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(写真撮影=山口倫太郎、デジタル画像編集=東間 嶺。以下全て同じ)



熊本滞在最終日---2016/5/23

 正式には『水前寺 "公園" 』ではなく、『水前寺 "成趣園" 』と呼ぶのだそうだ。
 熊本に向かう数日前、あるテレビ報道で〈奇跡〉という言葉が添えられたこの公園の名を目にした。

 地震はこの公園にも多大な影響を及ぼした。
 公園の見物の一つとして豊かに水を湛えた広大な池があるのだが、地震後に起こった水位の低下で底が殆ど露出してしまい、営業は休止に追い込まれた。
 しかしそれからほどなくして、理由も分からぬままに自然と池の水が戻り始めたという。原因は不明ながらも、県はすぐさま無料での営業再開を決めた。
 
 水が戻ってきた事を奇跡と捉え 、震災で意気消沈している人々を元気づけようという事なのだろう。僕には、それは中々良い発想に思えた。 

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 その印象のせいか、朝目覚めた時には、最後の一日は水前寺公園で過ごす事に決まっていた。ゆっくりと朝を過ごしてからサウナをチェックアウトし、近くのバス停から水前寺公園前まで向かう。バスから降り、無料開放の看板を確認すると、躊躇うことなく裏口から入園した(というか、ぐるぐる回っていたらいつの間にか裏口まで来ていた)。 

 幸いこの日も快晴だった。
 陽光を受けて輝く緑が目に心地良い。

 ここは市の中心地に程近い事もあり、周囲にはマンションが立ち並んでいる。昔は阿蘇山や健軍神社を借景にしていたようで、その時期と比べれば、確かに景観の点では幾分劣るだろう。
 しかし、それでも僕の目には十分に見応えがあると思えた。以前に京都で見た銀閣寺の庭園を思い出した。

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 ゆっくりと2時間近く掛け、殆ど全ての景色を見渡すと、満足して自販機で買った飲み物を手にベンチへ座り込んだ。iPhoneを確認すると、友人からの「もうすぐ着く」というメッセージが入っていた。被災者となった同僚の穴埋めでもしかしたら出勤しなければならないかもしれないという話だったが、どうやらこの日も休みになったらしい。

 正門から出て彼女の車に乗り込むと、僕の提案して近くの蕎麦屋に向かう。まずは昼食だ。
 このボランティア旅行に出る前は、食欲減退気味と言って良いほどだったが、この日は蕎麦と共にかつ丼も頼んだ。蕎麦は三玉まで無料で増量出来たので、二玉頼んだ。すっかり食べ終わると、友人の提案でそこから一時間少々の上天草市にある三角西港に向かう事になった。

 車は海沿いの道を滑るように走る。他の車とすれ違う事も殆どない。
 輝く波を見ながら友人とおしゃべりして過ごしたが、一時間程すると、満腹と温かい気候のせいかウトウトとしかけた。丁度その時、一際明るく開けた場所に辿り着いた。

 三角西港敷地に車を乗り入れると、港から海を臨む見晴らしの良い場所に、遠目からも目立つ白い洋館が建っている。この洋館は、かつて小泉八雲が滞在し、彼が後に『夏の日の夢』と題して発表した紀行文の舞台である『浦島屋』を再現して建てられたものなのだそうだ。

 見学していると、特別注意しなくとも、そこかしこに掲示されたノボリやポスターの〈世界遺産〉の文字が眼に飛び込んでくる。確かに綺麗な景色ではあるが…。

「これで世界遺産登録を目指してるの?」

 そう友人に憎まれ口を叩くと、友人も笑って同意してくれた。

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 しかし、改めてWikipediaを調べてみると、なんとこの港は既に世界遺産として登録されているとの事だった。正確に言うと、この三角西港は、『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』という世界文化遺産における構成資産の一つだったのだ(他の構成資産は山口・福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島・岩手・静岡の八県に点在している)。

 〈世界遺産〉という響きからすれば物足りない印象に変わりはないが、周囲には古い建築様式をなぞらえたような建物が並んでおり、雰囲気は中々良い。
 それなのに辺りの人影はまばらだった。平日の昼過ぎなので仕方がないのかもしれないが、目立っていたのは、(恐らく)結婚式場の宣伝の為に撮影をしている新郎新婦のモデルとカメラや三脚、証明道具に大きなバッグを抱えた撮影隊だけだった。
 この分だと、土日もたかがしれているだろう。 

