【SBS】新宿文藝シンジケート読書会、第65回概要
 
1.日時:2016年7月23日(土)18時〜20時
2.場所:マイスペース新宿区役所横店2号室
3.テーマ:テクタイル『触楽入門』を読む。
4.概説:荒木優太【テクタイル『触楽入門』に触れる。】
 ⇒https://drive.google.com/file/d/0B5Z85xuBi5K3LWo3N3lNa2szUnc/view?usp=sharing
 5.備考:FBイベントページ

◆ 上掲の通り、7月23日の土曜日夜にSBS第65回読書会が開かれました。当月の図書はテクタイル『触楽入門』(朝日出版社、2016)、冒頭の概説レクチャーは選書した荒木優太(@arishima_takeo)が担当しました。発表の模様は冒頭にリンクした動画をご参照下さい。

◆ 前回選書されたニコラス・G・カー『ネット・バカ』が論じた、「ネット環境のもたらす諸問題=ネット・バカ」への批判的応答(脳中心主義への懐疑)の側面も持ちつつ選ばれた本書。テクタイルの作り出したさまざまなツール(テクタイル・ツールキット等)は、脳偏重の世界把握をほぐすような身体性、とりわけ触覚に関する新たな認識を開くものといえるでしょう。ただし、読書会の議論に用いる本としては「実際に彼らのツールを体感する方がよりベターであっただろう、そうしないとよく分からない面がある。ワークショップしながら読む方べきだった」との意見も出されました。

とはいえ、非常に興味深い本であることには変わりないですし、今後より広く読まれることを期待したいところです。

以下、動画の参考として荒木のレジュメを転載しておきます。
(PDFリンクはこちら

テクタイル『触楽入門』に触れる 荒木優太


一、脳から身体(の環境)へ

―超訳『ネット・バカ』→ネットに侵された脳によって深い読み(クリエイティヴィティ)ができなくなった!
―身体を忘れるな!→「いうまでもなく脳は身体の一部であり、また身体の一部として働いています。そして環境と接しているのは、脳ではなく身体です。この事実は「心脳問題」ならぬ「身脳問題」の可能性を示唆しますが、それにもかかわらず「中枢としての脳」だけを取りだして考えることは、脳―身体―環境の相互作用という視点を脱落させます」(山本貴光+吉川浩満『脳がわかれば心がわかるか』、太田出版、2016、p.190)
―point→脳中心主義の二つの陥穽、①社会的・政治的状況の無視、②身体―環境の無視。斎藤環「汎脳主義」(悪いことはなんでもかんでも脳のせい)⇒免責される非脳的要因。アフォーダンス理論(座りたくなる椅子は心や脳ではなく物のデザインのせい)。
 
二、五感のなかの触覚
 
―本文→「目をつむる、耳を塞ぐ、鼻をつまむ、口を閉ざすことはあっても、触覚は逃れようがありません。どんなに視聴覚メディアが発展しても、私と世界をつなぎとめている触覚は断つことができないのです」(p.232)
―point→触覚は〈常に既に〉。ex季節で変わる空気感、洋服とそのタグ、歯と口内(口内炎で知る可触性)。赤子の触感先行性、アリストテレス「感覚のうち第一のものとしてすべての動物にそなわる」(p.27)、「感覚の交差点」(p.96)。すべての身体感覚の素?
 
三、技術による喪失/回復
 
―本文→「私たちは、頭で受け取っていることと、自分の身体とを、もう一度紐付ける必要があるのではないでしょうか。そうかといって、IT技術が発達する前の暮らしに帰ろうというのではありません。テクノロジーが忘れさせた感覚ならば、テクノロジーを使って思い出すことができるのではないか」(pp.14-15)
―本文→「私たちが当たり前の自然な感覚だと思っているものは、すでに技術によって拡張された後の感覚なのかもしれません」(p.197)
 
四、感覚の改変可能性
 
―本文→「どれが自分の身体なのか/どこかまでが自分の身体なのかという認識とは、決して自明のものではなく、感覚からのフィードバックによって不断に構築されているということです。状況によっては、視覚や触覚によって身体の境界線が変わってしまうということも起こる。逆に言えば、視覚と触覚をうまく使うことによって、身体感覚を思い通りに改変できる可能性がある、ということも言えます」(p.166)
―例示→伸縮する「ぺリパーソナル・スペース」(p.155)。「幻肢痛」と鏡の手当て(p.165)。テクタイル・ツールキット(p.185~)。

五、「触覚的tactile」芸術?
 
―本文→「現在の美術館では、作品を鑑賞するときの身体は、まるでそこに存在しないものであるかのように扱われています。多くの場合、作品には「お手を触れないでください」という注意書きが付され、身体性を伴ったお芝居やダンスパフォーマンスでも、観客は大人しく見る、あるいは聞くということしか許されていません」(p.222)
―point→「お手を触れ」てもいい参加型のパフォーマンス・アートの可能性?舞台と客席の区別を排する「残酷演劇」(アルトー)の先駆性。アトラクション化する映画体験、3DiMAX・4DX。
―ベンヤミンのポスト写真時代→「触覚的な受容は、注目という方途よりも、むしろ慣れ〔気散じ〕という方途を辿る。建築においては、慣れをつうじてのこの受容が、視覚的な受容さえも大幅に規定してくる」(「複製技術時代の芸術作品」)
―問い→〈精神集中=注目の芸術〉から〈BG化する散漫芸術(TV・ラジオ・音楽)〉?
 
六、情報環境にビルトインする/される身体
 
―本文→「テクノロジーが忘れさせた感覚」。
―反論→テクノロジーはむしろ強制的に(新?)感覚&身体性を喚起させるのでは?情報デバイス=情報との接触面(インターフェイス)の変化次第。情報(in-formation)⇒形なきものに形(form)を与えること。
―例示→iPad独特の直感的操作(=オナニーみたい?by宮崎駿)。ポータビリティに富んだスマホ(アプリ東京時層地図で何倍にも楽しい街歩き)。ウェアラブル機器の登場(マラソンブームの火付け役?)。脳中心主義を離れて身体的活動を誘発しアシストする情報技術=脳だけでなく身体さえも取り込む情報技術の貪欲さ!?
―問い→チャットの身体性。【筆で書くこと/鉛筆で書くこと/万年筆で書くことで異なる身体性】ならば【キーボード入力/フリック入力/音声入力で異なる身体性】?「年賀状は音声入力じゃないと心がこもらないよね!」時代は到来する?
 
※【con-tangere】contingency/contact/contagion。『仮説的偶然文学論』鋭意執筆中。

(以上、10/13作成)