだ。事故で南に流れ着き、北に戻ろうとする漁師が南北双方から威圧される姿を通して、ナショナリズムの狂気を指弾する。個々人の生を圧殺しようとするその危険性に、政治体制の違いは関係がなく、北も南もない。金正恩ー朴槿恵の対立で南北の緊張が高まるなか、破滅的な戦争の再開を避け、民族融和を呼びかけるギドクの意図が明らな政治映画である。
■ で、まあ、世を憂うギドクの姿勢自体には共感するが、映画がそれを伝えうるものだったかという点では疑問が残った。……というより、『効果』という点からは明らかに逆に作用するのではないかと感じられた。収容施設から逃亡した主人公がさまようソウルの圧倒的豊かさと活気は観る者を強く説得し、居心地の悪さを覚える漁師の哀れが際立つ。それは、ものがぞんざいに扱われているとか、貧富の格差からの売春があるとか、いくつか挿入されるマイナスの要素では到底相対化できるものではない。いざ戻った北の強烈な貧しさと秘密警察の捜査は、さらに南の『正しさ』を確信させる。
「洗脳されているんだ。可哀想に」「我々には彼らの洗脳を解く義務がある」
劇中、施設の幹部職員の口から何度も出て来るこのフレーズは、そう発する幹部こそイデオロギーに染まっているのだと印象づけようとしているが、わたしには、むしろ額面通りの意味で説得的に聞こえた。再び漁に出ようとした主人公が射殺されるラストシーンといい、全体的に『北』への嫌悪ばかりがつのる。これを観た日本人や韓国人は、むしろ敵愾心を募らせるんじゃないだろうか?(韓国での評判は知らないが)
■ で、まあ、上のような書きぶりではまるで褒めていないようなのだけれど、ギドクの思いはどうあれ、かれ特有の、奇怪な夢のような映像の魅力はあちらこちらの細部(たとえば、逃げ出した漁師が女衒をぶちのめして窮地から救った売春婦と、近くのオデン屋で乾杯するシーンであるとか)にみつけることができるし、拷問好きの役人の怪演などもあって、忘れがたい佳品となっているのは間違いない。
■ 但し、それは「本物の」北朝鮮によって作られたマンスキーの『真実』に勝るものではない(それについては次のエントリで書く)。二作品の差は、ある意味、フィクションの限界を露呈しているのだとも言えそうだ。
『エリザのために』/クリスティアン・ムンジウ
劇場:2月後半、ヒューマントラストシネマ有楽町で。
■ 【ダルデンヌ兄弟のカメラが持つエネルギー、ハネケの歪んだミステリー】Timue outがそう形容するムンジウの新作は、奇遇にも同年に新作が日本公開される運びとなった当のダルデンヌ・ブラザーズのそれより、わたしにとってはずっと記憶に残るものだった(ただ、ダルデンヌはこの映画の共同プロデューサーでもある)。
■ 冒頭、朝の光が差し込むリビングに響く、破壊された窓ガラスと投げ込まれた石の音。固定カメラが映し出す静謐の光景が、一瞬で違う空間へと変化したその場面(物語としてはちょっとした伏線にもなっている)を観ただけで、わたしにとってこの作品が忘れがたいものになるだろうという予感があり、エンドロールに入るとき、それが間違いのないものだったと確信した。はじめから終わりまで、不穏な美しさに満ちたすばらしい映像が続いた。
■ ムンジウは、カンヌでパルムドールを獲得した出世作、『4ヶ月、3週と2日』(2007)で、チャウシェスクの独裁政権末期を舞台に、当時は違法だった堕胎を試みる女子大生と、その手助けに奔走するルームメイトを独特のカメラワークで描いた。その時代から約30年経ち、革命を経たルーマニアを舞台にする今作は、娘の留学を成功させるために裏工作を計画する父親ロメロの年齢が、当時の二人(が老いた姿)と重なっている。終盤、自身の不倫に端を発する妻との別居、娘の暴行未遂事件と卒業試験への不正工作などに思い悩んで夜の街をさまようロメオの姿も、なんとかホテルで堕胎させたルームメイトから赤ん坊の投棄を泣きつかれ、夜半の街をさまよう女子大生と重なってみえる。あらゆることが変化したはずなのに、冷戦時代も21世紀も、ルーマニアの夜は暗く、不穏だ。
■ 「民主化に期待したから、帰国した。でも、だめだった。この国は変わらない。わたしたちは失敗した。お前はここにいてはいけない」ロメロは娘エリザに何度も右のように言う。それはムンジウによる現状のルーマニアを嘆く声と捉えるべきだろう。だが同時に、そんな父の干渉を突き放すエリザの描き方からは、明らかにされない試験の結果(実行されなかった不正)やそれがもたらす進路の選択(留学の取りやめ)も含めて、将来世代が変化することへの期待も見てとれる。退場する世代の焦燥やいらだちは、卒業の記念写真のために微笑む彼女たちには、どうだっていいことなのだ。