 しばらくウロウロしていると小腹が空いてきた。夕食にはまだ随分と早かったので、二人でソフトクリームを買った。舐めながら辺りを一周して戻ってくると、先程の撮影隊にいた二人組が、ある食堂から、がっかりしたような顔をして出てくる所にでくわした。彼等の残念そうなを見て察し、「こっちの店はまだ売ってますよ!」と声を掛けると、即座に〝良かった!〟と言わんばかりの笑顔と共にお礼が返ってくる。
 僕等もつい今しがた同じ食堂に入り、売り切れていた為にそこではソフトクリームを購入できなかったのだ。

 それから一通り見物し終え、さあ帰ろうという時にもまた、撮影隊の面々がたむろしているのに出くわした。

 僕等に気付くと、彼等は一斉に「ありがとうございました!」と(僕が奢ったわけでもないのに)ソフトクリームのお礼を言ってきたので、僕が「結婚おめでとうございます!」と返すと、彼等は、「いや撮影です!」と笑っていた。


ボランティア活動のイメージと〈やり甲斐〉の問題

 さて、本筋のボランティア活動についての話題に戻ろう。

 覚えている人はいないだろうから、このブログの〈序〉で紹介した、Facebookで見かけた女子大生の言葉を再度紹介したい。

 それは、「ボランティアに参加しようと思っていたけど、姉に "あんたの場合は就活の為でしょ、それは偽善だ" と言われてショックを受けた」というものだ。

 姉の意見はとても独善的で、(恐らく姉の方もまだ若いのだろうから仕方がないが)幼稚と言って良いだろう。そのような非難は、ボランティア活動についての「ある種の特殊な人々が参加するもの」という偏ったイメージの顕れだ。姉は、そのイメージにそぐわない妹を批判し、妹はそれにショックを受けた。
 
 僕は経験値稼ぎの為にボランティアに参加した。もし就活の為の点数稼ぎが偽善なら、自分の経験値稼ぎが目的である僕の参加が偽善でない筈はない。

 とは言え、ここで僕は声を大にして「偽善ではない!」と訴えたいのではない。

 僕が重要視しているのは、もっと具体的で実際的な事だ。現地の方も恐らく、僕等ボランティアの行為が偽善であるかどうかなんてどうでも良いと思うだろう。
 そこには 純然たる行為と、その結果がある。

 このテクストを残す目的の一つは、ボランティアに対する特殊なイメージを払拭し、ボランティアにもっとカジュアルな、参加し易いイメージを持って貰う事だ。

 知らない人と知り合い、慣れない作業について話合って汗を流し、休憩の際には一緒に食事をとる。
 スポーツをするような感覚で軽く汗を流す労働があり、出会いがあり、一日限りでの別れが、或いは続いていく関係がある。そこから友人になる場合もあるだろうし、恋愛や結婚に繋がる例だってあるだろう。

 余談になるが、東日本大震災の際、ある友人がテレビ制作会社のスタッフとして震災直後の福島に入った。彼女はそこで知り合った男性と結婚して、現在は南相馬に住んでいる。
 友人はボランティアとして福島に入ったわけではない。しかし、ボランティアだったとしてもそうでなかったとしても、ボランティア活動でそういった出会いが生まれることには何の不思議もないだろう。
 そこには震災をキーワードにした繋がりがある。

 僕はここで、そういった「参加して良かった」と考えるに至る全てのものをひっくるめて〈やり甲斐〉の問題として捉えたい。初日に益城町でリーダーを務めてくれた男性は、女性に大きなハンマーを持たせた理由について「ボランティアにおいては、やり甲斐を感じてもらう事が重要」と言った。

 僕は彼の言葉によって、この〈やり甲斐〉の問題が、ボランティア活動においても非常に重要な要素だと気付かされた。

 ここで一つ〈やり甲斐〉の例を挙げてみよう。
 次の例はやや特殊な活動を取り上げてのものになる。

 新興宗教などで宗教活動を行う人の〈やり甲斐〉についてだ。
 彼等の多くは、賃金という代償を受け取らずとも健康食品や広告物を売ったり、或いは新聞の勧誘を行ったりといった労働に従事する事があるだろう。そこには宗教的な使命感から生まれる濃密な〈やり甲斐〉が存在するはずだが、それを外部から眺めているだけでは、そこに〈やり甲斐〉がある事には中々気付かない。
 彼等のそういった〈やり甲斐〉は、ある種の人を救っているとか、或いは自分が死後に天国に行けるとか、そういった使命への確信を根源とし、仲間との意識の共有や目的を達成した成功体験から生まれる。
 
