"Witchenkare" (撮影:東間 嶺、以下すべて同じ)
告知---『Witchenkare/ウィッチンケア』vol.8
■ 先月末に公式アカウントからもお知らせしている通り、今年も『Witchenkare』にごく短い小説を寄稿した。タイトルは『生きてるだけのあなたは無理』というもので、文字数は前回の7号(3200字)より少し増やしてもらって、5000字弱。原稿用紙換算、というやつなら12枚半になる。
■ どのようにすれば買えるか。下に示す二択がある。
- 当然ながら、無敵のAmazon帝国を訪問するのがもっとも簡単で、しかもこのエントリを経由をすると、どうやらわたしに〈アフィリエイト〉収入というやつが入る仕組みになっている。
- 都内に住んでいる人、あるいは「税金逃れの反日Amazonは許さない!」などの強い信念を持っている人なら、出かけた先の大型書店を探せばおそらくは買うことができるし、その場合は店への売上として貢献、ということになる。
■ どちらにしても、わたしの書くものに何かしら関心がある人たちには、金銭とココロに余裕のあるときにでも思い出していただければ幸い、といったところです。
■ 毎年書いているこの告知エントリは今回で四回目になり、下のように四冊ぶんの表紙を並べると、経過した時間と、書いてきたテキスト、そして自分の意識がどう変遷したかの関係性が反省的に思い返される。当たり前だけれど、そうした積み重ねがわたしという人間をつくっている。継続することは大事である(発行者の多田さんへ目配せ)。
(左から) Witchenkare(ウィッチンケア)第5~8単行本(ソフトカバー)
『生きてるだけのあなたは無理』
■ このエントリは、わたしの小説が載ったことの〈告知〉、つまりお知らせを目的にしているものではあるけれど、以下には適当な内容の梗概などではなく、それが書かれるに至った背景について、少しだけ長く書く。
■ 『生きてるだけのあなたは無理』というタイトルは、文藝誌をよく読むという変わった人なら、「本谷有希子のパクリですよね?ばれてますよ」といった指摘をするかもしれない。わたしは小説家としても演劇人としても本谷有希子より岡田利規がずっと好きだし、本谷の『生きてるだけで、愛』は読んだことすらないのだけど、あのタイトルには惹かれていたし、影響はされている。
■ とはいうものの、このテキストの内容自体は本谷といっさい関係がない。本谷ではなく、上野千鶴子という社会学者が『現代思想』2016年10月号で発表したエッセイ、『障害と高齢の狭間から』を読んだことが直接のきっかけとなっていて、作品中にも引用としてそのまま組み込んでいる。10月号の現代思想では、7月に起きたいわゆる『相模原事件』が特集され、上野以外にも、生命倫理や哲学に関与するさまざまな論者が貴重な知見を提供する論を寄せていて、全体としてとてもよい内容だった。
■ 上野のエッセイは、その中でわたしがいちばん刺激を受けたものというわけではなかったのだけど、彼女が講演でぶつけられた質問だとして引用された以下の一文は、わたしにきわめて強い印象と映像的なイメージを与え、小説という形態でそれを具現化する欲求を起こさせた。
ケアにかかわる講演会で、こんな質問を受けたことがある。健康で溌剌とした高齢者が、大きな声で「八〇歳以上の重度介護を必要とする老人を処分することはできないか」と発言した。その人はたしかに「処分」と言った。限られた国の予算を効率的に配分するためにも、もう死ぬことがわかっている重度要介護者に資源配分するのはムダだ、と。七〇歳代とおぼしいその男性 ―― こういう発言をするのは、決まって男性だ ―― は、自分が八〇代になることも、重度の要介護になることも想像していないのか、と、わたしは彼の顔をまじまじと見つめた
■ 老人が老人(上野のこと)に向かって、死期が迫った身体の悪い老人たちを合法的に死なせる、というか殺せる方法はないかと真面目に問いかけ、しかもそれは【ケアにかかわる講演会】で起きた出来事であるという。
