IーI:声と言述、より続く
IーⅡ
音響の断片的イマージュである《拍子 rhytomos》の集積を、想起(anamnèses)的傾向性によって記憶がつなぎあわせ、まとめあげて空間化したものを《音楽 musa》であると考えてきた。ここで、知覚によって拾いあつめられたもののコラージュ、それが立体感を得た再現前として表出するということを、ここからは《イマージュ》と《思考》の場合はいかように機能しうるかについてかえりみてゆきたいと思う。みずからの知覚へととりこまれたイマージュ、それは切れぎれの画像的認識、断片的な色彩や質感をもちあわせた外観のことであるように、単なるとりこまれかき集められたイマージュがフラットに再構成しえるものは、物理的な空間把握や建築空間の体感であるといえるだろう。そのとき、《イマージュ》という視覚的知覚に深く関わる表象作用が、《思考 pansée》へとずれこんで巻きかえる様相について、もっと踏みこんで論じる必要があるのかもしれない。
ティーカップの縁をなぞる。その物憂い非言語的なニュアンスのうちに、ふと何かの予感が想起される。昔のセピアに色づいた思い出がひきだされる。もう浮かんでいる断片をとらえる、そのようにして思考(pansée)というものは過去の時間を引き連れたものである。《イマージュ》から《思考》へとたどる変遷のうちには、無音のまどろみともいいうるほんのささいな意識の寸断、思考の昏睡状態への刹那的なおちくぼみが浮上する。ふと我にかえると、時計の長針はおもいのほか日時計をすすめていたというように――言葉からはなれた一瞬の忘我の瞬間に、断片であったばらばらの《イマージュ》は何か包括的で論理的、構築的でさえある《思考 pansée》として表象されえてしまう。
この一瞬のためらい(stupor)のうちには、いったいどのような断絶が横たわっているのだろうか。キェルケゴールの『おそれとおののき』で考察される、アブラハムの沈黙についてたちかえらねばならない。アブラハムはふるえながらも我が身をさしだしたイサクの目前に、ヤハウェへの猜疑心から嘆願へと彼自身の感情的葛藤を経たうえでのためらいのうちに沈みこむ。微睡み、ためらい。この無言のはざまで彼は何をみいだしえたのかという問い。そこから摘出されうるのは、葛藤として論理的変遷をたどることで変容した絶対神との契約へ対する真意の表出――つまり、アブラハムはその真意がヤハウェに対しても、イサクに対しても、疚しさとして現前することとなりうるということではないか。
リズムと余白、音楽と無音……そのようにして、イマージュと暗黒、思考と虚無は、いりまじっている。ベンヤミンがアレゴリー論において象徴(icône)とは、抽象的な多層性をおりなすレトリカルな喩としてのアレゴリーからはもっとも遠いものだとしている。このように限定された指標性を設定されているがゆえに、具体的な描写によって縁取られている絵画作品や映像フィルムに浮かび上がるイコン表象は、思椎・思考からイマジネールの回路としてもっとも離れた表象であるとみなしうるのではないだろうか。通常の固有名詞群の概念的な広がりは、このイコン表象を類概念に包括された、より狭いまとまりの種概念とみなされうるように。それらから拾い出される断片を記憶の傾向性(anamnèses)が集積しなおすことによって、抽象性を得るようになり、表象作用としての思考によって、思考そのものの表象であるナラティブな物語性や抽象的観念、哲学的概念として構成されうる。この両者のはざまでのためらいに巡り逢うとき、僕たちは一体、どのような無音のなかで疚しさへと沈潜するのだろうか。この境界でのためらいからの浮上は、ある種のファンタスムによって掬いだされることで可能となるものだ。アレゴリーというものが多層に移ろわざるをえない意味作用の喩的機能であるのなら、ディスクールにおいてそのためらいとは、ベンヤミンが呼応するところの歴史の停留(stationen)としての堕ち窪み、つまり語りそのもののざらついた記号としての形象や、声の払拭されたあとでさえもやどっている筆跡や印字の掠れとして僕たちの現前に顕れる廃墟としてのアレゴリーそのものの様態に近しいものなのだろう。
(I-IIIへ。)