I-Ⅲより続く
IーⅣ
《記憶 mnemosyne》についてたちかえりたい。まず、思考の内部での表象作用である《記憶》というものを眺めてみる時に、記憶を司っている傾向性である《想起 anamnèses》の在りようを初めに考えていきたい。…つまり、なぜ想起とは可能になりうるのだろうか。もっともシンプルな説明であると思えるのは、その時々の必要性に応じた意識下の、前ー言語的な記憶が、無意識と意識の連関によってひきあげられるためである。また、もうひとつすぐに思いうかぶのは、視るひとが視られる対象をまなざすときに、その対象へと関心が集まる現象学で呼称する《志向性》に、《想起》が表裏一体となり連動しているのではないかということである。ひとの認識はたとえば視覚においていうなれば、ゲシュタルトで説明されうるように、意味づけられること≒既知の事象のふちどりが浮き上がり輪郭をもって識別されうることに他ならない。
想起――志向性――認識……これらの思考と深くむすびついた知的ないとなみが、すべて記憶(mnemosyne)、それも無意識に貯蔵されてある膨大な過去のセンス・データの断片、たゆたう上澄みからの掬いあげによりなされていたとするのならば。ここでいう認識という語は、把握された事象へ言語や思考を再構成したうえでの了解といいうる、一般的な広義の理解に近しい語義としてもちいている。《記憶》……それは先カンブリア紀の太古のまだ毒素の強い、節くれ立った岩壁の海岸線のつづく海原の深海で、やわらかくミトコンドリアとして他生物と溶けあいながらも拡散していった原初の生命体、その原形質のプランクトンが相互にわたりあう交信を夢想しているかのようだ。
胚が形成されてから脊椎をかため、まるく尾骶骨を両生類の尾のフォルムのまま母胎で徐々に人間の体組織構成へと成長してゆく胎児は、夢野久作が著書のなかで紹介しているように……実際に進化の夢をみているという。三木成夫スケッチの胎児フォルムは時間の堆積としての時代を形にしたものを映している。太古の生物の進化の過程が遺伝子に刻みこまれた記憶であるようにして、時代ごとの生物に憑依しつつ進化してゆく細胞分裂の過程から壮大な時軸の巻物の分岐点を通り抜ける細胞の分化。遠方の人間というまで時間を伸ばしたうえでたどり着く、その先の突端。宗族分化点においての、太古からの記憶というものがはたして神経細胞以外の体躯に刻印されているのかどうかは、わからない。しかし、眼球は神経細胞であった細胞質のあとにかたちづくられた進化の過程の産物でもあるし、皮膚や表皮もすべてもともとは太古の生命体において体壁であった器官であり、手足や大脳なども体壁細胞から進化の過程で分岐していったものだ。夢野は身体にこそ記憶が記憶されているということを強調し描く。だがそれは意識では抱ええない部分すべてを、安易に身体というものが感覚や理解として占めるということを示すためではないだろうか。無意識の――それももう古びた言いまわしでさえあるこの領域は――時軸の壮大な巻物までをも組み込んだ広大なものであるようにおもえてならない。
それでは、音楽、思考、記述といった洗練によって遠のくものとはなんなのであろうか。エクリチュールという現象から声が遠ざかるとき、その声が記してゆく残響についてを、この章のさいごにとらえてゆきたい。ファンタスムの結び目として、声から記述への移行のさいになされるオイディプス的な囲いこみのなかで、なお残存する声はまがまがしい呪いでも、懐かしい子守唄のようでもある。恐れをラテン語の源語としてもつ案山子(terrificatio)としてライ麦畑にすえおかれた――まるで、おだやかな表情でバケツを被されたその年の初雪で作られた純白のスノーマンのようだ――呪わしくも優しいはなうたが、下-意識の、前-言語的領野に染みついている。このスノーマンの位置する場所は深層であるのだろうか、と僕はきっと問いうるのだろう。いや、――とファンタスムの僕は雪となった体躯をみまわす――もっと、うわずみにうかんでいるよ。
(I-Vへ。)