 恐らく、ボランティア参加者に対する一般の人々のイメージも、宗教活動に勤しむ人々に対するそれと同じようなものなのだろう。
 非参加者達は、参加者が〈やり甲斐〉を感じている事に気付いていないか、或いはその〈やり甲斐〉は、特殊な価値観を持った人間にのみ作用するものだと思っているのではないだろうか。

 しかし、(少し変わってはいるだろうがそれ程特殊ではない)僕自身、確かに各地での活動にやり甲斐を感じる事が出来た。正直、参加前には、活動そのものを楽しく感じる事など想像もしていなかった。

 活動を楽しく感じたのは、多分僕だけではなかった筈だ。各地で何度も活動に参加している人と話したし、東日本大震災や阪神大震災で被災し、そのお返しだという人とも活動を共にした。共に活動した者の多くは楽しそうにしていた。
 不謹慎と思われるかもしれないが、僕等は活動を〈楽しんだ〉し、それが一番の報酬だったのだと思う(不満そうにしていたのは、思ったほど働けなかったという人達だ)。
 
 僕と同様に、彼等が特別変わった人々だったとは思わない。

 これも最初に書いた事だが、ボランティアに参加する前、地元の福祉協議会で「仕事にあぶれてしまった」という職員の方と話をした。彼は、「それもボランティアと言われてますから」と言った。

 実際それはその通りだろうし、立派な心構えだとも思う。しかし現実問題として、多くの人が、例えば数少ない休日を利用したり、わざわざ仕事を休んだり、予定を変更して参加を決めたり、或いは困難な道のりを越えて、費用を負担して、ボランティアに参加している。

 そういった様々な経緯の中で参加する彼等に支払われるべき対価=〈やり甲斐〉は、決して安いものではない筈だ。運営において重要なのは、「どのようにして楽しく活動して貰い、ボランティアにやり甲斐を感じて貰うか」という事だろう。

 僕がそうであるように、ボランティアに参加しようする人々は聖人ではない。聖人ではないからこそ参加を促すには〈やり甲斐〉を感じて貰う事が必要になる。そしてそれには、まず仲間と、適度な量の作業が必要だろう。更に、あまりハードルが高くなく比較的容易に活動へ参加する事が出来て、不自由なく活動出来るという運営基盤の確立が必要となる筈だ。
 
 その点から、以下に熊本でのボランティアへ参加して幾つか思い付いた改善点を今後の課題として挙げたい。  次に挙げる1-4(特に1と4は)は、全て〈やり甲斐〉を感じて貰う為と捉える事も出来る。


ボランティア参加から見えてきた課題

 ボランティア活動を終えてすぐに、Facebookの『熊本県災害ボランティアセンター』ページに書き込みをした。参加者の目線による、各自治体やその他におけるボランティア運営についての問題点とその解決法についてまとめたものだ。加筆修正を行いながら、新たに纏め直したい。

1. 常宿にしていたサウナなどで、「熊本市のボランティアでは作業が短時間で終わってしまった」という話を複数聞いた。また、ボランティアセンターでは具体的な作業が掴めておらず、移動後の作業であれが必要これが必要と判明するなど、道具が足りない場面が多々あった。

――これはセンター職員によるニーズの聞き取りの問題と捉える事が出来るのではないか。被災者のニーズがきちんと聞き取り出来ておらず、まとめられていない。どのような作業がどのような場所でどの程度あり、人数の要望に対して何を根拠にその人数になるのか?どのような道具が必要で、それがどの位の時間を要するのか?
 きちんと聞き取りをして、問題を解消しなければならない。例えば、短時間で終わる作業内容ならば、地理的に無理のない範囲で複数のニーズをセットにする、というような事も出来るのではないか。

