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 先日、「あいちトリエンナーレ2016」の3会場(名古屋、岡崎、豊橋)を12日の小旅行で巡った。豊橋会場の小林耕平、岡崎会場のハッサン・ハーン、名古屋・長者町会場の今村文など、印象に残った展示はいくつかあったが、ここでは豊橋会場の水上ビルで見たラウラ・リマの《フーガ》について雑感を記しておきたい。


 水上ビルとは豊橋駅付近から約800mに渡り複数の建物が軒並み連ねる古いアーケード商店街のこと。ラウラ・リマの《フーガ》は、この商店街の中にある4階建ての狭小ビルを使ったインスタレーションで、100羽もの小鳥が建物中に放し飼いにされている。訪れた人はこの「小鳥屋敷」を探索することが出来るのだが、もちろん小鳥に触ったり無闇に近づいたりする行為は禁止だ。小鳥たちを驚かさないように、金網を張り巡らした入口から二重のドアを経て室内に入ると、さっそく桜色のくちばしを持つ愛らしいブンチョウがつがいで迎え出てくれた。


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(1)趣ある家屋。止まり木にブンチョウを発見。

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 (2)室内には簡易なつくりの巣がいくつも取り付けてある。


 建物は老朽化が進んでいる上にとても狭いので、軋む階段を慎重に昇りながら奥へと進まなければならない。内装は昭和の一般家庭を思わせる、到って普通の居住空間だ。ただし人間が暮らすために必要な家具の類は極力撤去されており、かわりに小鳥が好みそうな足場や巣がしつらえてある。

 床には小鳥の糞が絵具のドリッピングのようにポツポツと散らばる。もともと部屋全体が経年劣化で古色を帯びているのだが、糞によるドリッピングは人間が意図的には作り出せないような独特の渋い色味を部屋の古色に加えている。意外にも動物臭さはない。100羽という数字のインパクトほどに室内が鳥だらけという印象もなく、入り組んだ足場のあちこちに十数羽が点在している部屋もあれば、巣まわりに数羽の小鳥が寄り添っているだけの部屋もあり、また一羽の気配も感じられない「空き部屋」もある。
 

 同種同士で群れやすいのは彼らの習性なのだろうか。どのような空間が自分たちにとって快適な場所なのか、小鳥たちは本能的に選び取っているのかもしれない。こうして人間の住まいは小鳥たちの根城へと変貌していく。


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(3)群れるのが好きなようだが、たまにぼっちの小鳥がいる。


 今回のあいトリのテーマは「虹のキャラヴァンサライ」である。キャラヴァンサライはペルシア語で「隊商宿」の意味。つまり、創造しながらの未知への旅(キャラヴァン)を続けることが展覧会全体のコンセプトなのだ。一方、この建物に集められた鳥たちは、隣接する小鳥店からまとめて借りてきたそうで、つまりはキャラヴァンの名にふさわしく、非日常的な大移動をすでに終えてここにいる者たちなのだった。 

 小鳥店に陳列された狭いカゴの中から、行動範囲に制限の少ない開放的な居住空間へ。突然の環境変化に小鳥たちも戸惑ったのではないかと想像しそうになるが、しかしそれはあくまで人間の側の憶測でしかない。人間と動物、哺乳類と鳥類、大地を二足歩行する者と空を羽ばたく者、咽喉部分の声帯を震わせて発声する者と肺近くの鳴管を使ってさえずる者――、様々なフェーズで分断される両者のあいだには、乗り越えがたい境界が常にある。人間の側からすれば、鳥は犬や猫ほどにコミュニケーションの幻想を抱かせてくれる生き物ではない。たとえ手を伸ばせば届く距離に小鳥がいたとしても、何か根本的な「届かなさ」が接近を躊躇させるのだ。
 

 だから、訪問者は小鳥とのあいだに保つべき距離を慎重に測らなければいけない。一定の距離さえあれば小鳥たちは逃げないのだ。それでも何かの拍子に危険を察知すれば、彼らはいっせいに群れごと飛び去ってしまう。そうなると接近への期待もたちまちしぼむ。鳥たちの逃げ去りはまるで風船の破裂だ。一変する空気に目が覚める思いがする。彼らの予測不能な行動様式に、ほんの少しの落胆を覚えながらも感動する。展示のタイトル《フーガ》は音楽形式の「フーガ」に由来するのだろうが、もともと「フーガ(fuga)」がイタリア語で「逃走」を意味することを、ここでふと思い出す。


 意外だったのは、彼らの姿かたちよりも鳴き声の方が記憶に残ったことだ。小鳥たちの鳴き声はからだの小ささの割には室内によく響く。物陰や巣の中に姿をくらましているあいだも、鳴き声だけは鳥たちの存在感を周囲に伝達するのだ。100羽の小鳥たちはいわば、さえずりという伝達形式を介して自分たちの存在を空間へと溶解させている。私たちは特定の「どの一羽」に帰することのないさえずりを、音源との距離を測るような聴取の仕方とは別のモードに拠って、環境音楽のように味わう。人間と鳥たちのあいだを満たす媒質として、環境化したさえずりが前景化する。

 ところで、鳥がなぜさえずるのかと言えば、求愛行動、縄張り宣言、個体間の情報伝達といった役割のためである。都会に棲むシジュウカラは周囲の喧騒に掻き消されないように、鳴き声の周波数を高くして背景騒音に対処しているという。つまり、鳥たちは環境に応じて生態をアップデートする。転じてラウラ・リマの《フーガ》を体験する私たちが、いま聞こえているさえずりを介して環境を再発見したとしても不思議ではない。そこで問題となるのは、視覚偏重主義の「観賞」ではなく、「干渉」や「緩衝」の度合いである。私たちは、容易に交流できない対象=小鳥が雲隠れして不在の衣をまとうほど、空間全体、環境全体が浮かび上がるさまを体験する。


 建物の階段を昇りきるとそこは屋上だ。金網が張り巡らされた小さなスペースとはいえ、頭上に空が広がり、風が吹き抜ける屋上は気持ちがよい。あたりを見回せば、無造作に組まれた止まり木、餌の散らかった巣箱、成長しきった観葉植物などが目につく。人の手入れから逃れた開放区といった印象だ。

 小鳥たちの小さなからだは、もはやこの雑然とした景色のなかに紛れている。この屋上が小鳥たちにとって快適な場所なのかどうかはわからないが、彼らが本格的な「フーガ」に向かって飛び立ってゆくことを予感させる場所なのは確かである。ここでは、さえずりすらも外気にさらわれて頼りなく掻き消えてゆく。

 四方を取り囲む壁を失った場所で、小鳥と人間のあいだの境界が、一瞬だけ溶解したような錯覚をおぼえた。


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(4)屋上にて。



※ 撮影:中島水緒(1~2)、山口寛子(3~4)