余談:それにしても、「この国は変わらない。お前はここにいてはいけない」というロメロの台詞が含意するものは、今や日本で子を育てる親たちにとっても、他人事ではないだろう。「日本スゴイ」と繰り返して慰撫されているような高齢者とは無縁のリアルとして、それは身近に迫ってくる事象である。まあ、子供をつくる気のないわたしにとっては、かかわりのないことだけれど…。
■ ムンジウは、カンヌでパルムドールを獲得した出世作、『4ヶ月、3週と2日』(2007)で、チャウシェスクの独裁政権末期を舞台に、当時は違法だった堕胎を試みる女子大生と、その手助けに奔走するルームメイトを独特のカメラワークで描いた。その時代から約30年経ち、革命を経たルーマニアを舞台にする今作は、娘の留学を成功させるために裏工作を計画する父親ロメロの年齢が、当時の二人(が老いた姿)と重なっている。終盤、自身の不倫に端を発する妻との別居、娘の暴行未遂事件と卒業試験への不正工作などに思い悩んで夜の街をさまようロメオの姿も、なんとかホテルで堕胎させたルームメイトから赤ん坊の投棄を泣きつかれ、夜半の街をさまよう女子大生と重なってみえる。あらゆることが変化したはずなのに、冷戦時代も21世紀も、ルーマニアの夜は暗く、不穏だ。
■ 「民主化に期待したから、帰国した。でも、だめだった。この国は変わらない。わたしたちは失敗した。お前はここにいてはいけない」ロメロは娘エリザに何度も右のように言う。それはムンジウによる現状のルーマニアを嘆く声と捉えるべきだろう。だが同時に、そんな父の干渉を突き放すエリザの描き方からは、明らかにされない試験の結果(実行されなかった不正)やそれがもたらす進路の選択(留学の取りやめ)も含めて、将来世代が変化することへの期待も見てとれる。退場する世代の焦燥やいらだちは、卒業の記念写真のために微笑む彼女たちには、どうだっていいことなのだ。
余談:それにしても、「この国は変わらない。お前はここにいてはいけない」というロメロの台詞が含意するものは、今や日本で子を育てる親たちにとっても、他人事ではないだろう。「日本スゴイ」と繰り返して慰撫されているような高齢者とは無縁のリアルとして、それは身近に迫ってくる事象である。まあ、子供をつくる気のないわたしにとっては、かかわりのないことだけれど…。
『哭声/コクソン』/ナ・ホンジン
劇場:シネマート新宿で。3月公開すぐ。
■ 洞窟の中、全裸で呪術に没頭する國村隼がCGでだんだんと悪魔に变化してゆくラストシーンは、冗長だった中盤をすべて吹き飛ばすほど強烈だった。追ってきた村人と同時にスクリーンの外にいる『我々=観客』の側にも向けられるカメラの呪いは、キリスト者であればまた違った恐ろしさがあるのだろうか。(スコセッシ『沈黙』のところでも書いたが)信仰を持たないわたしには些かコント的に感じられたのだけど、笑撃なのか衝撃なのか、判然としないことがむしろ画面の異様さを強めていたようにも思う。
■ ナ・ホンジンは、前作の『悲しき獣』で主人公が食事をするシーン(---殺しのために韓国へ密入国した直後、手引役の漁師宅で食べる白米、スープ、海苔、キムチの朝食や、次の真夜中、張り込みの最中に震えながら食べるカップラーメンなど)が本筋とは無関係な細部として妙に印象的だったのだけれど、本作でも同じように印象にのこるシーンがあった。警察官である主人公が殺人の報を聞き、現場に向かおうとする冒頭近くのシーン。「朝めしを用意したから食べていけ」母親が無理にそれを引き止める。「お前がめしを抜いたって死人は生き返りゃしない。だったら食べてからいきなさい」。しぶしぶ席にすわるかれの前にあるのは、白米と二、三種類のキムチ、海苔、魚など、惣菜とも言えないような朝餉なのだけれど、気もそぞろにそれらをほおばる男の姿は、なぜだかひどく五感に訴えかける。
■ わたしの観察するところ、それは多くの韓国映画(ギドクのところでも同じように書いた)にも共通してあり、欧米、特に西ヨーロッパの映画には乏しい要素なのだ(日本の映画には、中途半端にあると思う)。単に食事をしていればよいというものではないその魅力の正体が何なのか、具体的にどうすればよいかも含めて全然分かってはいないが、しかし、なんとかそれを自分のことばや写真でも作り上げられないものかと、前から思っている。
