I-Ⅳより続く


I-V

 女性の身体性についてを考えている。女性の躯に触れるとき、その接触でセクシャルな感応を引き出してゆく際の………愛撫と呼ばれるその行為。肌理をなぞる、くちびるに触れる、舌を噛む、舐め、さする。その接触での感応の高まりに応じて行為が段階を踏むとき、そのどこまでがペッティングとしての愛撫で、またそのどこからが愛撫を越えたセックスそのものなのだろうか。

 ペッティング。肌に触れる。衣類のうえから、またはじかに肌理を指で触れて。この議論はきっと、レヴィナスの愛撫論、それからバタイユのタナトスを踏まえてから入るべきなんだろう。でも、僕はその習熟に長けていないことをここに告白してから語り出すことを、始めてみたいと思う。肌をなぞるということは、ある存在者の輪郭そのもの――つまり、身体の肉感的に現された現存在性そのものをなぞる。いやそのものに触れようとして輪郭で挫折するみずからの輪郭との融和点の集合が描く軌跡であるのだろう――それというのは、捕まえられるようでいながらも触れうるのはすぐさま存在者の逃げ去った跡、ただの物質(il y a)として露出する身体によって縁取られた僕の得ようともとめるあなたの残滓へと……。同一化を夢想して微睡んでいる僕の恍惚である。愛撫、その瞬間に僕は僕の恍惚のなかにひとり佇んでいる。

 同一化への夢想は行為を深化させうる快感をともなうものだろう。その時に僕はさらなる状態の深まりを期待せざるをえない。それでは、ペッティングを越えて挿入をともなった性行為そのものへと進む時、そこで触れうるのはいかなるものだろうか。ここではヘテロ・セクシュアリティ…つまり一般的な異性愛関係を例にして考えてみたい。触れうるものが変わる、触れうる場所が変わる……。男性の一部が女性のなかへと侵入するとき、触れえたもの、変様したものはいったい何であるのだろう。そこでも、あっという間に存在は逃げ去り物質化(il y a)の充足が押し寄せる――そのただなかでも、まざりあうものがある。モノ、それは物質としては体液として表出するのだろうが――それはマテリアではない非言語的なもの、非物質的なものとしての体液であるのだろう。だが、それらは両者の潤滑を促す以外……現存在からも、身体という物質性からも溶けだしてしまった後になされる溶液の同一化としてなしうることだ。つまりそのときに彼女は、――彼女のなかに空洞を穿ちながらも、実在の空洞化そのものから逃れさる物質的な存在性の外縁へと縁取られている。ファンタスムの回路が僕たちの輪郭を繋いでいる――それも、得られない同一化への憧憬に充たされながら。それでは、と改めて問い出してみたい。はたして愛撫から抜け出すことはできるのだろうか。

 アイソレーション。それは僕の?僕らの?……だが、女性の身体性が依拠している特殊な部分にも言及しなければならない。女性の身体には、それも性行非経験者には、現代では聖性とももう既に言いがたくもなりかねない膜がある。その膜は初めての性交の際に裂けるものであるだろうが……。罪(poena)と接頭辞を均しく「創られた(poiema)」とした文学性(poematis)は――歴史についての、自然についての記述よりもイマジネールに富んだものとしてのそれは、論理的言語から逸脱する修辞的要素を踏まえた詩言語があるように――非物質の、存在の裂け目そのものを露呈するのだろう。これは、愛撫ではない。それでは、いったい何であるのだろうか。僕だったのなら、こう言うと思う。存在の輪郭がみせた非存在的な振る舞いそのもの。つまりそれが深淵だよ、と。

(I-VIへ。)