世紀末、破滅の予言あったころ生きることなど楽勝だった ――本郷保長


 まだ十代の頃、世界がいつか滅亡するのだと信じてた。ノストラダムスの大予言がそのまま実際になるとは思っていなかったけれど、大きなことが起きるはずだという予感があった。それはほぼ十代が90年代であるという時代の空気感もあったのかもしれない。『新世紀エヴァンゲリオン』が放送される前から、僕は日本で内戦が起きたことのことを想像していた。今、生活している場所が戦場になるのではないか、その妄想は日常から逃れることのできる方法で、限りなく続く退屈な日常を破壊する希望になっていた。終わりなき日常は確実に終わる、そう信じて疑わなかった。




 高校1年生の終わり、神戸で大震災が起きた。僕はその朝、長く続く揺れで目を覚まし、学校に登校した。一日の課業を終えて、家に帰ってくるとテレビではまるで戦場のような神戸の街が映し出されていて、赤十字で働いていた父は、その日の夜のうちに、神戸に向けて出発した。



 破滅の始まりをその時、確かに実感したのだが、高速道路が横倒しになったことよりショックだったのは、その大震災の翌日、学校の実力テストが予定どおりに行われたことだった。大地震程度では日常は揺らがない。それは僕にとっての絶望で、あっという間に神戸の街に日常が戻っていくのも、僕には失望しかなった。ハルマゲドンはもしかしたらやってこないかもしれない。オウムによるサリンが起きても、高校生活はそのままで、だらだらとした日常はそのまま続き、やがてメディアは女子高生ブームを映し出す。世の中を支配しているシステムは、そう簡単には揺るがない。 







 一浪して入った大学1年生の時、小林よしのりの『戦争論』が発売になった。僕は発売日の夜、自転車を書店まで飛ばし、夜遅くまでかけて読み終えた。僕にはマンガで描かれた第二次世界大戦の世界に夢中になった。『大日本帝国』の戦争の正しさよりも、日常を破壊するような大戦争がシステムを破壊し、新しい世界をもたらしたという現実が眩しく思えて仕方なかった。ノストラダムスの大予言が来年に迫り、もはや破滅の予言を信じることのできない自分たちの世界とは隔絶した、戦争という非日常。死を覚悟する兵士や、焼夷弾から逃げ回る市民、東京の街が焼け野原になる破滅と、新世界の構築。僕の理想は1945年前後の日本にあるような気がした。

 物語のなかを生きているという感覚。最近だと、2011年の大地震の時にそれを感じた。僕はちょうど新橋で歌舞伎を見ていて、大きく揺れが続くにも関わらず、役者は演技を続けていた。電車は全て止まり、東京駅までたどり着いた僕はそこで一晩を明かした。そういう非日常は、物語のなかにいるような感覚をもたらした。十代で感じた世界がどこまでも続いていくという絶望は、もう感じないけれど、やっぱり大きな出来事がこの先に起こるのではないかという予感は続いている。





 新宿の映画館で『この世界の片隅に』という作品を見た。何度も泣いた。すぐにKindle版の原作コミックをダウンロードして読んだ。物語はまだ戦争の始まる前の幸せな時代、主人公すずの子供時代から始まる。豊かな広島の街がスクリーンに登場し、夢とも現実ともつかないお話のシークエンス。それから時代がやや飛び、戦時中、すずは呉の家に嫁に行くことになる。描かれるのは戦時下であり、その生活だ。終戦直後までを物語は語り終えるのであるが、映画には特に空襲とそれによる破壊、悲劇のカタルシスが表現されている。戦争という非日常が続き、ある時それが終わる。この映画においてもまた、戦争は物語そのものになっていた。延々と続く日常ではなく、始まりと終わりがある、非日常としての戦争と戦時下が描かれていて、たとえばコミックスでは描かれた、すずが夫と娼婦との過去の関係に気を揉むシークエンスは映画ではカットされている。妻の嫉妬という日常的なものは描かれず、映画は徹底的に戦時下という『非日常下』にある『日常=生活』を描写していくのだ。


 僕はこの映画でなんども涙ぐんだ。しかし後で涙したシーンを振り返ってみると、みな戦争特有の出来事に関するものだった。戦時下という非日常は、現代の終わらない日常を生きている僕たちに感動を与える。それはしごく当然にも思える。死と隣合わせにある非日常は、ささいなことが重大な意味を持ち、運命を感じ、誰にも平等に精一杯生きることを要求するからだ。だからこの映画に感動するのは人間の摂理のようなもので、意外性はないのではないかと思ってしまう。僕たちの日常にある不幸や気を揉むあれやこれやは徹底的に遠ざけられ、軍都としての呉、もう舞台じたいが非日常であり、登場人物はまぎれもなく物語の世界を生きているからだ。

 僕たちの現実の生活には非日常はない。終わりがいつ来るのかは分からず、僕たちは始まりも終わりもない、物語ではない世界に生きている。たとえば朝井リョウ原作の映画『何者』はそんな物語ではない日常の若者を描いた秀作だ。終わりなき日常から切り取られた日常についての、大学生にありがちな「痛い」様子が描かれている。スクリーンは日常の戯画であり、あるあるネタの一種として若者はその映画を楽しむし、あるいは老人には若者の日常についての解説書かもしれない。この映画の登場人物である就職活動中の大学生たちは、物語の世界にいる住民というより、僕ら観客と同じ世界の側の人なのである。





 つまり『この世界の片隅に』とは、まったく逆なのだ。僕たちが生きている時間の数直線、それはマイナス方向にもプラス方向にも無限の長さがある、始まりも終わりのない日常なのに対して、『この世界の片隅に』の世界は始まりと終わりが明確な線分であり、要するに、映画を見る観客も、その作り手も、過去の戦争がいつ始まり、いつ終わったか、その知識を共有していて、物語の外にいる僕たちは、すずさんたちの苦しみがいつ終わりを迎えるのか、知っているのだ。それが良いとか悪いとか断罪したいのではない。『異世界』としての戦時下が描かれているからこそ、僕らは主演声優『のん』が演じる『すず』の幸福と不幸に感動し、涙するのであり、この映画が大傑作として成功している理由なのだ。

 けれども、日常としての戦時下、終わりの分からない戦時下とはいったいどんなものなのだろうという不安が僕のなかに宿っているのも事実である。もしそれを描くとしたら、過去の戦争についてではなく、現代進行中の悲劇か、未来にありえるものを描くしかないだろう。そういう戦争映画も見てみたいと思う。僕たちが怖れるべきは、日常の延長線上にある戦争であり、もう生活とは乖離してしまった物語の世界にある戦争ではない。怖れるべき戦場、それは津波後の東北の被災地なのかもしれないけれど。
 


(編/校/構成:東間嶺 @Hainu_Vele)