【SBS】新宿文藝シンジケート読書会、第64回概要
 
1.日時:2016年6月25日(土)18時〜20時
2.場所:マイスペース新宿区役所横店7号室
3.テーマ:ニコラス・G・カー『ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること』(2010年、青土社)を読む。
4.概説:新宅睦仁【ネットでバカにならないために、あるいはための。】
 ⇒https://drive.google.com/file/d/0B5Z85xuBi5K3Q1ZXMXZ3d2k3MmM/view?usp=sharing
 5.備考:FBイベントページ

◆ 上掲の通り、6月25日の土曜日夜にSBS第64回読書会が開かれました。当月の図書はニコラス・G・カー『ネット・バカ』(2010年、青土社)、冒頭の概説レクチャーは選書した新宅睦仁(@tomonishintaku)が担当しました。発表の模様は冒頭にリンクした動画をご参照下さい。

◆ 「ネットで馬鹿になる!」との危機感を日頃から抱いていた新宅の気持ちにぴったり重なったという本書の主張。彼はネット・バカ(=マルチタスク的情報酢処理向上と引き換えの思考力低下)脱却の実践として「読んだ翌日、さっそくスマホを解約」し、「Docomoのキッズケータイ」に機種変を行ったとのことです。

◆ カーの主張には参加者の荒木優太(@arishima_takeo)をはじめ、「脳中心的すぎる」として疑問も投げかけられましたが、活発な議論が交わされた一夜でした。

※ 荒木のレスポンスは7月の会で発表されています(明日更新)。

◆ 以下、参考までに、当日の新宅レジュメを転載しておきます。ご興味を持たれた方は是非ご一読下さい。
(PDFリンクはこちら

ネットでバカにならないために、あるいはための。

《論点》 「歩きスマホ」が社会問題化して久しい。これは単なるマナーの粋を越えて、⼤衆の恐るべきネット依存の⼀端と⾒るべきではないか。 実際、死亡事故も起きている。あるいは現代⼈にとってネットは、⼰が⽣命以上の価値を持ち始めたのかもしれない――本書はネット が私たちに及ぼす影響を多⾓的に検証する。ネットによって得られたもの、失ったものを個別具体的に呈⽰し、畳みかけるようである。 それは⼀読すれば、誰しもがうすら寒いものを感じずにはいられない。とはいえ考えてみれば、新たなテクノロジーの出現はいつも⼈ を感激させ、困惑させしてきたのである。しかしことネットに関しては、夜を奪った電球、距離を消し去った電信と同じく、根本的に ⼈の⽣活を変えたことはまず間違いがない。その変化は、我々に何をもたらすか。ひとことで⾔えば、ネットは我々を幸福にするか。 各⼈にネットとの付き合い⽅を伺いつつ、これからの⼈間とネットのあり⽅を探りたい。

1. なぜネットでバカになるか?

本書はネットの有⽤性よりも、多くそのネガティブな側⾯について⾔及している。私もまたネットの陰部にこそ強く共感する者である。 たとえば、『「何時間もリアルタイムでブリコラージュ(※1)をやっていると、わたしは⾃分の脳がぱっと明るくなるのを「感じ」、⾃ 分が賢くなっていくかのように「感じ」る」。(中略)この感覚は中毒性だ――そのためわれわれは、ネットが知覚の深部に与える影響 から⽬をそらされてしまう。』(P23)という箇所は、無限の知を持つ偉⼤な「グーグル先⽣」に接して感化される、あるいは「その⼀ 部に取り込まれてしまう」ことを指している。それは⽐喩などという⽣易しいものではない。


『熊⼿とペンチを使うようサルに教えたことがあった。(中略)熊⼿とペンチが、サルの脳のなかの⼿に関する部位に、実際に組み込ま れてしまったのだ。サルの脳にとってこれらの道具は、⾝体の⼀部分と⾒なされるものになったのである。』(P52-P53)
 

蛇⾜だが⾝近な例えを弄すれば、クラスの⼈気者とつるむだけで、何か⾃分の格が上がって⼈気者の仲間⼊りをしたような気分になる ことと似ている。つまり、これは勘違いという愚かさであって、数あるバカの中でも救い難い種類のバカだと⾔える。