■ ケア、という英単語の意味をGoogleで検索してみると、【気にかかること、心配、気がかり、不安、心配事、心配の種】(weblio英和時点・和英辞典)などと出て来る。上野の目には、質問者が気にかけているのは国が保証する再分配の多寡に関することで、より下品な表現をすれば「おれの分け前」にかかわることだと映ったようだが、健康な老人が社会の将来や再分配に不安を抱いたとして、その人なりに倫理観を点検し、知能を働かせた結果、「よし、じゃあ」と思い浮かんだ結論というのが、体が悪くて金のかかる老人を合法的に死なせる/殺すという考えだった。
■ 加えて、老人は、死なせる/殺すことについて、〈処分〉という表現をしたと、上野は断言する。
健康で溌剌とした高齢者が、大きな声で「八〇歳以上の重度介護を必要とする老人を処分することはできないか」と発言した。その人はたしかに「処分」と言った。
その人はたしかに「処分」と言った。
■ 〈処分/ショブン〉とは、いつから人の生命を扱う局面で用いられる言葉になったのだろうか。【健康で溌剌とした高齢者】がその表現を選んだ思考の機序には、何か大きな飛躍があるのではないか。
■ 殺す、ということだけなら、手のかかる老人を死なせる/殺すという発想というものは昔から日本の社会にはあったし、いまだって、多くのニッポンジンがフツウに持っている感覚だろうと思う。
■ ここでいちいちを上げることはしないが、例として、高齢者の介護を専門で扱う規模の大きなサイトにも、「このままでは負担が限界を超える」「財政破綻は見えている」といった論調の記事がよくアップロードされているし、高齢の著名な脚本家が、「自分は安楽死を望む」と週刊誌に書いたことを引き合いに出しながら、それなりに知名度のある作家が、以下のように、ほとんど脅しに近い要旨の主張を平然としてもいる。
数十兆円に及ぶ巨額の支出を賄うことができなければ、いずれ高額の医療費は自己負担とされ、高齢者の安楽死が国家の主導で進められることになるかもしれない。そのような事態になる前に、国民が自らの意思で「人生の自己決定」のルールを決めるべきだろうが、話題になるのはエンディングノートや遺言の書き方、相続を争続にしないための財産分与、葬儀や墓、戒名を自分で決める方法などの「終活」ばかりだ。
日本社会はずっと、安楽死というやっかいな問題から目を背け、縊死(いし)や墜落死、一酸化炭素中毒死などのむごたらしい死に方しかできない現実を放置してきた。そして人々はいまも、お上が「まわりの迷惑にならないよう」いかに死ぬかを決めてくれるのを待ち続けているのだろう。
■ 「そのとおり、これまでも老人は殺されてきたし、多くの人間は〈老人〉になることさえ難しい世の中だった。いまはみな老人になり、ばかりか死に方を考えられる。まったく豊かで平和でビューティフルなニホンではないか」そんな物言いをすることは可能だろうし、部分的には当たっているようにも思う。
■ しかし、再度書くが、〈処分〉とは、単に人を死なせる/殺すこととは別の次元に位置する言葉だろう。マス(集団)を対象にした、無機的な不気味さがそこにはある。
■ 加えて、そもそも〈処分〉という言葉が使われる意識の上では、〈老人〉あるいは〈障がい〉が問題の根本なのだろうか?わたしにはどうも、そうではないように感じられる。要するに、社会への負担という感覚、あるいは実質が問題にされている。つまり〈無駄〉ということが。
■ そこでは費用対効果が悪いとか、さまざまな意味で〈能力〉が足りないとか欠けているとされる存在は、無駄を生み出す〈罪〉として糺される。いまの日本社会は急速にそうした不寛容の傾向を強めていて、要介護度の高い高齢者や重身の障がい者には〈罪〉が見えやすい形で表れているから、【処分できないか】といった発言が飛び出すし、もっとも極端なケースとして、相模原事件のようなことが起きたりもする。
〈足りていないもの〉は無駄であるということ
「障がい者に使われているお金をなくして、世界にお金が回るようにしたい」
■ 相模原事件の犯人だとされる植松聖は、友人に上のように語ったと報道されている。その言葉はとりあえず植松個人によって発せられたものではあるが、いまの社会に蔓延する苛立ちの気分みたいなものを色濃く反映しているとわたしは思う(植松の発言には反発と同時にウェブを中心に多くの賛同も寄せられ、社会における優性思想の蔓延として、『現代思想』でも複数の論者が取り上げていた)。
■ なぜ障がい者に使われる金をなくしたいのか。無駄だからだ。なぜ無駄か。生み出す金、あるいは価値より使われてゆく金がずっと多いからだ。
