調整-8
宇士市役所遠景(写真撮影=山口倫太郎、デジタル画像編集=東間 嶺。以下全て同じ)
 この日は宇城市に決めていた。一日目の益城町と二日目の西原村では幸運が続き、辿り着くだけで大変だと考えていたそれぞれのボランティアセンターまで簡単に行きつく事が出来たが、この日は例え昨日一昨日のような幸運が目の前に降ってこようとも、「独力で宇城市のボランティアセンターに行くぞ!」と決めていた。
 ……とは言っても、宇城市では、ボラセンから最寄りのJR松橋駅まで毎日行き帰り二本の送迎バスが出ている。
 
 いつもよりもゆっくりと起き出し、のんびりと朝風呂に浸かった。朝飯はコンビニで買って手早く済ませたが、いつもより一時間以上余裕をもって寝起きの一時間を過ごす事が出来た。

 JR熊本駅で旅行鞄をコインロッカーに預け、デイパック一つで松橋駅へ。乗換はなしで、時間にして二十分ほどだ。駅からは、ボランティアセンターまでの送迎バスが毎朝二本出る。僕が乗ったのは一本目。時間は確か、7時40分発だっただろうか。
 大体でニ十分程でボラセンに着いたように覚えている。

 送迎バスといいスムーズな受付け作業とマッチングといい、それぞれがまるで流れ作業のように進んでいく。宇城市のボランティアセンターはとても効率よく運営されているという印象を受けた。
 送迎バス待ちの際に少しだけ話をした男性――確か東北の方だったと思う――が、「ここには早くから福島のボランティアスタッフが入ってるからね」と教えてくれたことを思い出した。


宇城市ボラセンからクリーンセンターへ

 必要書類に名前を書き、マッチングの前にオリエンテーションを受ける。ボランティア参加当初は「オリエンテーションなんて何処かで一度受ければ良いでしょう、めんどくさい」と思っていたが、この時には「やっぱり、面倒でも毎回受けるべきだな」と考えが変わっていた。

 オリエンテーションで受ける注意など、ごく簡単なものに過ぎない。
 現場の状況(危険ではないか)をよく確認する、ボランティアセンターで請け負った仕事以外はしない、きちんと休憩時間を守る、リーダーの言う事を聞く……。

 そんな子供のような、と思わないでもない。だからこそ「面倒だな」と思ったわけだが、ボラセンには「熊本震災ボランティア」という一つのキーワードの下に、老若男女、様々な背景を持つ人々が集まっている。
 当然現場作業のベテランもいればビギナーもいる。
 そのような環境だからこそ、尚更に全体の意識統一を図らなければならない。作業に慣れていない人には言葉通りの注意を、習熟したものには慣れない人への配慮を促す事、それこそがオリエンテーションの真の目的と言えるのではないだろうか。

 マッチングでは、この日も積極的に手を挙げ、決まったのは宇城市のクリーンセンターでの仕事だった。毎回書いているが、今回のボランティア参加の目的は《経験値を上げる為》だ。何事かよく分からない作業こそ有難い。

 決定したメンバーは合計二十人位だっただろうか。その中からまた作業ごとに振り分けが行われる。まず、「ごみを捨てに来た車両の選別作業に四人、これは特に女性にお願いしたいという事です」という事で、二人居た女性、五十歳位の方と学生さんが決まり、もう一人、学生さんの彼氏らしい大学生が決まった。それから誰も手を挙げないので僕が挙げ、四名が決まった。残りの人たちは、それぞれの荷を積んだ車両からの積み下ろし作業だそうだ。

 僕らはマイクロバスでクリーンセンターに向かった。車内では、手袋、マスクや水などがメンバー全員に配布された。

 クリーンセンターは森や田畑に囲まれた地区にあり、センター本部と共にリサイクル資源を保管する建物や駐車場、焼却場を含む土地と、それらと同じ位の広さの一時置き用のグラウンドで構成されている。そのグラウンドで、各種のゴミを分別して一時保管しているようだ。

 僕のグループは、建物に隣接するスペースで荷下ろしする車両の種別とゴミの種別、さらに重量を図り、それらをマイクでセンター内部の職員(職員は建物の窓からこちらを伺っている)に伝える。振り分けられた車両はグラウンドへ向かい、残りのメンバーが荷下ろしをする。

 僕らを指導する女性は二人。一人は50代半ば位で、もう一人は47歳だそうだ(姉の一つ上なのでよく覚えている)。50代の指導役女性が若いカップルにつき、47歳の方が、地元に住んでいるという同年代の女性と僕の指導役に付いた。彼女は茶色いメッシュの入った髪にパーマを掛け、赤い口紅を引いている。どことなくバブル時代の匂いを感じる女性で、とても元気で溌剌とした方だった。

 作業が始まったばかりの、まだ車両が少ない時間帯に、50代の(カップルを指導する)方が僕に「結婚してるの?」と聞いてきたので、「まだです」と答えると、今度は「彼女いるの?」と追求された。すると横からメッシュの姉さんが「より取り見取り選び放題やろ~?」と煽って話を盛り上げようとする。