2. 益城町や西原村など、ボランティアセンターまでの交通の便が極めて悪い地域などがある一方で、熊本市のように参加が容易な地域には明らかに過剰と思われる希望者が列をなしていた。益城町や西原村と同様に交通の便が良いとは言えない宇城市には、ボランティアセンターからJR松橋駅までの送迎があり、これは非常に便利だった。送迎の有無は、遠方からの参加を促す直接的な要因だと感じた。

――益城町では、二時間近く歩いてセンターまで歩いたという例も幾つも聞いていたし、タクシーでぼったくられたとか、そういったトラブルも聞いた。歩いた末に間に合わなかった例もあるだろう。各地のボランティアセンターの立地や規模、被害状況などによって対応に差が出る事はある程度は仕方が無い。そこで、例えば益城町や西原村などのような地域には、県が熊本市内などの比較的交通の便が良い所に送迎スペースを提供するなどの方針を決めれば、人数の確保は比較的容易になる筈だ。多くの希望者が、各地域のボランティアへ参加し易くなるだろう。
 熊本市のボランティアセンターとして利用された花畑公園では駐車場を設ける事が出来ないので、歩いて行ける場所に仮設の駐車場が設けられていた。ここにバスやマイクロバスなどを確保出来れば、輸送の段取りで特に問題は生じない筈だし、職員が連絡を取り合って直接現場に運ぶ事も出来る筈だ。

3. 情報の偏り、2の問題も含めた運営の偏りについて。

――僕はサウナやインターネットを通じてある程度、募集等の情報を得る事が出来たし、崇城大学のボランティアキャンプ(ここはNPO法人などが関わっており、僕が参加したような自治体によるものとは異なる)でも、情報収集が出来たようだ。
 しかし、情報を手に入れる事が出来なかった人も多くいるだろう(だからこそ、参加が容易な熊本市に人が集まる)。もし、熊本市内に情報集約センターのような所があれば活動の助けになる筈だ。また、それに関連して、各自治体での情報やベースになる運営基盤の共有などが出来れば尚良いだろう。
 また、インターネットで情報収集するにも、熊本県の福祉協議会のホームページやFacebookページから、各自治体のページに一々飛んで、またそこで該当のページを探して、というのは中々面倒な作業だった。旅先ならばそれは余計に面倒な手間になる筈だ。
 ボランティアに関する統合的な専用サイトが一つあれば、それだけで情報収集は楽なものになるだろう。 
 こういった運営基盤の連携という点では、三日目に参加した宇城市の活動の際に美里町職員の女性に聞いた宇城市、宇土市、美里町で構成される広域連合の運営が参考になるのではないだろうか。この宇城市のセンターは非常によく運営されていた。普段から積極的な連携がなされていた成果だろう。

4. スタンプラリーはどうだ?

――各地のボランティアセンター、或いは県の福祉協議会にスタンプを押す為の手帳やカードなどを用意して、各地で違ったスタンプを押してもらう。コンプリートすると景品が……、とまでは言わないが、僕のように各地で貰ったステッカーを腕にべたべたと貼って喜んでいるような人間にとっては嬉しい筈だ。それに、ボランティア参加証明書の代わりにもなるだろう。ボランティア参加者に特典を設けていたサウナや高速・ローカルバスにだって、スタンプを見せれば話は早い。


 素人臭いと思われるだろうが、以上四つを提案する。
 大したアイディアといえない事は分かっているが、それでも書くのは、多くの自治体で現場の運営が如何にも不慣れで、洗練されていると思えなかったからだ。

 勿論、運営に慣れていないのは仕方のない事だし、恐らく各自治体では、こうすれば良かった、ああすれば良かった、と反省し、後の為にノウハウを残そうとしているに違いない。

 僕の提案は、その一助になれば良いと思う。


旅の終わり、そしてその後にくるもの

 三角西港から、友人の運転でそのまま熊本駅まで送って貰った。

 程なくして熊本駅を出る高速バスに乗り込み、友人に手を振って別れた。そして運転手さんにボランティア参加証明書を見せて割引の金額を直接払うと、「ありがとうございました」と礼を言われたので、「良い経験をさせて貰いました」と返した。

