これはJohn Rawls, Political Liberalism, Columbia University Press, 1993, pp22-28の翻訳である。
第一。原初状態の観念をここで取り上げよう(原註25)。この観念は、正義の伝統的な諸構想、或いは、それら構想の一つとは違って、いったん社会が自由で平等な市民が協力する公正なシステムとみなされたとき、自由と平等を実現するために最適な原理を明記するものを解決するために導入された。だとすれば、正義の構想がなにをなすのか、またなぜ原初状態の観念を導入し、その問いに答えるのに原初状態がどう役立つのか、知りたくはないだろうか?
社会的協力の観念をよくよく検討してみる。決定状態にある協力の公正な間柄とはどのようなものか? 単純に協力する人々とは異なる或る外部的な権威と定められたものなのか? それとも、たとえば、神の法として定められたものなのか? または、その間柄は独立した道徳的秩序の知識を参照することで人々によって公正であると認識させるのだろうか? その認識はたとえば、自然法によって獲得されるのか、それとも合理的制度によって得た諸価値の領域によって獲得されるのか? またその間柄は互いに有利であると見なされた周知において人々自身が互いの事業を確立するのだろうか? その答えを出そうとすれば、我々は社会的協力とは異なる構想を得ることになる。
公正としての正義は社会契約論を作り直し、最終回答の形式を採用する。社会的協力の公正な間柄は、そこに参加した者たちによって同意されたものと考えられ、それは、自分の人生を送る社会に生まれ落ちた、自由で平等な市民に由来している。けれどもその同意は、他の根拠ある同意と同じく、適切な条件下に入らねばならない。とりわけ、その条件は公正に人々を自由で平等たらしめねばならず、或る人々が他の人々よりも有利な取引を許してはならない。さらには、脅しや強制、詐欺やぺてんに相当するものは排除せねばならない。
第二。ここまでは順調だ。前述の検討はどんな人生にも当てはまる。ただし毎日の生活のなかの同意は、多かれ少なかれ明らかに基本構造を背景とする制度に埋め込まれた状況を明記して出来上がっている。けれども、我々の仕事は、その背景となる枠組みへの同意の観念を拡張することにある。社会的であろうともっと別の方法であろうと、契約の観念を用いることには正義のあらゆる政治的構想に由来する困難に直面する。困難とはこうだ。背景となる完全包囲的な枠組みの個別の事情と特色からは離脱するものの歪めはしない、達成可能な自由で平等とみなせる人々の間の公正な同意に由来する、或る視点を見つけねばならない、と。
私が「無知のヴェール the veil of ignorance」と呼んでいる特色を備えた原初状態は、その視点にほかならない(原註26)。原初状態は社会的世界の偶然性によって影響されずそこから抽象化されねばならない。というのも、社会的・歴史的・自然的な傾向性の積み重ねから来る、背景となるあらゆる社会制度の範囲内で不可避的に生じる有利な取引を除外してこそ、自由で平等な人々の間での政治的正義の原理についての公正な同意の条件となるからだ。それら偶然の有利や過去からのアクシデンタルな影響力は、未来に向かう現在での基本構造それ自体の制度の統制に影響を及ぼすべきではない。
第三。ここで二つ目の困難に直面する。ただし、これは表面上のものだ。すなわち、我々が言ったことに従えば、原初状態とは代表の仕掛けとして見られることは明白であり、それゆえに当事者たちが到達したどんな同意も仮設的であり、かつ非歴史的とみなされねばならない。けれども、もし仮設的同意を結べないときには、原初状態の意義とはなんなのか? その答えは既に述べたことに含まれている。つまり代表の仕掛けとしての原初状態の様々な特色の役割によって与えられているのだ。
もし当事者が公正であるという条件下で相互合意をする自由で平等な市民の代表者と見られるのならば、当事者は対称的に位置づけられて選択の余地がない。さらに、これは確信していいことの一つだと思うのだが、我々が事実として個別の状態に置かれているからといって、その個別状態での賛成がすなわち正義の構想であると自分たちのために主張したり、また他の個別状態を予期したり受け入れたりすることは立派な理由とはいえない。同じく、善の構想に関連する、個別の宗教的・哲学的・道徳的な包括的教義を我々が支持するからといって、その説得力への賛成をすなわち正義の構想であると自分たちのために主張したり、また他の個別の教義を予期したり受け入れたりしていい理由にならない。原初状態におけるこの信念は、当事者が彼が代表している社会的状態、ならびに互いの代表者の個々の包括的教義を知らないというモデルにある(原註27)。同じことは人民の人種、民族、生物的性差、文化的性差、体力や知力といった様々な生まれつきの資質、あらゆる通常の範囲にも広がる。当事者が無知のヴェールに隠れるということは、比喩的に情報についての制限を表現しているのだ。原初状態は代表の仕掛けである。仕掛けが描写するのは、立派な理由として全面に出せる適切な制限の条件において、公平に位置づけられて同意に達せる、自由で平等な市民の本質的利害関心に互いに責任をもてる者、すなわち当事者である(原註28)。