 僕も内心気をよくしながら、「いやいや、いま彼女も居ないですよ」と伝えると、メッシュ姉さんは「嘘~、なんで~?そういう主義?」と明るく返してきた。はじめて会うボランティアと仲良く楽しく仕事をする為の彼女の心遣いなのだろう。その日は、作業をしながら、メッシュの姉さんと色々話をすることになった。彼女は、恋愛講座も開いてくれた。


「好いてくれるからといって視野が狭い人はダメよ。子供が欲しいんやったら早く結婚したほうがいいけど、50、60になって落ち着いてから結婚するのも良いよ。私と旦那は同じ役所に勤めとったんやけどね、全然好みじゃなかったの、でもね、やっぱり優しくてマメな人でね」
 

と言って、更に「女は大体鬼やけんそれは覚悟しとった方が良いね!」と言って朗らかに笑った。

 そして恋愛講座のやり取りで明るくからからと笑ったかと思うと、震災直後を思い出して「最初に大きな地震があった後ね、次の日にやっとのことで倒れた家具とか散らかったものを全部元通りにしたのよ、そしたらまた次の日にすぐもっと大きな地震があって、全部また倒れてグチャグチャになって。その時はガクーっと来たよ……」と言って涙ぐむ。

 熊本程ではないが、連日の地震は僕も福岡で体験していた。

 特にきつかったのは、深夜熟睡している中での揺れだった。深夜にあのけたたましいアラーム音に叩き起こされると、その次の瞬間には揺れが起こる。僕は自分の寝床から起き上がり、とりあえず本棚を抑える。同じ布団の上で変わらず眠り続けている飼い猫を見て、本棚が倒れたら大変だと次の日には早速本棚を固定する金具を買いに行ったものだ。

 
以降、小さな地震にも敏感になり、寝ていても緊張感が抜けない。当然寝不足になる。

 先の東日本の際に、SNS上でいつも比較的冷静な人が、らしくない振る舞いを見せる事があった。当時の僕は何となく「大変なんだろうな」と想像するしかなかったが、熊本での地震によって、自分でも小さな肉体的・精神的ダメージの積み重ねをリアルに感じる事が出来た(勿論、東日本でも熊本や大分でも、被災した方たちには、福岡に住む僕とは比べものにならない程の心労が重なった事だろう)。

 地震が起こってから、メッシュ姉さんは、平日は普段からの地元の美里町役所で、土日は手伝いで広域連合のクリーンセンター(つまり僕が派遣された場所)で働いているという。地震から一か月以上、毎日休みなく働いているというが、それでも彼女は疲労の色など見せず、明るく元気で、「色んな所からこうやってボランティアに来てくれるのが有難い」と笑顔を見せる。

 彼女が言うには、このクリーンセンターは宇城市を中心とした周辺地域が連合的に運営しているそうだ。そして、連合の領域は、クリーンセンターだけではないという。

 なるほど、と合点がいった。
 
 そうした高度な連携は、ボランティアセンターの運営にも役立った事だろう。今朝経験したボランティアセンターのスムーズな運営振りを思い出した。

 ボランティアのメンバーだけでの昼休みは、前の日までと同じく、グループの四人でチョコチョコと他愛もない話をした。隣に座っていた女子大生に「山口さんって旅とかいっぱいしてそ~」と言われたので、ボクサーとして海外に住み、折にふれて国外旅行もしていたと答えると「やっぱり~」と嬉しそうだった。「ボクシング強かったんですか?」と聞かれたので、「弱かった」と返すと、「いや、多分強かったんだと思う」と断言された。

 彼女は現在、地元で就職活動中だというから、少し前に読んだ朝井リョウ『何者』に描かれた就職活動の厳しさについての話を振った。彼女も就職活動では悩んでいるようで、悩みを打ち明けていたが、その流れの中で、「人生で大事なことは何だと思いますか?」と聞かれた。

 年長の女性が答えかねていたので、僕は「何か一つのものだけの為に生きる、ってのは、強い生き方だと思う。でも、普通は無理。だから、まず優先順位決めて、何か迷った時はそれに沿って判断すると良いと思う」と答えた。

 すると彼女は「優先順位かあ、一番はやっぱり家族かな~」と思案顔で呟いた。

 最後に写真を撮りたいと思ったが、作業の終了を見ないままボラセンに戻らなければならない時間になってしまった。仕事中の姉さん達と「ありがとう」を交わしあってからセンターへと戻った。

 宇城市のボランティアセンターでは、益城町であったような反省会はなく、帰り着くとそのままバラバラに解散する流れになった。こういう終わり方は寂しい気もしたが、皆を引き留める理由も見つからない。だから、この日はそのままボランティア参加証明書を貰うことにした。職員に尋ねると、センターを運営している建物の上階ですぐ取得する事が出来るという。手順の記憶が曖昧な職員で、結局は10分弱待ったと思うが、まあ、予期せぬ災害に初めてのセンター運営なのだから当たり前の事だろう。

