【SBS】新宿文藝シンジケート読書会、第67回概要
 
1.日時:2016年9月24日(土)18時〜20時
2.場所:マイスペース新宿区役所横店7号室
3.テーマ:田中 俊之『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』(KADOKAWA、2015)を読む。
4.概説:男『は』つらいのか、男『が』つらいのか、あるいは男『も』つらいのか?(東間嶺)
https://drive.google.com/file/d/0B5Z85xuBi5K3d3JTckFRZXlYd0k/view?usp=sharing
5.備考:FBイベントページ
https://www.facebook.com/events/1150203831689062/


◆ 上掲の通り、9月24日土曜日夜にSBS第67回読書会が開かれました。当月の図書は田中俊之『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』(KADOKAWA、2015)。冒頭の概説レクチャーは選書した東間嶺(@Hainu_Vele)が担当しました。発表の模様は冒頭にリンクした動画をご参照下さい。今回は、本の内容から、「男がつらい」状態と思われる男性参加者ふたりにも登場してもらい、感想を聞いています。

◆ ここ最近はAERAをはじめ様々なメディアで紹介され、知名度を上げている田中氏。「名前を挙げて数えられるくらい」というほどに少ない日本の『男性学学者』を代表する存在と言っても過言ではないでしょう。予告でもリンクを御紹介したビデオニュース・ドットコムへの登場では「男が変わらなければ日本は変わらない=より多様性と寛容性に富んだ社会は実現しない」とするかれの明快な主張が余すところなく語られていました。

◆ そこでの語り口から比べると、本書の内容は(性と社会に関する重要な論点を多数含むものの)、口語の文体も含めてカルチャースクールでの軽い講義といった趣を超えておらず、正直「もう少し踏み込んで欲しい」と感じさせる部分が多々あり、「こんな薄い説教じゃ、ぜんぜん男は救われない」「どう抑圧のシステムを変えるか具体的に考えるべき」などと「男がつらい」参加者からの辛辣な批判も多く聞かれました。ただ、世に馴染みのないテーマでの一般書という形態からすると、可能な限り間口を広げたものに仕上げるのはやむを得ないでしょう。

◆ いずれにせよ、大学教員でもある田中氏の活動が後発世代へポジティブな関与ができる可能性は高く、今後も積極的な活動を期待したいところです。

◆ 以下、参考までに、当日のレジュメを転載しておきます。ご興味を持たれた方は是非ご一読下さい。
(PDFリンクはこちら


"男『は』つらいのか、男『が』つらいのか、
あるいは男『も』つらいのか?"



* 図書梗概および本日の論点*

社会学者であり、日本の希少な男性学研究者である田中は、本書をはじめとする著作群や講演等において、現在の日本が抱える困難の多くに、『男』、すなわち男性性の偏った社会的役割および位置付け(男性中心主義)が関わっており、その抑圧を緩和克服しない限り、社会やコミュニティの衰退は避けられないと主張している。

つまり、『男』をどうにかしなければ、日本が、現在よりも他者に寛容で生きやすい社会へと変化することは難しい、ということだ。『男』が変わらない限り、日本に生きる男性は封建的な性差を前提とする文化慣習と、それに基づく異常な長時間労働に追われたあげく、家庭や地域コミュニティから阻害され、極度に性差のある自殺率というデータを今後も残し続けることだろう。そして他方、『男』をどうにかすることは、女性の自由に直結する話でもある。日本社会における女性は、『男』を補完する『女』としてのさまざまな性的役割を期待され、そのゲームを上手くこなせる存在として生きる限りにおいて、彼女は多くの男性よりも『楽』な人生ゲームを遊ぶことができる。しかし、少しでもそこから逸脱しようと試みる(ex結婚の放棄、出産の放棄、美容の放棄、上昇への野望)また別の彼女に対して加えられる社会的制裁の度合い、困難の多さ、制度の不公正ぶりは、往々にして男性の比ではない。『男』からの逸脱よりも、女子ジョシではない女性に徹底して冷たいのが日本社会の文化的実相なのだ。

21世紀の国際社会は、その参加メンバーに個人の自由意志尊重や、さまざまな他者に包摂的な社会であることを望んでいるが、現状において、日本はこの期待を充分に満たしていない。『男』が変わることによって、そのような期待に応えることもまた、可能になるだろう。本書における田中の主張は非常に簡便なことばに落とし込まれており、精密さとしてはカルチャースクール程度の水準だが、挙げられる個々の論点には参加者が共感/反感と共に多弁を費やす要素が相当数含まれていると思われる。

