人はなぜ歌うのか。人は歌によって、どこに赴こうとするのか。
木村敏は有名な「あいだ」の概念を説明する際、しばしば合奏の例を用いた[註1]。木村によると、理想的な合奏が成立するためには、音が合うということより以前に、まず「間」が合わなければならない。「間が合う」とは、演奏者一人ひとりの「内部」で鳴っている音楽が、同時に他の演奏者との「あいだ」の場所=「虚の空間」でも鳴っているような事態である。では、複数の演奏者が楽器音のタイミング(間)をピタリと合わせられるのはなぜか。相手が奏でた音を聴いてから自分の音を発するのでは、わずかとはいえどうしても遅れが生じてしまう。
木村の考えはこうだ。演奏者はこれから演奏する音や休止を予期的に先取りし、そこに演奏行為を合わせていくことで周囲と音楽を成立させているのではないか。われわれが経験するのはいつも、すでに演奏された音楽の知覚もしくは記憶であるか、これから演奏する音楽の予期のどちらかである。つまり、タイミング(間)を合わせるために演奏者が意識を集中させるのは、自分の頭の中で鳴っている仮想的な旋律なのだ。
表出された音ではなく、いまだ実現していない音に照準を合わすという考えは面白い。「理想的な合奏」という全体像に同期するために、個々の演奏者はおのれの内部へと意識を閉ざす必要があった。これは、楽器演奏だけでなく合唱の場にも当てはまることかもしれない。調和に向けて「個」と「全体」が溶け合い、演奏者(歌い手)の意識と身体が開きつつ閉じるような状態。矛盾に思える様態も具体例に即して考えれば腑に落ちるときがある。私が木村の合奏論から思い出したのは、ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミュラーによるサウンド・インスタレーション作品《40声のモテット》(2001)だった。
《40声のモテット》は、16世紀イングランドの作曲家トマス・タリスが手掛けた多声楽曲「我、汝の他に望みなし(Spem in Alium)」(1573)を歌う聖歌隊40人の歌声を個別に録音し、40台の高性能スピーカーで再構成したものだ。「我、汝の他に望みなし」は、通常の混成合唱よりパートが多い5声部(ソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バス)で構成されている。5声部×8組で40声部。しかも各声部の歌い手の一人ひとりが異なる旋律を歌うため、40台のスピーカーから流れる歌声はどれひとつとして同じではない。40人の異なる歌声が一挙に合わさるクライマックスは圧巻で、重厚で複雑な音の層が立ち上がって空間を震わす。
スピーカーは人間の背丈に近くなるようマイクスタンドで高さを調節され、合唱隊の列さながらに輪を描いて展示空間に並ぶ。観賞者はこのスピーカーの合間を自由に縫い歩いたり、傍に近づいたり離れたりして音響の違いを味わうことができる。必ずしも声部ごとにまとまってスピーカーが配置されているわけではないので、輪の中央に立つと、高らかに歌い上げるソプラノやら重低音を響かせるバスやらが予期せぬ方角から湧き上がって交錯するのを感じる。一糸乱れぬ調和を感じるというよりは、声の重なりの過剰さに圧倒され、聴取の限界を突きつけられるような体験である。私たちが合唱に抱いている「調和」のイメージは、案外、幻想なのかもしれないと気付かされる。歌声が重層的に混じり合う只中に身を置くのは何とも稀有な体験だ。通常、私たちは観客席から対面的に合唱や演奏を聴く。席を立って動き回ることもないし、歌い手のパーソナルスペースに不躾に入り込むこともない。聖歌隊の列に紛れ込んだかのような錯覚をもたらす《40声のモテット》は、いわば非‐規準的な聴取体験のための装置なのである。
