IーI:声と言述
どこから語りだそうか。とりとめもなく、記述言語と音声言語のはざまをなぞらえる、描くディスクールというものへの関心がいぜんよりもある。それは神経症を煩わせているとも勘違いされうるばかりの、過敏なほどの美意識をもってしながらも、同時にまがまがしさにうちひしがれる余韻を曳きづり、僕と僕の語りうるものへと大きく距離を空け、懸隔をもたらせざるをえないものである。
声とディスクールのはざまについてを、この陳腐ともいいうるテーマをあきれるほどにたどたどしい時間を掛けながらも独りよがりに考えている。その声から記述言語への、また記述された言述から音声言語としての思椎や欲動への境界についての礎を、すこしでもこまやかに拾いだすために――《リズム》と《音楽》、そしてそれら記憶のつかさどる情動と知性の連動からゆるやかにつらなる《イマージュ》と《思考》についてをモチーフとしながら――その両者をつなぐファンタスムのむすびめがどのようにあるのか、どのように機能しつつ、言述行為や発話作用に影響をあたえてきたのかを考えていきたい。
《拍子 rhytomos》と《音楽 musa》……、この二者については以前から考察をこころみてきた断片的なものとして、語る試みをしてみたいと思う。ドゥルーズが『ミルプラトー』で語りうる《リトルネロ》は、あらけずりの幼子心がいだく不安・孤独感を、単調なリズムの子守歌をくちずさむことによって払拭す《領土化》についてであるのだと述べられているように、《リズム》の反復は、《音楽》へとたずさわり、雑多なノイズにみちみちた情景・心情へ、みずからの声という音響をもちいることで、それらに拍と音程をあたえることを、グリッドと欄線のうちがわへと混沌とした環境をあてはめ、整えてゆくことそのものへと通じる。
《リトルネロ》、それは小さな幼子が難解な曲線関数グラフや非線形の飛沫に、まっすぐな直線をひいてモノクロ化してゆく人間の本性にねづいた行為である。それでは《リズム》の反復から、《音楽》へはどのように到達しうるのだろうか。ここで鍵となるのが、想起(アナムネーシス)としての《記憶》であるのだろう。反復されるリトルネロを領土としたリズムとは、細切れで単調な断片としてのイマージュである。そのモノクロな拍は淡々とされる繰り返しのなかで、音として、響きとして色彩の感覚を呼び起こす。たんなる震え、振動。怒りにまかせた激情、笑い。悪寒や喉の乾き。これらは身体反応としての、細胞のこまやかな痙攣である。リズムとはそもそもが、楽器のふるえ、手拍子、声帯を痙攣させてだされる声による《音響》であった。気色のなかにある粒子の震えに、乱れがあるとする――そこにみずからの咽頭、情緒をふるわせた声をかぶせる、そのようにとある痙攣の乱数的な過分に、よりみずからの親しんだ近しい痙攣をもちいて均整をあたえる、このようにして《リトルネロ》は幼少期をささえていた。
( I-II へ。)