活発な議論を期待したい。
 


引用ポイント

上記論点を踏まえ、以下、主に『男』に課せられる困難の源と思われる社会的役割、期待(男らしさ=競争に勝つこと=達成すること、)をいくつか引いて、論点の参照項とする(Kindle版を購入したため、ページ数表記はできない)。

【これまで、男性の人生は、「卒業→就職→結婚→定年」という一本道を通っていくようなものでした。しかし、日本の現状では、この道を歩けること自体が一種のステータスになってしまっています。「普通」や「当たり前」と思っていた人生を実現できない。ここに多くの男性が「生きづらい」と感じる根本的な原因があります(…))日本では、男性と仕事の結びつきがあまりにも強いので、男性と仕事の関係は働きすぎや過労死といった多くの「男性問題」を生み出しています】

【本書の冒頭で、経済状況の変化によって、「普通」と思っていた人生を実現できなくなったことが、男性の生きづらさの原因であると述べました。そして、男性が幼い頃から「競争」に晒されているという問題を指摘しました。2010年代でも、世の中には「成功」の方法が書かれた本が溢れています。私たちは、男たるもの経済的に「成功」を収め、「上昇」していくことが「幸せ」であるというイメージから、抜け出せないでいるのです】

【男性は幼い頃に、「大きな夢」を抱くべきだと教わり、野望を持つように育てられます。「競争」こそが、男たちが生きる上での基本的な原理だからです。しかし、あらゆる競争で勝ち続けることなどできません。そもそも安定した「大人としての勝利」が最終的に男性には期待されているわけですから、「大きな夢」は近い将来に捨てなければなりません。戦いにやぶれ、夢もなくなった時、男たちには何が残されているのでしょう。 競争の果てに残ったもの  男性に残されたもの、それは「見栄」です。】

【男性が「男らしさ」を発揮するための方法は2つあります。1つは「達成」です。仕事で成功する、お金持ちになる、スポーツで業績をあげる、あるいは学問で大成するなど、その社会で男として価値のある事柄の「競争」を勝ち抜き、「達成」した時に、男性は自らの「男らしさ」を証明できます。  しかし、これは誰にでもできる方法ではありません。「達成」によって「男らしさ」を証明できるのは、ごく少数の男性にかぎられます。そこで「達成」ができなかった多くの男性は、コンプレックスを隠そうと「逸脱」によって「男らしさ」を示そうとするのです(…)極端な発言で目立とうとする心理は明らかに、逸脱による「男らしさ」の証明につながっているものです。現代の日本社会で、差別は許されません。そうした常識を踏み越えて、「真実」を主張できるオレはすごいといったわけです。匿名の掲示版では、無責任に勇ましい言動を取れるので、実に手軽な方法が登場してしまいました】

【「競争」を基本として育てられてきた男性は、コミュニケーションを問題解決の手段と考えがちです。最低なのは「論破」です。一方的にまくしたて、相手を言い負かす自分に酔いしれている男性を見かけることがあります。そして、論破できる話術を持つ男性に憧れを抱き、称賛する男性たちもいます。何というコミュニケーション能力の低さでしょうか。「ずっとオレのターン!」では、コミュニケーションが成立しないことさえ理解できていないのです。】

【社会的に価値のある「達成」を成し遂げられない男性にとって、当然、「男らしさ」はプレッシャーです。(…)中高年といわれる年代に差し掛かって、自分はこれだけのことを「達成」したと胸を張れない男性がぼやきたくなる気持ちも理解できます。男の子は大きな夢を抱くべきだと無責任な「煽り」を受けてきたわけですから、それを実現できないことが明確になった年齢で自分の人生にがっかりしてしまうというわけです。(…)このように考えていくと、男性にとって「男らしさ」は大変厄介なものであることがわかってきます。「大人の男性」になるためには、いつまでも自由に生きることは許されません。とりわけ、現代においても、仕事と結婚の2つが、「普通」であるための要素として重視されています。】

【男性の生き方があまりに画一的なために、「達成」しようがしまいが男性の人生は息苦しいものになってしまっています。私たち男性が、多様な生き方を選択できる未来はあるのでしょうか。  今時点で1つ確実にいえることは、男として目をそらしたい現実があったとしても、「男らしさ」という難敵に向き合うしかないということです。私たち男性は、「男らしさ」との折り合いのつけかたを本気で見つけなければなりません】



(文責、編集、構成/東間 嶺)