 証明書を貰い、帰りのバスの時間を聞くと、職員の男性が軽トラで駅まで送り届けてくれた。

 ボランティアセンターの運営という意味では、益城町、西原村、そしてこの次の日に参加する熊本市も含めて、宇城市のセンターが一番良かった。

 勿論、土地土地にそれぞれ異なる背景があり、それぞれの事情は異なるだろう。
 ただ、各地で統一的基準に基づいてマニュアルを見直す事は出来る筈だ。


宇土市で感じた生活のリアリティー

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 この日は、帰り道に、ある建物を見学する事を決めた。
 震災で大きく歪んでしまった大きな建物で、報道ではモニュメントのように扱われていた宇土市の市役所だ。

 そのため、松橋駅から熊本市方面に一駅の宇土駅で下車し、市役所まで30分程歩いた。益城町で見たぺちゃんこの建物の数々にはショックを受けたが、宇士市の街並みにはそれ程大きなダメージは見られない。
 それまでの歴史ごと破壊されたかのように激しいダメージを被った益城市と違い、宇土市の街並みには、そこに住む人々の生活がそのままに続いているというリアリティーが感じとれた。

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 もちろん、実際には、ぺちゃんこに潰れた建物やそこに住んでいた人達の生活であっても、生きてさえいれば途切れること無くそれは続いていく。地震が起こった当初、感情的で熱烈な復興支援を盛り上げる報道が、言葉が、行動が相次いだ。しかし、本当に重要なのは、一時の盛り上がりではなく、そこからずっと続いていく生活であり、連帯をもって互いに支え合うシステムなのだと思う。

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 飲み物を買って途中の公園で一休みし、人懐っこい野良猫に遊んで貰ったあと、そこからすぐの宇土市役所をぐるっと一回りして写真を撮った。

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 再度公園に戻り、またベンチに腰を掛けて猫に遊んで貰っていると、益城町でご一緒したKさん(運転手を務めてくれた現地在住の女性だ)からラインが来た。
 
     お時間があったら今日か明日ごはんでも食べませんか?


最終日、熊本市へ

 明日は友人と約束があったので、今晩19時に熊本駅で待ち合わせる事になった。まだ時間に余裕があったから、近くの銭湯で汗を流した。着替えは持っていなかったが、歩き回って汗をかいたままでは気が引けたからだ。

 そして――さて、そろそろ行くか――と荷物を再度まとめ直した所で気が付いた。

  「熊本駅のコインロッカーのキーがない……」

 待ち合わせの時間は30分程遅らせて貰った。鍵は何処かで落としたんだろう。再発行には確か
1500円位掛かっただろうか?鍵を探すという選択肢も提示されたが、面倒な事この上ないし、待ち合わせもある。

 結局は40分程遅くなってしまった。申し訳ないと平謝りしたが、仕事帰りだというKさんは、気にする素振りもなく待っていてくれた。一昨日会ったばかりだというのに、なぜか久し振りのようにも感じられた。 

 彼女の車でお薦めの店に行き、ビールと美味しいローストビーフ丼のセットをおごって貰った。食べながら、Kさんは僕を食事に誘った理由を話してくれた。


「実は、震災が起こってまだ間もない頃、このレストランに友人と三人で来たんです。ご飯を食べ終わってお会計しようと思ったら、カウンターにいた高齢の方が 『払わせてくれ』と仰って。 『震災後にはみんな出歩きもしないで、街が暗くなってしまった。でも今晩は君達の明るい会話を聞いていて元気を貰った。もしまたここに来る事があれば、その時はまた別の人にでも奢って返してくれれば良いから、遠慮しないで』と。だから、今度はこうして他所から熊本の為に来てくれた方にお礼をしたいな、と思ってたんです」
 

 僕の方も、これまでにもこのブログで書いたような、自分がボランティアに参加した理由を話した。

 ……東日本大震災のと参加したいと思っていたが、結局は参加できなかったと言う負い目があった事、そして経験値を上げる為……

 自分本位と捉えられてもおかしくはないが、Kさんは「ありがたい」と言ってくれる。僕からしてもとても有難い事だ。それから彼女はご主人など家族の事を話し、僕は過去の自分の経験について話した。
 
 食べ終えると、常宿になったサウナまで車で送ってもらい、風呂に入って明日の準備をした。再び読みだした中村文則『遮光』に飽きると、漫画『弱虫ペダル』を読んだ。

 次の日は最後のボランティア活動の日だが、熊本市の募集に参加する事は既に決めていた。

 各所で多くの方が「一時間で終わってしまった」「倒れた箪笥をひょいと起こしてそれで終わり」などと不満そうに言っていたし、旅立ちの直前、保険取得の為に訪れた地元の福祉協議会では、男性職員の「仕事にあぶれてしまった」という話も聞いていた。

 それほど不満が残るような状況ならば、それならばそれで経験してておくべきだと思った。
 最終日が不満の残るものになってしまっては残念だが、それも経験には違いないだろうから。

――つづく 



(編集、構成:東間 嶺)