(※1)筆者注:ブリコラージュ=寄せ集めて⾃分で作る、器⽤仕事

2. 現実を忘れる究極のバカ

次に、本書の核⼼と⾔えるだろう部分を以下に引⽤する。


『テレビ、ラジオ、新聞がこれまで⾏ってきたよりも、ネットはずっとわれわれの注意を惹く。友だちと携帯メールをやり取りしている ⼦ども、新着メッセージやフェイスブックのページのリクエストに⽬を通している⼥⼦⼤⽣、ブラックベリーでメール画⾯をスクロー ルしているビジネスマンを⾒てみるとよい――あるいは、グーグルの検索ボックスにキーワードを⼊⼒し、リンクをたどっている⾃分 の姿を思い浮かべてみてもよいだろう。そこに⾒られるものは、メディアに⾷い尽くされている精神である。ネットに接続していると きは、⾃分の周囲で起きていることに気づかないことがしばしばだ。さまざまなデヴァイスを介して現れる⼤量の記号や刺激を処理す るとき、現実世界は影を潜めるのである。』(P167)
 

百歩譲って、ネットを活⽤すれば賢くなるとしよう。しかし、⼈間がいつか死ぬ⽣⾝の⼈間である以上、現実世界を忘れるほど愚かな ことはない。近年、歩きスマホをしていて線路に転落して死ぬ者があるが、ネットに没⼊した⼈間の末路は、形の違いこそあれおよそ このようなものではないか。

3. ネットとの交際、そして蜜⽉、依存、あるいは束縛

ネットへの依存は、スマホが登場してから加速度的に⼀般化した。現代、「ふつうの⽣活」を送っていれば、誰しも多かれ少なかれネッ トに関わらざるを得ない。電⾞が遅延すれば即座にメールで連絡せねばならないし、就活はネットなしではもはや不可能である。家族 とも恋⼈とも友⼈ともSNS で繋がり、何をした、何をしているかとリアルタイムで連絡を取り合う。しかしそこには、現実の⼈の存在 よりも、「ネットという何者か」の存在を感じないだろうか。以下のように、ネットは私たちの⽣活の「メイン」になろうとしている。


『国際調査では、⼈が余暇時間の⼆〇パーセントをネット上で費やしている(中略)ネット使⽤時間が増⼤するとき、テレビ視聴時間は横ばいのままであるか、増加する』(P125)
 

ネットとは最初、ソフトな付き合いを始めて、ほどよく関わる良好な関係になり、それからスマホの登場で依存し始めて、今では束縛 し合うようになった。付き合い始めの恋⼈以上に四六時中べったりとして、トイレの中にさえ当然のようについてくる。これは、私たちが望んだものなのか。あるいはネットが求めたものなのか。なんにしても我々はいま、考えなければならない時に来ているが、おそ らくまともな答えも出せないうちに⻤籍に⼊るのだろうと、私は思う。


『あらゆるメディアについての従来の理解、すなわち、重要なのは使い⽅だという考えは、テクノロジーをまるでわかっていない鈍感な スタンスである(中略)メディアの内容など、「脳という番⽝の気をそらせるため、泥棒が持ってくるおいしそうな⾁塊」にすぎない』(P13)
 

我々は、確かにどこか⿇痺していることはわかるが、何がどう⿇痺しているのかまでは⾒当がつかないのだ

4. ⼈間性の回復を求めて

しかしそれでも、⼀部の敏感な⼈々は、ネットに対して何らかの対処を試みるだろう。たとえば、危機に際して求められるのは、今も 昔も宗教であるが、以下を⾒るとますますわからなくなる。


『ツイッターなどのマイクロブログ・サーヴィスを⽤いて神からのメッセージを交換するために、ラップトップやスマートフォンを礼拝 に持ちこむよう勧めるアメリカの教会も増えている。』(P139)
 

ネットを介して、神と交感する。もしかすると、どこかのサーバーは、あるいはあの世と接続されているのかもしれない。しかし、


『説教のあいだ、信徒たちのツイートが、⼤きなビデオ・スクリーンに次々映し出される。(中略)たとえばこんなものがあった。「すべて のもののなかに神を⾒出すことに苦労しています」。』(P329)
 

という記述を⾒ると、⼈間は圧倒的なテクノロジーの前で、常に後⼿後 ⼿で不器⽤な、アナログな存在でしかないということを痛感させられる。

たとえば、眠る前に聖書を読んで祈る。そのような時間は、これ以上ないほど⼈間的である。しかし、そのような時間はもう永遠に失 われてしまったのかもしれない。

『グーテンベルクの発明の結果⼀般的なものとなった、深い読みの習慣――「その静けさは意味の⼀部、精神の⼀部」――は衰退し、縮 ⼩しつつある少数の知的エリートの領分となるだろう(中略)読書階級が(中略)「ますます秘教的になっていく趣味」を実践する変⼈ と⾒なされるようになるのか』(P154)
 