 僕は確かに目的を達した。

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 あれから早くも半年以上が過ぎた。

 その後、僕は熊本を訪れてはいないが、友人は僕の住む福岡に二度程来る機会があり、お酒を飲んで話をする事が出来た。彼女は、未だに微震でもビクリとするそうだ。

 各地のボランティアセンターは既に閉所した所も多いようだ。
 とは言え、Twitterである方が「現在の益城町」と紹介していた崩壊したままの家々の写真を見たのは、それ程前では無い筈だ。恐らく三か月も経っていない。その時は「まだこんなものなのか」と軽いショックを受けたが、今でも益城町や南阿蘇村など被害が甚大だった地域では、地震でぺしゃんこに潰れた建物が未だにその無残な姿を残しているという。熊本城の石垣の修理も未だ進んでいない。
 恐らく現在の状況では、一般のボランティアが参加できるような現場はそれ程多くは残されていないのだろう。
 
 この連載は当初、一か月程で全部書いてすぐに終わらせるつもりだった。しかし仕事などもあり(一応無職ではなくなった)、思わぬ長期連載となってしまった。
 だが、今となってはそれで良かったと思っている。

 ともすれば容易に風化してしまう震災の記憶を、揺り動かすようにして作用してくれればこれ程嬉しい事は無い。
 僕自身、この連載が無ければ、半ば終わった事のように感じていただろう。

 僕の短期間の経験を基にして言うならば、ボランティアには、レジャー活動の一環として楽しむつもりで参加すれば良いと思う。それが僕の結論だ。

 勿論、僕自身、熱く突き動かされるような感情があったのは間違いない。しかし、それを動機にしながらも、やはり立ち止まって考えてみる事が必要だ、と改めて思う。一時の感情、そしてそれを煽るような報道、それだけでは駄目なのだ。

 宇城市編で次のように書いた。


ぺちゃんこに潰れた建物やそこに住んでいた人達の生活であっても、生きてさえいれば途切れること無くそれは続いていく。地震が起こった当初、感情的で熱烈な復興支援を盛り上げる報道が、言葉が、行動が相次いだ。しかし、本当に重要なのは、一時の盛り上がりではなく、そこからずっと続いていく生活であり、連帯をもって互いに支え合うシステムなのだと思う。
 

 この一文には、震災当初、感情のまま行動し、緊急車両も通れないという渋滞の中で各地から車両で熊本に向かおうとした人々への批判も含まれている。
 そういった感情に流されての行動が、ときに重要な役割を果たす場面もあるのだろう。
  しかし、立ち止まって考えてみる事、忘れないでいる事はそれよりもずっと重要だと思う。恐らく、東日本大震災の際に行われた様々な救援活動が想起されたのだろうが、被害地域が広範囲にわたっていた東日本とは事情が違う。必要な人数も違えば、受け入れ可能な人数も、道路事情も異なる。

 現地には、生活を破壊され、精神的にも多くの傷を負った人達が居て、その傷は、色々な意味で、長く残る。
 だからこそ、きちんと調べた上で現地入りし、余裕を持って、楽しむ位のつもりで作業に取り組み、被災者の方々と接した方が良い。

 この11月に、福島県沖ででまた大きな地震が起こった。その際の津波から逃げる為に(それがどの程度のものなか分からないが)車による長い渋滞が起こったそうだ。
 先の震災で、多くの人が車で逃げようとした為に返って被害が大きくなったと言われているにも関わらず、だ。

 とは言っても、僕は彼等を責めるつもりはない。
 人間とは元来そういうものだ。まず感情的に判断する。
 それに、福島の人々のそういった感情は深く残った傷によるものでもあるのだろう。

 しかしだからこそ、議論し、考え続け、忘れずにいる事、そして細大漏らさず記録する事、それらが重要になるだろう。
 合理的な判断が、基礎的な感情のレベルにおいてもなされる程に、それらは繰り返して行われなければならない。
 我々は震災と共に生きていくのだから。

  最後に挙げる写真は、上の引用と同じく宇城市編で使用したものだ。この写真は、被災を受けた宇土市役所とその向こうに広がる青空のコントラストが気に入っている。 それは東間嶺氏の編集によってより鮮明になった。
 そのコントラストは、震災という悲劇的な事実と、その向こうに広がる希望の対比である。

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 僕は、無職の期間を利用してボランティアに行ってきた。この経験は2016年で最大のものと言って良いだろう。 
 きっとまたいつか何処かで、僕はボランティア活動に参加するに違いない。 
 
――了



(編/構成:東間 嶺@Hainu_Vele)