■ そして、すでに書いたように、〈障がい者〉には色々なものが代入可能だ。いまのところ、もっとも分かりやすい事象として、生活保護受給者に投げかけられるさまざまな罵声というものを例示できるが、能力の不足、あるいは欠如が原因で、金か、金に代えられる何かを生み出さないまま社会から再分配を受けていると見なされた存在なら、なんでも、誰でもが対象になりえる。不足や欠如は多くの場合、相対的な程度問題になるわけだから、構造上、常に〈足りていない者〉は生み出され続ける。どこに線を引くかの違いがあるだけだ。
■ 上野のテキストが載った現代思想の特集で、日本の法学会におけるナチスの安楽死政策の受容と議論を再整理した大谷いずみは、アーレントの有名な著作から、そのことについて問うている。
■ なぜ障がい者に使われる金をなくしたいのか。無駄だからだ。なぜ無駄か。生み出す金、あるいは価値より使われてゆく金がずっと多いからだ。
■ そして、すでに書いたように、〈障がい者〉には色々なものが代入可能だ。いまのところ、もっとも分かりやすい事象として、生活保護受給者に投げかけられるさまざまな罵声というものを例示できるが、能力の不足、あるいは欠如が原因で、金か、金に代えられる何かを生み出さないまま社会から再分配を受けていると見なされた存在なら、なんでも、誰でもが対象になりえる。不足や欠如は多くの場合、相対的な程度問題になるわけだから、構造上、常に〈足りていない者〉は生み出され続ける。どこに線を引くかの違いがあるだけだ。
■ 上野のテキストが載った現代思想の特集で、日本の法学会におけるナチスの安楽死政策の受容と議論を再整理した大谷いずみは、アーレントの有名な著作から、そのことについて問うている。
(…)この種の殺害はいかなる集団にも適用できる、つまり選択の基準はもっぱらその時々の要因に応じてどうでも変るということはあきらかである。近い将来経済オートメイション化が完成した暁には、知能指数が或るレヴェル以下の者をすべて殺してしまおうという誘惑に人間は駆られないものでもない(…)近代の人口の爆発的増加と、オートメイションによって人口の大きな部分を労働力の点から言っても〈過剰〉にする技術手段の発見とは時を同じゅうする。しかもこの技術手段は核エネルギーによって、ヒットラーのガス殺設備もそれにくらべれば子供のおもちゃみたいに見える道具を使ってこの過剰人口の脅威を解決することを可能にする
■ 【知能指数が或るレヴェル以下の者をすべて殺してしまおうという誘惑】と、【「八〇歳以上の重度介護を必要とする老人を処分することはできないか」】と発想してしまうことのあいだに、本質的な差はあるのか、ないのか。
■ おそらく、なにが違うかを躍起になって言い立てるより、何が同じなのかを考えた方がよいのだと思う。誰しも脊髄反射的な感情のレベルでなら、自分が見下していると同時に許容できないものに対してひどく残忍だし、そこそこ気軽に「こいつ、死ねば良いのにな」とか思ってしまったりする。殺す、のではなく「消えてくれ」という感覚。そこから〈処分〉までの距離は、遠いようで近い、のかもしれない。
■ おそらく、なにが違うかを躍起になって言い立てるより、何が同じなのかを考えた方がよいのだと思う。誰しも脊髄反射的な感情のレベルでなら、自分が見下していると同時に許容できないものに対してひどく残忍だし、そこそこ気軽に「こいつ、死ねば良いのにな」とか思ってしまったりする。殺す、のではなく「消えてくれ」という感覚。そこから〈処分〉までの距離は、遠いようで近い、のかもしれない。
■ それで、考えた結果の経緯として、とりえずわたしはなにごとか(小説)を書こうと思った。書いて、書き終えたものに、何か結論が出て/出せているわけではないし、単に現時点でわたしが感じたり考えたりしていること(主題)が「マックで女子高生が」式のお話として不十分に作り上げられているだけのことではある。
■ だけのことではあるものの、表現者にとって、生きている自分が世界に対してヘンだとかおかしいと思う/感じること(主題)は何らかの方法で具現化させなくてはならず、それは、主題に対峙(批評)する態度/抵抗そのものだ。その意味で、今回の短い小説への取り組みは、単純な出来不出来を超えて、わたしにとっては、とても大きな成果があるものだった。
