(fig.1)秋本将人《ツヤと軽やかさが共存した揺れ感ストレートに視線が集中》(左上から右下: ホワイト, ブロンド, グレー, レッド, ブラウン, ブラック)(2013、鉛筆、ニュースプリント紙、29.7×21.0センチ)。*ヘアスタイル、タイトルに使用したフレーズは『大人のための美人ヘアカタログ〈2013年春夏号〉』(宝島社)を参考、引用
「モードは未来へと向かいつつも、定期的に過去へ立ち戻ってそこから糧を得ることからわかるように、過去と強い結びつきをもつ現象である。」
(M・G・ムッツァレッリ『イタリア・モード小史』知泉書館、2014年、5頁)
吉祥寺のA-thingsが今年の2月に閉廊した。A-thingsは2004年に活動を開始したコンテンポラリーアート系のギャラリースペース。ヴィンテージものの手芸材料を扱うファブリックショップA-materialsを併設する一方で、ギャラリーではオーナーの広川マチ子さんが信頼を置く作家を少数精鋭で紹介していた。一人の作家を長期展示でじっくり見せる方針が好きで、私も展示替えがあるたびに足繫く通った。「ここに行けば良い作品に出会える」と変わらぬ期待を寄せられるスペースの貴重さを思うと、閉廊はとても残念だ。再始動を楽しみに待ちたい。
たくさんある思い出のなかで特に印象的なのは、秋本将人のドローイング作品をA-thingsで購入したこと。2013年の個展「becoming」の折である。ふだん作品の購入は滅多にしないのだが、管理に困らない小品ということで購入欲・所有欲が刺激された。もちろん、ドローイング自体が魅力的だったことは言うまでもない。
ドローイングは女性のヘアスタイルをモチーフにしたシリーズの1点である。女性向けのヘアカタログを参照し、ショート~ミディアム~ロングまで様々な長さのヘアスタイルを、簡素な線でイラストレーション風にあらわした作品だ。
このシリーズは同じヘアスタイルの「カラー違い」が6種あり(ホワイト、ブロンド、グレー、レッド、ブラウン、ブラック)、6点1組を基本単位とする。もっともドローイング自体に実際に色が付いているわけではなく、カラーの違いは斜線の粗密によって記号的に表現される。斜線が多いほど暗い髪色で、少なければ明るい髪色というわけだ。
使用画材は鉛筆とニュースプリント紙。ごく身近な文房具=素材が、秋本の手にかかると軽やか且つスタイリッシュなドローイングに変貌する。ストレートヘアをあらわす流麗なライン、内巻きカールの気まぐれで装飾的な曲線。適度の色気と気品を備えた、魅惑的な線の絡み合い。同時にここには、同じヘアスタイルは寸分違わぬ描線で再現する機械的な正確さもあり、すべてのドローイングが一定の完成度を保っているのは反復的な手の修練の賜物なのだと感じさせる。
ヘアカタログ掲載のモデルを忠実に写すこと、すなわちレファレンスを制作の原理とすること、それから、カラーを斜線に置換して図像に無機質で均質なレイヤーを被せること。こうしたルール設定は「自由な」描写を拘束し、描き手の個性、手癖、創意といったものを、限りなく零度に近づける。個性をよしとする芸術家の制作物というよりは、同一モデルの大量生産に無私で取り組む職人の仕事に似ているかもしれない。work/productのあわいに位置する不可思議な様態。
秋本はかつて、「絵画、そして「わたしたち」は可能か?」と題されたテキストで次のように語っていた。
「いつまでも中心にはたどり着かず、ぐるぐると周りを漂い続けるもの。そもそも中心というのは、浮遊する運動が渦を巻きはじめたときに立ちあがってくる、想像的なものではないでしょうか。しばしば「髪」をモデルにそう考えます。身体のまわりに埃のようにまとわりついて、生きているのか死んでいるのかさえわからない存在なのに、どういうわけか無関心ではいられない。身体のもっとも周縁に位置していて、あたかも額縁のように振る舞いながら、その人物の内側にあるとされるキャラクターを想像(創造)させてしまう力をもっています。」
(『ART CRITIQUE』n.02「知と芸術のレゾナンス」2012 spring、18頁)
