【SBS】新宿文藝シンジケート読書会、第68回概要
1.日時:2016年10月29日(土)18時〜20時2.場所:マイスペース新宿区役所横店7号室3.テーマ:青木保『「日本文化論」の変容―戦後日本の文化とアイデンティティー』(中央公論社、1990)を読む。
4.概説:荒木優太(@arishima_takeo)
⇒https://drive.google.com/file/d/0B5Z85xuBi5K3d3JTckFRZXlYd0k/view?usp=sharing
◆ 上掲の通り、10月29日土曜日夜にSBS第68回読書会が開かれました。当月の図書は青木保『「日本文化論」の変容―戦後日本の文化とアイデンティティー』(中央公論社、1990)。冒頭の概説レクチャーは選書した荒木優太(@arishima_takeo)が担当しました。
◆ 荒木は、ロールズとサンデルの『無知のヴェール』論争、アイヒマン裁判を通じて『集団』としてのユダヤ人への愛を否定したアーレントの言説などを参照しながら、国や民族の本質性をめぐる議論において重要なのは、本質が何であるかを求めて争うことではなく、人々が本質性を求め続けようとした行いの歴史自体に学ぶことだとし、その意味で、俯瞰性、メタに立つ視点が徹底され、さらに古典の再評価をも行っている青木の本を高く評価しました。
◆ ベネディクト、『菊と刀』から始まり、世に数多溢れる戦後の『日本人論』を吟味することは、いまやテレビ、書籍、雑誌はおろか、首相の演説やネットのまとめサイト、ゴジラ映画にまで溢れ出す「日本スゴイ!」という虚しい絶叫の『正体』を明らかにする…かもしれません。
◆ 以下、参考までに、当日のレジュメを転載しておきます。ご興味を持たれた方は是非ご一読下さい。
PDFリンクはこちら。
* 青木保『「日本文化論」の変容』を読む(荒木優太) *
「日本(人)は~」と語ること
――引用→「日本人男性は女々しい 」「制約が多すぎる 」「こっそり付き合う」「愛情表現をしない」「ともに歩むことができない」「日本とドイツでは、カップルのあり方がずいぶん違います。どちらがいい、というわけではありませんが、わたしとしては、ドイツの方が魅力的だと思います」(雨宮紫苑「国際恋愛中のわたしが「日本人男性と付き合いたくない」5つの理由」[01])
――日本人のステレオタイプ化によってシーソーのように浮上する持ち上げられる「ドイツ」や「ヨーロッパ人」。ポジティヴであれネガティヴであれ雑な日本(人)の表象の言説力学。
――「あなたがドイツ人だから愛している」は果たして可能か? アイヒマン裁判をレポして「ユダヤ民族への愛」は?と問われたアレントの返答。
―引用→「わたしは人生においてなんらかの民族あるいは集団を「愛した」ことは一度もありません――ドイツ人であれ、フランス人であれ、アメリカ人であれ、労働者階級であれ、あるいはそのたぐいのなんらかの集団であれ。わたしはじっさいわたしの友人たち「だけ」を愛するのであり、わたしが知っていて信じてもいる唯一の種類の愛は個人への愛です」(『アイヒマン論争』、矢野由美子訳、318p)
――「個人」を愛するとは? サンデルのロールズ批判=「負荷なき自我」vs「位置づけられた自我」。個々人に分割不能な仕方で付随する「負荷」や「位置 situation」→個人愛がいつのまにか国家愛に変質する?-参考→荒木「アマルガムの環境」「02」。有島の「個性」は「負荷なき自我」では?
――大事なのは、日本(人)の正体、ではなく、いかに「日本(人)は~」と語ってきたか、の方。間違っていようがなんだろうが、自己(自国)表象の歴史から学ぶものがあるのでは?⇒青木保『「日本文化論」の変容』の重要性。
[01]http://www.aitabata.com/entry/kokusai_renai
[02]http://p.booklog.jp/book/105753
青木保本の高ポイント
①×真日本文化論 〇メタ日本文化論(史)
――小谷野敦『日本文化論のインチキ』の反本質主義→本質(大文字の日本(人))を求めちゃう、繰り返される心性をどう考えるべきか?
――船曳健夫『「日本人論」再考』→「「日本人論」とは、近代の中に生きる日本人のアイデンティティの不安を、日本人とは何かを説明することで取り除こうとする性格を持つ」(講談社学術文庫、2010、39p)→不安な人種として本質主義化してないか?
②古典の再評価
―引用→「『菊と刀』にみられる「日本文化」理解も、また彼女が例証としてあげる「アメリカ文化」も、多くの誤謬と偏見を含んでいる。だがその「複眼的」なアプローチと、「文化相対主義」的態度とは、実のところ「日本文化論」に多大な示唆をあたえるべきものであったし、これからのあたえるものと評価できる」(中公文庫、164p)
―引用→「加藤周一は、先の「雑種文化論」の中で、日本文化の「純粋化」運動に、明治以来の知識人の日本文化の「雑種性」に対する反応をみて、「純粋化」を主張するかぎりそれは必然的に失敗の歴史になると指摘した。〔中略〕いま平成元年の時点で、失敗していることは、加藤が見通したとおり、明らかである」(161p)
四つの時代区分
第一期:否定的特殊性(1945~1954)
【戦争で負けたし前近代的だしダメダメ】
ベネディクト『菊と刀』(1946)――「集団主義」と「恥の文化」。
坂口安吾「堕落論」(1946)――「堕ちきること」。
きだみのる『気違い部落周游紀行』(1946)――「日本人以前」。
川島武宜「日本社会の家族的構成」(1948)――「家族的原理」。
第二期:歴史的相対性(1955~1962)
【みんな違ってみんないい】
加藤周一「日本文化の雑種性」(1955)――「雑種文化論」。
梅棹忠夫「文明の生態史観」(1957)――「平行進化」。
第三期:肯定的特殊性(1964~1982)
【特殊……だけどそれが逆にイイッ】
作田啓一「恥の文化再考」(1964)――ベネディクト「恥の文化」の肯定。
尾高邦雄『日本の経営』(1965)――「日本的経営」の擁護。
土居健郎『「甘え」の構造』(1971)――「甘え」の「幼児的」価値。
濱口恵俊『「日本らしさ」の再発見』(1977)――「間人主義」。
ヴォーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979)――「ナンバーワンの日本」。
第四期:第三期の挫折(1984~)
【……やっぱダメじゃん?】
尾高の転向――国際的に通用しない?
山崎正和の転向――『柔らかい個人主義の誕生』から「日本文化の世界史的実験」(1986)。
ピーター・デール『日本的独自性の神話』(1986)――「ファシスト的イデオロギー」。
ウォルフレン「日本問題」(1989)――日本批判。
テーマ提案
論題①どんなときに「日本(人)は~」と言いたくなる?
論題②どれくらい普遍的なものを信じる? ex, 愛は国境を超える…のか?
論題③日本文化論の現在形? ex, クールジャパン、オタク・アイドル文化、日本スゴイ系番組……。
(文責、編集、構成:東間嶺(@Hainu_Vele))