第四。述べてきた二つの困難をともに超えて、原初状態を代表の仕掛けと見ることで困難は打ち負かされる。つまり、自由で平等な市民の代表者と我々が――いまここで――公正な条件下とみなすモデルは、社会の基本構造の問題での社会的協力の間柄を明記する。そしてまたその問題のためにモデルを経ることで、全く別の正義の政治的構想に賛成する当事者を利用する理由を制約することを受け入れ、当事者が公正であると我々が――いまここで――みなし、最良の理由によって支持された正義の構想の証明を当事者は採用したくなる。
意図としては、市民の代表者としての当事者による同意形成への望みが完璧に明証的になる道筋において、自由と平等を兼ね備えて、かつ理由を制約するモデルに原初状態を利用することにある。確実にできるし、同じくすべきでもある利用可能な正義の構想の賛成反対理由は、まだ一つの構想だけを完全に賛成するほどの理由の全体的バランスになっていないのしれない。代表の仕掛けとしての原初状態の観念は公共的に省みることと自分を清廉潔白にすることの方法として役立つ。つまり、ある世代と次の世代の間での自由で平等な市民の協力の図式として社会を考えるとき、一旦、正義が命じる潔白で障害のない観点をとれることが我々がいま考えている解決の助けになる。どんな一般性のレヴェルでも――当事者位置づけ、理由の道理のある制約、第一原理、道徳的な教え、個別の制度や行状に関する判断のための公正な条件に関係しようがしまいが――互いに子を産むことができるのだから、原初状態は我々みなが考える信念によって調停された観念として仕えている。これは我々のあらゆる判断よりもずっと長く一貫して確立することができ、しかも深い自己理解とともにより広い互いの同意に到達できるのだ。
第五。原初状態にあるような観念を導入したのは、現行社会の基礎的観念と自由で平等とみなされる市民間の公正な協力システムに由来する基本構造のための正義の政治的構想を洗練させる道と同様にみえるからだ。とりわけこれが明証的にみえるのは、我々が考えている社会というのが、幾世代にもわたるものとして、そして、過ぎ去った先行者に由来する公共的文化と現存している政治的社会的制度(これに伴う実物資本と天然資源の蓄え)を受け継ぐものと考えているからだ。しかしながら、この観念を利用するには或る危険がある。つまり代表の仕掛けとしてのその抽象性は誤解を誘うのだ。とりわけ、当事者の描写は人の特別な形而上学的構想を前提としているようにみえる。たとえば、人の本質的自然=本性は、最終目標、愛着、さらにいえば善の構想や統一体としてのキャラクターといった、その偶然的な属性から独立し先行している、というように(原註29)。
これは代表の仕掛けとしての原初状態を理解しないことが原因の錯覚であると私は信じている。無知のヴェールは、原初状態に顕著な特色に言及するために、自己の自然=本性に関係する具体的でない形而上学的な含意をもつ。当事者が知から締め出されているという人々についての事実よりも自己が存在論的に先行しているということを意味しているのではない。いわば、情報の列挙された制約をともなった調和において正義の原理の推論から、いつでもその状態に入れるにすぎない。この道筋において、原初状態内存在をシミュレーションしてみれば、我々の推論は、マクベスやマクベス夫人よろしく、我々が政治的権力をめぐる死に物狂いの争闘に縛られる王や王妃と考えることに加担して、劇中で役を演じること our acting a part in a playがないのと同様に、自己の自然=本性についてのとりわけて形而上学的な教義には加担しない。社会的協力の公正なシステムとしての社会の観念をどういうふうに見せようとすればいいのかを覚えねばならず、彼らが市民、即ち自由で平等な人々とみなされたときに、基本的な権利と自由とその協力のために最適な平等の形式を見つけ出す展開が可能になる。
第六。原初状態の観念を概説した。誤解を避けるためにつけ加えておく。これは三つの視点を区別するのに重要だ。すなわち、原初状態での当事者の視点、よく秩序づけられた社会での市民の視点、そして最後に我々――公正としての正義を洗練させ、正義の政治的構想を吟味している貴方と私――の視点だ。最初の二つの視点は公正としての正義の構想に所属しており、その基礎的な諸観念の参照によって明記されている。
