IーⅡ
より続く


IーⅢ

 情景の断片に、奥行きの断片を得ることで、遠近法的視座が構成される。そこに時間感覚の断片が参入することで、その場所はリアリティをもったみずからの身体が位置する空間として展開する……。これらバートランド・ラッセルが《センス・データ》と呼んだ断片的な知覚情報とも言いうるものらを集積し、思考のうちでも記憶における想起(anamnèses)を経て再現前するさいには、《イマージュ》と《思考》のあいだに横たわる狭間ほどの非言語的ためらい、空隙を関知するだけの寸断を与えられることはない。このように、瞬時に単なる環境情報としてのセンス・データ集積を日々、とりわけて意識せずにも人間の知覚にもって行われる理由とは、断片的な情報――角度、色、明暗、長短を時間という連続性の導入によって――《空間》として僕らのまえに現前させるための、視覚野にかかわる事象であるからなのだろうか。また、《リズム》と《音楽》に関してならば――鑑賞者と演奏者(成作者)との相対性をすえおいて考えると――メロディとは、客観的な世界を流れる時間によって、聴き手に対し能動的に与えられるものである。ある人間の意識をつなげる主観的な時間でさえも……試しに心内で何かのメロディを思い浮かべるだけでもいい。みずからの内奥でくちずさまれるリトルネロとしての、そのはざまから音楽はいつかの聴覚を経て、植えこまれた楽曲の…精度の程度はあれど、内面化された時間感覚のなかを進んでゆく。音と音、リズムと拍が、時間に繋がれたものとしてメロディになる。

 声と記述言語(écriture)……、声というものが根づく在処がそのような境界地帯においてであるのなら、エクリチュールとは野生動物を保護し隔離しうる鉄檻の、自然界に存在しない精確な直線を保った冷ややかな格子であるだろう。精緻されたグリッド、そのような格子として記号表現は曖昧な輪郭を湛えるものたちを言及しようと試みる。声がもし、何か感情や動乱へと作用するような火薬物や起爆剤であるのなら、エクリチュールとは声の弾丸が誤って破裂しないように、または持ち主の手になじむように精密に手入れをほどこされた銃身そのものであるだろう。…研かれた拳銃は、
腔発はせず理性に管理されているように。
 
 声とは彩色的なはたらきを持ち、エクリチュールは装飾をほどこす能力がある。声を細分化し、精緻な論理へと記述することで再構成しうるようにエクリチュールには声の解体・再構成の能力があるが、声にはその強さや明暗・色味で記述をつぶしうるものである。それでは……ここから、どのように両者のはざまからたどるむすびと、その相反する二者の分裂をなぞらえていこうか。声としての、こころの内奥の表象作用に浮かび上がる思いを、たんにそのまま言及すること自体は発話行為、もしくは記述要素のふくまれた言述行為でしかない。完全に声のふくまれない記述言語の漂白性はラングなどでさえも乏しく、みずからの語りからの隔絶、それも書くためにつづられた語りの再解体の痕跡を見いだしうるものであるだろう。それさえも越えた完全にまっさらな記述とは、気象観測のデータ記録やコンピューター言語などでも基底とされる二進法様式、その語らえる声なき数値に収束してしまえる。
 
 それでは、《声》というものはなぜ《歌》そのものとはならずに――また、《思考、感情の流れそのもの》ともなりえずに、《言述、ディスクール》へとたどりついたのか。ここでの《言述》とは、声の全く参入しないデータ記述から隔絶した、僕たちの読み・書き思椎するさいに表出する記述言語についての総称であるような――《記述、エクリチュール》と等緯度線として指している。ここでの澪標をさがすために、上述までの考察にたちかえってみたい。《拍子、リズム(rhytomos)》は音程と時間感覚の二者を得ることで、《音楽、メロディ(musa)》として空間的に再構築されえた。そして《イマージュ》とは、単にみずからの従属する環境の、物理的空間把握とは異なり、非言語・非言述・非声的なまどろみともいえるためらいに堕ちこむことで、まるで認識の深淵から記憶の糸をさぐりだそうと想起(anamnèses)を通過するそのこと自体が……《思考(pansée)》、そのものとしてあった。言い表すためのほんの些細な瞬間、意識さえもされずに意識は溺れている。この場所には、説明しえないという意味からの虚無を越えたような、瞬時でなされる論理的跳躍がある。《声》というものは自然的なありのままのものに対する、オイディプス的ともいいうる《洗練》を経ることではじめて、記述として文字に、発話行為に浮かび上がるのではないか。ここで、また僕はつまづかずにはいられない。あえてデリダとの道程をたがえてきたのにもかかわらず、否応なくたどりついてしまったかというように。

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