そう、髪の毛は不思議なパーツだ。人体から切り離されれば成長をやめるが、それ自体でもイキモノ的存在感を充分にもつ。しかも秋本の描くヘアスタイル画には顔がない。個性の徴しとなるのは容貌ではなくスタイルなのだ。そして、スタイルも量産されれば、担保されていたはずの個性は死に向かうだろう。周縁をぐるぐる取り巻くただの装飾、文彩としてのヘアスタイルは、ポップな外観の背後に空虚な香りを漂わせている。
秋本のヘアスタイル画は、タイトルもまた装飾的だ。たとえば私が購入したドローイングのタイトルは、《ワンカールの重なりで愛され指数が上昇!》。また別のドローイングは、《ツヤと軽やかさが共存した揺れ感ストレートに視線が集中》《ふんわりシルエットでシネマ女優のようなキラめき》等々(このような名付けの操作を見ると、モードの文体を研究したロラン・バルトの仕事を思い出す)。女性誌から引用した独自の言い回しが作品の周縁を冗長に取り巻く。作品の「中心」から離れ、大きく迂回すること自体が目的であるかのように。
面白いのは、このドローイングシリーズの支持体がニュースプリント紙であることだ。ニュースプリント紙とは、いわゆる藁半紙、ガリ版紙のこと。上質紙に比べると質は劣り、表面がざらついているが、安価なために印刷紙として使用されることが多い。ひと昔前は学校の配布物などによく使われていたので、ニュースプリントに郷愁を覚える世代の人々もいるだろう。その名の通り、ニュースを大量に刷ってばら撒くのに適した紙と言えるが、ニュース(news)という語のもつ新しさのイメージに反し、紙色が薄茶色でやや煤けているのが特徴だ。
作家は短期間で変色が進むこの紙を、あえて選択した(私がドローイングを購入したとき、オーナーから「日光に当たると色が変わりやすい紙だが、それもコンセプトのひとつ」と説明を受けた記憶がある)。つまりこのドローイングは、ヘアスタイルによって表象されているモードの時間に対し、物質の経年劣化という別のテンポを導入しているのだ。あるいはこうも言えるだろう。すぐに変色するニュースプリント紙は、やがて廃れゆく流行をあらかじめ予告する素材なのだ、と。モダニズムが標榜する「新しさ」という価値観に対抗(退行?)する、ささやかな異議申し立ての態度がここに認められる。
久々にじっくり眺めてみたドローイングは、なるほど確かに、4年前の購入当初より紙色がくすんだ感じがしなくもない。だが、もちろんこうした変化は、作品の新鮮味が薄れたことを意味しない。鉛筆という、筆圧や線の勢いを率直にあらわす描画材だからこそ、画家の経験値を通して出力される描線は、活き活きと美しく映える。視知覚を更新させる歓びを、いまなおこのドローイングは供してくれる。「良い作品」の指標のひとつが、「あたかも初めてその作品を見たときのような感覚」を、「何度となく」思い出させてくれるか否かにかかっているとしたら、秋本のドローイングは紛れもなくその条件を満たしている。
個展会場となったA-thingsが、ヴィンテージ生地を扱うショップA-materialsを併設していたことを思い起こそう。このショップには、オーナーが海外から買い付けたカラフルな生地や布製品がいつも揃っていた。ヴィンテージを愛し、古き良き素材を発掘すること、それはリヴァイヴァル(revival)の精神である。この語を分解すると、re-(再び)+vive(生きる)+-al(性質)となる。同様に、秋本のドローイングにおける描線も、劣化していく物質に再び命を吹き込む作用をもつ。そこでは、懐かしさと初めての感覚が、きっと何度でも呼び覚まされるはずだ。
日常のスピードはとても速く、無数の作品が生まれては消費され、すぐに忘れ去られていく。だが本来、作品の受容は、もっとゆっくりとした時間のなかで成されるはずではなかったか。私たちは作品を見つめ味わう没入的な時間のなかで、現実の時間とは異なるテンポを生きることができる。現在を生きるスピードを少し緩めて過去を振り返り、A-thingsの思い出と作品についての記憶を掘り起こしながら、そのようなとりとめのない連想に耽った。
(※ fig.1~4の画像は秋本将人さんにご提供頂きました。この場を借りてお礼を申し上げます)。