■ 言葉をこねくりまわすことによってしか輪郭を明瞭にできないものはあり、ぼんやりとではあれ解像されてきたその主題を、わたしは、これからも繰り返し繰り返し、扱っていくつもりでいる。
■ だけのことではあるものの、表現者にとって、生きている自分が世界に対してヘンだとかおかしいと思う/感じること(主題)は何らかの方法で具現化させなくてはならず、それは、主題に対峙(批評)する態度/抵抗そのものだ。その意味で、今回の短い小説への取り組みは、単純な出来不出来を超えて、わたしにとっては、とても大きな成果があるものだった。
■ 言葉をこねくりまわすことによってしか輪郭を明瞭にできないものはあり、ぼんやりとではあれ解像されてきたその主題を、わたしは、これからも繰り返し繰り返し、扱っていくつもりでいる。
補遺:貧困と高齢の狭間で
■ 最後に、補足というか追記として、二ヶ月ほど前に上野千鶴子をめぐって発生した論争についても、少しばかり書いておこうと思う(ちょうど作品が佳境のときにそれは発生して、不思議さというか、めぐり合わせ、みたいなものを感じたことは覚えている)。
■ 知っている人は知っていることとして、2月11日の東京新聞に、上野も登場する『この国のかたち 3人の論者に聞く』というインタビュー記事が載り、その中で彼女が行った発言に対して各方面から大きな非難が浴びせられ(中には公開質問状を出す団体もあった)、後日にブログで上野本人が応答を発表するという出来事があった。
■ ブログまで含めた上野の主張は、暴力的に要約すれば以下のようになる。インタビューの見出しには、【平等に貧しくなろう】という言葉が掲げられた。
「日本はこれから訪れる人口減社会を受け入れ、低成長経済のなかで再分配を重視する社会民主主義を目指すべきだ。人口規模の維持を目的にした移民の解禁は、排外主義を煽り、雇用や性差別などに見られるさまざまな不平等の解消を困難にするだけなので、やめたほうがよい」
■ 人の流入を調整することで再配分の対象を絞り、福祉国家の側面を強めること。移民は国内問題の歪な押し付け先になるから反対だということ。それらの主張は、理屈の上でなら、保守的ではあっても別段エキセントリックなものではないし、批判する側の立場は立場ではっきりとしているし、対立の構図としてはわかりやすい。あくまで、理屈の上では。
■ けれども、インタビューが問題視されたとき、わたしが気になったのは、人権と再配分を目的にした上野の主張が、むしろ逆の事態を加速させるのではないか、ということだった。【平等に貧しくなろう】という、分かち合いを目指すために決める〈範囲〉の限定が、むしろ範囲内におけるより根深い分裂と人を死なせる行いの誘発を招く可能性を。
■ インタビューに応えながら、あるいは〈弁明〉と非難されたブログを書きながら、上野は自身に講演会で質問してきた【健康で溌剌とした高齢者】の姿を思い浮かべなかったのだろうか。人の出入りが制限された衰えゆく社会で、人々へ「ビョードー ニ マズシク ナローッ」と呼びかけて、「ナルホド!」とうなずいてくれると本気で思っていたのだろうか。ニッポンジンは、というかニンゲンはそんなに美しくも優しくもない。
■ 「まずお前から消えてくれ」それが、返ってくる言葉だろう。彼女の想像よるはるか斜め上で、世界は軋んでいる。
■ けれども、インタビューが問題視されたとき、わたしが気になったのは、人権と再配分を目的にした上野の主張が、むしろ逆の事態を加速させるのではないか、ということだった。【平等に貧しくなろう】という、分かち合いを目指すために決める〈範囲〉の限定が、むしろ範囲内におけるより根深い分裂と人を死なせる行いの誘発を招く可能性を。
■ インタビューに応えながら、あるいは〈弁明〉と非難されたブログを書きながら、上野は自身に講演会で質問してきた【健康で溌剌とした高齢者】の姿を思い浮かべなかったのだろうか。人の出入りが制限された衰えゆく社会で、人々へ「ビョードー ニ マズシク ナローッ」と呼びかけて、「ナルホド!」とうなずいてくれると本気で思っていたのだろうか。ニッポンジンは、というかニンゲンはそんなに美しくも優しくもない。
■ 「まずお前から消えてくれ」それが、返ってくる言葉だろう。彼女の想像よるはるか斜め上で、世界は軋んでいる。
参考資料