『午後8時の訪問者』/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
劇場:5月後半、公開終了寸前にヒューマントラストシネマ有楽町で。
■ 『エリザのために』の共同プロデューサーを務めていたダルデンヌ兄弟の新作も今年の公開。たまたまではあるが、比較のタイミングとしてはちょうどいい。
■ 主人公の女医ジェニーを演じていたアデル・エネルがとても魅力的。感情の起伏を出さず、抑制する中での表現が求められる難役を堂々と演じたその佇まいには、早くも大女優の風格さえ感じさせた。多いとは言えない台詞を低く発声するときのコントロールも見事で、一言一言が独自のリズムと空気を作り出していた(会話、にかんしては彼女以外の役者も巧みに演出されていて、劇伴を用いず構築された画面の中に、「アロ」「ボンソワ」などからはじまるフランス語の何気ないやりとりが、それ自体音楽的に響いていた)
■ ただ、不思議なことに、それほどにエネルがすばらしく存在しているにも関わらず、作品の全体としては些か輪郭がぼやけていて、迫ってくるものがないのだった。医療や教育から阻害される貧しいフランスの下層社会、そこでさらに心身共に搾取される移民というモチーフの現在的重要性、偶然の連鎖が悲劇を引き起こす物語を描くストーリーテリングの巧みさなど、ケチを付ける要素などほとんど無いにもかかわらず、「弱い」という印象はいまも拭えない。
■ おそらく、『完成』しすぎているのだろう。不足のない巧みさは、過剰な魅力や、人を惹きつける理由にはならない。ムンジウの『エリザのために』と比べたとき、よけいにそれが際立ってくる。
『セールスマン』/アスガルー・ファルハディ
劇場:公開すぐに、Bunkamura ル・シネマで。
■ 自宅での売春と、そこから因果がうまれる強姦未遂が物語を動かす重要な鍵となるのだけれど、まず、「イランには売春"も"存在する(できる)のか」ということが、素朴な驚きとしてあった。イランはいわずもがなのイスラム国家であり、そこで用いられる『シャリーア』(イスラム法)では、姦通、飲酒、売春、賭博などは5段階ある義務規定のうちもっとも厳しい『禁止』(ハラーム)に該当する。
■ 日本だってタテマエ上は管理売春が禁じられているし、一般論として倫理の規範と生活実態は一致せず、乖離するものだ。とはいえ、ホメイニの革命を経た超強硬な神政国家のイメージが強いイランで、作品が描くようにあけすけなかたちで売春が黙認---アパートの住人たちも、「あの女はふしだらな商売をしていた」と顔をしかめるだけ---されているというのは予想外だった。
■ 『犯人』だった運送屋の義父は、かなり長いあいだ前に住んでいた女と関係をもっていたようだし、同じアパートの住人である、主人公たちの劇団員仲間ババクも客だったことがにおわされている。非イスラムの環境にいると、イスラム国家における『売春』がいかなるロジックで正当(タテマエ)化されているのか、仔細には窺い知れないのだが、どうも男が賤業の女と関係を持つことは、未婚者の婚前交渉や既婚者同士の姦通にくらべ、法的にも信仰的にも、罪の度合いがだいぶ少ないという認識になっているようだ(このあたりのダブスタ倫理観は日本も似たようなところがある)。
■ 『セールスマン』では、上記のような、信仰と共に育まれた文化風習---とりわけ性的な規範---が主人公たちの行動を縛り、関係のすれ違いを生むことが主題化される。男/女の役割、男/女に課される禁忌はどんな文化にも存在するのだけれど、比較や程度の問題として、現代イスラム国家におけるそれは、明らかに他の宗教や政治体制を遥かに上回る威圧で市民を縛っている。
■ 「イスラムやイラン固有の問題ではなく、普遍的な主題なのだ。女性への抑圧という視点でみてほしい」パンフレットや告知のラジオ番組などでそんなふうに発言する学者や批評家もいて、「普遍的な主題である」式の指摘は教科書的には正しいのだけれど、物語には前述したような信仰と関係した文化の要素が大きくかかわっているのだし、「イランであること」を積極的にネグってこの映画を語ることにどれだけプラスの意味があるのか、わたしには分からない。「固有の問題」ではないが、問題の根源には間違いなく固有性が関係しているのだから。
(以上。観た順番に。次回は1~3位について)