静かに精神を落ち着けること。それがかなわなくなったのはいつからだったか。常に気が散っていて、なにもかも集中することができ ない。それはおそらく、Windows に代表されるマルチタスクに始まるのではないか。


『各ウィンドウはそれぞれ異なるプログラムを動かしたり、異なるドキュメントを表⽰したりできるようになっていた。(中略)このシ ステムに拍⼿を送った⼈たちもいた。これによって、ずっと効率的にコンピュータを使⽤することが可能になると彼らは考えた(中略) 嫌悪感を抱く⼈もいた。「プログラミングを⾏っている最中に、何だってメールで作業を中断されたいと――気を散らされたいと――思 うんだ?」』(P161)
 

この感覚は、現代ではもはや誰⼀⼈持ちえないのではないか。『プログラミングを⾏っている最中に、何だってメールで作業を中断され たいと――気を散らされたいと――思うんだ?』⾔われてみればなるほどと深く⾸肯してしまうが、正直、この発想⾃体を「新しい」 とさえ感じてしまうのは私だけではないはずだ。

5. バカなりの賢い⽣き⽅

ネットに依存するのも仕⽅がない。それでバカになるのも諦めよう。しかしそれでも、我々は⽣きていかなければならない。しかしど うやって?

『記憶をウェブに「アウトソーシング」することを賞賛している⼈々は、メタファーに惑わされているのである。⽣物学的メモリーが持 つ基本的に有機的な性質を、彼らは⾒落としている。リアルな記憶の豊かさと特徴を、およびいうまでもなく、神秘性とはかなさをも たらしているのは、これが持つ偶然性だ。』(P263)

覚えているかもしれないし、忘れてしまうかもしれない――。私は、⼈間のこの頼りなさ、曖昧さをこそ尊んで⽣きて⾏くべきではな いかと考える。いわば「にんげんだもの みつを」である。急がず、⽴ち⽌まり、考えること。そうでなければ、⼈間の⼈間たる所以 さえ失われてしまう。

『⾁体的苦痛に対しては、脳は⾮常にすばやく反応する――誰かがケガをするのを⾒ると、脳内の痛覚中枢は、ほとんど即座に活性化される――のに対し、⼼理的苦痛に共感するというもっと複雑な精神的プロセスは、はるかに緩慢に展開される』(P303)

往々にして攻撃的になるネットユーザーの気質は、即座にレスし、レスされるというスピードの内に醸成されるのかもしれない。その スピードや効率性は、近現代の資本主義が無条件に是として追い求めてきたものである。

『「われわれは道具を作る。そしてそののち、道具がわれわれを作る」。(中略)道具によって「増幅」されたわれわれの⾝体部分は、最 終的には道具によって「鈍く」される(中略)⼒織機が発明されたとき、織⼯たちは⼿で織っていたときよりもはるかに多くの布を⼀ ⽇に製造できるようになったが、⼿の器⽤さをいくらか犠牲にしてしまった。』(P288)

ネットが圧倒的な⾰新性、あるいは暴⼒性を持って存在する以上、我々は強⾏的なコントロールを試み、⼈間性の回復を試みなければ ならないのではないか。⾔うまでもなく、我々は機械ではない。しかし、現代求められる働く⼈間像――素早くいくつもの仕事を並⾏ してそつなくこなす――は、まさにWindows そのものである。

『マルチタスク能⼒を向上させることは、実際のところ、深く思考する能⼒、クリエイティヴに思考する能⼒をくじいてしまう。(中略) マルチタスクの際にわれわれは「表⾯的なレヴェルで熟練しようとしている」のである。⼆〇〇〇年前にローマの哲学者、セネカの⾔っ た⾔葉がいちばんぴったりかもしれない。「どこにでもいるということは、どこにもいないということだ」。』(P197)

我々は何もかもできるようになったような気がしているが、実は何もできなくなったのかもしれない。
今⼀度、切実に問う。「ネットとともにどう⽣きるか?」――少なくともネットの中に答えはない。なぜなら、

『ユーザーはウェブ上で どのように読んでいるのか?』それに対する簡潔な答えはこうだった。「読んでいない」。』(P191)


50a8dd92565864cd436f51a0adbf70a4

(以上、10/12作成)