このように空間を満たす歌声を間近に接すると、木村の言う「あいだ」の概念が実感を伴って理解される。繊細な音をよく拾う高性能スピーカーのため、接近すると歌い手の身体性までもが生々しく伝わってくるのだ。たとえば、声のきめ。息遣い。ひとつのスピーカーに狙いを定めて聴覚を集中すると、近接感が昂じて、歌い手の震える声帯や横隔膜を共有した錯覚さえ覚えるほどだ。歌声は、歌い手の身体と聴取者である「私」の境目を溶解させる。こうした体感は、もちろん接近の度合いによって変化する。スピーカーに近づけば歌い手の個性のようなものが生起して身体性が粒立つが、離れるとその個性は歌声の全体像に飲み込まれ、身体性の指標も雲散霧消する。歌声の全体像は変動的であり、展示室を歩きながら合唱を聴くと、音像が大きく歪むのが感じられる。
想像するに、「我、汝の他に望みなし」のような過剰多声楽曲では、聖歌隊の一人ひとりにとっても、声同士、身体同士の干渉は大きく影響するのではないだろうか。ロラン・バルトは『第三の意味』でこう書いた。
「音域は私たちの一人一人が出すことのできる音の慎ましい範囲です。そして、その範囲内で、私たちの一人一人が自分の身体の頼もしい統一性について幻想を抱くことができるのです」[註2]。
歌は私たちの統一的な身体像を幻想として与える。だが、異なる音域が複雑に重なり合う多声楽曲の場では、お互いの声も身体イメージも激しく浸食し合うはずである。もしかしたらそれは、音の渦に飲み込まれて主体を失いかねない危機的な経験かもしれない。私たちが「調和」と呼んで信じるものと、歌い手の置かれた空間の内実には、本当は落差があるのではないか。
だから合唱の際、木村の言うように、自分の頭の中で鳴っている音を「予期的に先取りする」ような状態、自分の内なる旋律に意識を集中する状態になるというのは、十分に頷けることだ。カオスに雪崩れ込むかもしれない音の渦のなかで、一人ひとりの歌い手は自分の旋律に孤独に殉ずる。逆説的にも、それによって全体の調和に溶け合おうとする。開かれつつ閉じる身体、というモデルはこのようなものとして理解されるべきだろう。
先ほど私はスピーカーに接近したときに感じられる歌い手の身体性を指摘した。これとは別に、《40声のモテット》には別の身体性を喚起する要素がある。それは、垂直に屹立するスピーカーが擬人的形態に見えることに由来する。スピーカーの機体はサイズからして人間の頭部を思わせるし、先にも書いたように、マイクスタンドで調整された高さは人間の背丈に近い設定となっている。
ただし、歌声の喚起する身体性が「あたかも歌い手がこの場にいるような臨場感」を演出するのに対し、擬人的スピーカーは「歌い手がこの場にいないこと」の方をむしろ強調する。目を閉じて歌声に聴き入れば「聖歌隊の列に紛れ込んだかのような」トリップ感は高まるが、目を開けると無機質なスピーカーが並んでいる現実が露呈する、といったふうに。40人の歌い手の身体が本来ある場所と、観賞者のいる場所は、当たり前だが地続きではない。スピーカーは不在の聖歌隊の代理物なのである。見方を変えれば、私たちは不在を介して聖歌隊の身体と想像的に交わるのだと言えよう。《40声のモテット》は、その構造からして現前化されない対象を希求する作品なのだ。
スピーカーの並ぶ展示室と本物の聖歌隊がいる舞台。現代の歌い手が媒介する数百年前の宗教曲。ここには幾重もの空間的・時間的距離がある。だからこそ人は、この距離を克服するものとして、表現衝動の原点にある歌の力を見直すのではないか。そんなことを考えているとき、脳裏に浮かんだのは、いにしえの哲学者のとある箴言だった。
「歌うとは、二倍祈ること」(アウグスティヌス)
歌は、祈りは、「私」を自分の限界を超えた場所へと連れ出す。たとえその場所が、「規準」をはずれた混沌の世界であったとしても。
[註1]代表的な著作として以下を参照。木村敏『あいだ』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、2005年。
[註2]ロラン・バルト『第三の意味 映像と演劇と音楽と』[新装版]、沢崎浩平訳、みすず書房、1998年、216頁。