---『回花歌』梗概---
舞台は2000年代、とある大陸の西方にある街。"私"と家族は牛肉麺屋を営んでいる。街は、かつて核実験が行なわれていた土地のすぐ近くにあり、その影響を暗に示すような出来事が、家族の周囲ではいろいろと起きている。しかし、"私"と家族を含め、街の人々は核や原子力に対する正しい知識や情報を持たず、故に恐れを抱くこともない。彼らは宗教と自身の信仰心を大事にし、家族や親族、友達を大事にして生きている。「何かがおかしい」と感じられるような状況下でも、人々の生活は変わらずに続いてゆく。『回花歌』は、そんな物語である。
 


1--- "朝"』より続く)

2--- "噂"


 店のメニューは牛肉麺のみで、他には馬鈴薯や胡瓜の惣菜をつくる日があったりなかったりする。注文は前払制だ。長い間、陽射しにさらされて、すっかり色褪せてしまったレジスターが出入口の脇にあり、そこには父がいつも立っていた。
 父は客から代金を受け取ると、麺の太さや牛肉の量などの細かい注文を聞き、金額や数量をレジスターに打ち込む。するとレジスターからチーンと大きな音が鳴り、下からは勢いよく抽斗が、上からはドッドッドッドッと低い音をたててレシートが出てくる。父は代金を抽斗に入れたあとレシートを切り、細かい注文内容をレシートの余白に書きつけて客に渡す。客は、それを店奥にある厨房前のカウンターで作業をするライヒに渡す。すると、ライヒは注文内容を大声で読みあげる。

「細麺、牛肉多め!」

 注文が入ると、兄は一食分に丸めておいた生地を銀色のバットからとりだし、麺を素早くこしらえ、湯を張った鍋の中に放りいれる。麺が茹であがると母が碗に盛り、ライヒに渡す。そこにライヒは、牛尾のスープを大きなおたまで注ぎ、刻み葱とサイコロ状の牛肉をのせ、膜を張るくらいラー油をたっぷりかけたら、カウンターの上に置き「牛肉麺!」と叫ぶのである。


 店はセルフサービスではない。しかし、客は、カウンター付近でなんとなく列をつくりながら出来上がりを待っている。そして、麺が出来上がると客が順番に持っていくため、次から次へとカウンター上の牛肉麺は姿を消していくのであった。

 朝9時を過ぎると、いよいよ客足が途絶えはじめる。店内にも峠を越したという雰囲気がなんとなく漂う。そのころになると父は、瓶コーラを入れる黄色いプラスティックケースに腰かけて、大きな安堵の息をつき、レジスターの抽斗に煩雑に入れられた紙幣や硬貨を整理すると同時に数えはじめる。厨房にいる兄や母、ライヒもまた麺生地の残りを数えたり、少なくなった鍋の湯を追加したり、葱を刻みはじめるのであった。
 私は、昼の混雑時に向けて店内清掃をしたり、テーブル上の調味料を補充したりする。呆れるほどに汚れた床を箒で掃き、客が落としていった様々なゴミを一箇所に集めて塵取りで取ったあと、ゴミ箱にそれを捨てる。そうして次は、濡らしたモップで床の汚れを拭いとるのである。それが終わると今度は濡れ布巾でテーブルの上を1卓ずつ丁寧に拭いてゆくのであった。



 テーブルの上には牛肉麺を食べるときに客が好みに合わせて使えるよう、黒酢と辛味の入った瓶が置かれてある。開店前には瓶いっぱいに詰められた辛味は、朝の混雑が終わる頃、そのほとんどが空になる。
 辛味の補充のために瓶を一旦さげようとしたが、ストックが今朝切れたことを私は思い出した。そのことを告げると、父は長い黒服のポケットから掌よりも小さな二つ折の携帯電話を取り出し、辛味屋に連絡を入れた。10分後、辛味屋の店主が、茶色のダンボール箱を抱えて配達に来た。そこには辛味がみっしりと詰められた瓶が20本入っていた。箱をひらくと、挽きたての唐辛子や花椒、八角などのよい香りがふわりと漂ってきた。1、2、3と数えて瓶が20本あることを確かめると、父はレジスターの抽斗を開けて代金を取りだし、その端をピッと弾いて、お札の枚数を確認してから店主に渡した。



 しかし店主は、代金を受け取っても帰らず、靴屋の旦那が亡くなったことを知っているかと父に尋ねた。噂には聞いているとだけ父が返すと、店主は誰かに話したくてうずうずしていたのだろう、矢継早に話しはじめた。


 「ついさっきも別の客と、先週亡くなった靴屋の旦那のことを話していまして。なんでも旦那は亡くなる前の2週間、下痢や頭痛が止まらなかったそうなんですが、その原因が全然わからないらしいんですよ。思い当たるのは、侵入禁止地帯で旦那が薬草を摘んでいたとき、あの、きのこみたいな雲が、また地上から現れて、そのあとに吹いてきた突風に耳を塞ぐのを忘れたくらいだそうで。まあ、以前街にいた、あの医者は、きのこ雲が現れた後に風が吹いたら耳を塞げとかなんとか言っていましたけど、まさかそれで死ぬわけも無いだろうと街の噂になっていますよ。じゃあ、原因は何かっていうと感染症じゃないかなんて、みんなは言ってますけどね。」
 

 父は辛味屋の話に対して適当に相槌を打ちながら、レジスターの横にある硝子のショーケースに並べられた惣菜の皿を綺麗に陳列したあと、鍋にストックしておいた馬鈴薯と人参の和え物をいくらか皿に盛り、ケース内に補充した。厨房にいた兄と母、ライヒは、来週から始まるラマダンについて何人かの客と話していた。だから、辛味屋の話を聞いていたのは、店では父と私だけで、そのうえニヤニヤと辛気臭い顔で辛味屋が話すものだから、私達の雰囲気はことのほか沈んだ。

 私は新しい辛味の瓶を箱から取りだし、テーブルの卓上瓶へと補充をはじめた。4本使ったところで、残り16本はストックしておくことにした。兄と母、ライヒは、客たちとまだ話をしていた。そのときは、ある1人の客の、大学に通っている娘がラマダン中は空腹が酷くて、学校の勉強が全く頭に入らないと言っていることを面白おかしく話している最中であった。私もなにげなくその輪に加わって笑ううちに、辛味屋から聞いた妙な話の記憶は薄れていった。父は、黄色いケースを出入口のあたりに置いて、そこに腰かけ、店前の人通りをぼんやりと眺めていた。
 
 路上を自動車やバイクが猛スピードで通るたび、乾いた風が乾いた土埃を吹き上げた。そのせいで、交通量の多いバスターミナルの出入口付近は、つねに砂埃が大きな円を描きながら舞っていた。



(3へ続く)