よく秩序づけられた社会の、そして自由で平等な市民の構想は我々の社会的世界においてもしかすると実現されるかもしれないが、正義の原理に同意することで社会的協力の公正な間柄を明記する合理的な代表者としての当事者 partiesは原初状態の一部 partsにすぎない。原初状態は公正としての正義を解決せんとする貴方と私によって立ち上がるのだから、当事者の自然=本性も我々次第であるのだ。当事者というのは代表の仕掛けに宿る人工的な被造物にすぎない。公正としての正義は、当事者の熟考や我々が彼らに帰す動機を、現実の人々であれ秩序づけられた市民であれ、その道徳的な心理学の評価のために間違えるならば、悪い方に誤解される(原註30)。合理的自律性(Ⅱ:5)を完全なる自律性(Ⅱ:6)と混同してはならない。後者は政治的理想であり、よく秩序づけられた社会のより完成さえれた理想の一部である。合理的自律性はそのようなものではなく、理想的ではないが、原初状態における(道理にかなったもの the reasonableに対して)合理的なもの the rationalの観念をモデル化する道である。
第三の視点――貴方と私の視点――は、評価の済んだ公正としての正義と現実の他のあらゆる政治的構想から来るものだ。ここには反照的均衡 reflective equilibriumのテストがある。せざるを得ない調整と修正を一度したうえで、相応の吟味を経て、我々の政治的正義のまだ強固な信念と全体的な視野をどう上手くつなげばいいのか。この基準に届いた正義の構想は、現在確認できる限りでは、我々にとって最も道理になかったものである。
(原註25)『正義論』の第三節と第四節、そして第三章を参照せよ。勿論索引も。
(原註26)無知のヴェールについては、『正義論』の第三節と第二四節と索引を参照。
(原註27)無知のヴェールが薄くないと考えるかぎり、当事者が人民の包括的教義を知ることを許してはならない(この対照は「カント的構成主義」[1980、pp.549f]で議論した)。多数の人々によって無知のヴェールは正当化することなく考えられ、その根拠に疑問が呈され、とりわけ包括的教義の大きな意義が与えられた。原初状態の特色を我々が正当化、少なくとも説明することを経て、次のことを考えることができる。最初に定めた問題を思い出そう。とりわけて政治的に自律する、自由で平等な市民間の公正な協力のシステムとしてみなされる民主的な社会のために正義の政治的構想を探し出す、ということだ。しかしながら、問われている社会とは完全に道理にかなっている包括的教義の多様性のなかの一つなのだ。これが多元主義それ自体(第六‐二節とⅡ:3)に対する、道理にかなった多元主義の事実である。もし市民が正義の政治的構想を裏書きするのに自由であるなら、構想は道理にかなった諸教義の重合する合意において、道理ある包括的教義を考えることに反対して別様に主張する市民の支持を得ることができなければならない。これが示唆しているのは、民主的な社会の公共的政治的文化から引き出される様々な基礎的観念によって発生するとみなされる正義の政治的構想の中身と人民の包括的教義がどのようにつながるのか、ということは脇に捨てて置くということだ。これで、重合する合意が焦点化でき、関連して道理にかなう多元主義の事実によって生じた社会における正当化の公共の基本に役立つ、正義の政治的構想を見つけ出すことが可能になる。これを問うことなくして、独立した視野(第一 -四節と二-二節)としての正義の政治的構想の描写によって厚い無知のヴェールの合理的なものに意味は与えられないが、我々は道理にかなった多元主義と道理にかなった包括的教義の重合する合意の観念に呼びかける。私ははっきりしたこの問いを議論する必要を見つけてくれたWilfried Hinschに感謝している。このトピックについては未刊行の価値ある彼の論文「無知のヴェールと重合する合意の観念」(Bad Homburg、1992)の大意に従う。(原註28)原初状態はカントの道徳的構成主義と政治的構成主義の基本的特色、すなわち、道理にかなうものが合理的なものに先行している、道理にかなうものと合理的なものの区別をモデル化する。ここでの区別の妥当性は『正義論』が大体一貫して、正義の原理をめぐる論争の制約として、合理的ではないが道理的な(またはときに適切であったり相応しくあったりする)条件を伝えてきた(pp.18, 20f, 120f 130f, 138, 446, 516f, 578, 584f)。それら制約は原初状態においてモデル化されるがために当事者に押しつけられる。つまり、彼らの熟考は道理的な条件に従って――絶対に従って――原初状態を公正にするモデル化をせねばならない。後者については後で検討する。道理にかなったものが合理的なものに先行するということは権利の先行性を与えるのだ(Ⅴ)。
(原註29)マイケル・サンデルの重要な著作『リベラリズムと正義の限界』(Cambrige : Cambrige University Press, 1982)を参照せよ。人の形而上学的構想が『正義論』の導入部にあって、本の数多くある様々な見方から批判された。私の信じる返答はウィル・キムリッカ『リベラリズム・共同体・文化』(Oxford : Clarendon Press, 1989)第四章で、包括的教義としてのリベラリズムに反対するものとして政治的リベラリズムに相応しい調節を法にする、全体的に満足できるものだ。(原註30)この間違いは数多い。私は公正としての正義をより明確に見極めて維持することを「善性への公正」、『フィロゾフィカル・レビュー』第84号(10月、1975、542f)で試みた。