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著者近影(撮影:東間嶺)

「本郷さんの病名は、精神分裂病です」
 
 ノストラダムスの大予言が当たっていたならば、空から恐怖の大王が降りてきて世界が終わったはずの1999年7月、僕は精神科医に自分の病名を告げられた。その告知を聞いた僕はもうすでに絶望し尽くしてしまっていたので、「ああ、そうなのか」と聞き流した。

 僕が高校時代を過ごしたのは1994年から1997年3月までの3年間だ。その間に僕はすっかりサブカル人間となっていた。吉田戦車は中学生の時から好きだったし、『ガロ』を読んで『ねこぢるうどん』のファンになり、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』も毎回チェックしていた。特に影響されたのが、『完全自殺マニュアル』の著者である鶴見済と、鬼畜ライター村崎百郎の『電波系』という著書である。鶴見に関しては、『人格改造マニュアル』での覚醒剤ゲキ推しと、薬を使って生きやすくなるというスタンスに惹かれたし、『電波系』においては、精神病に興味を持って色々調べたり、自分も「電波な文章」を書こうと思い、本で紹介されている電波な人々の怪文書をまねた文章を年賀状に書いたりしていた。

完全自殺マニュアル
人格改造マニュアル電波系ゴーマニズム宣言1 (幻冬舎文庫)
(各書影出典:Amazon)

 それからしばらくして入った大学で、学校中の人達から噂されているとの被害妄想の後、とんでもなく無気力になって、自分でも何かオカシイと感じて精神科にかかったわけだが、通院しだして1年くらい経った頃、大学病院でセカンド・オピニオンをもらうための紹介状を主治医に依頼した時、冒頭の病名告知を受けたのだ。

 普通、精神病、特に統合失調症(精神分裂病は2002年に統合失調症へと呼称変更された)に罹った人は、自分が病気であるとの病識がなく、治療のための薬を飲むのを嫌がったりするものだが、鶴見済と村崎百郎に感化されていた僕は、精神科の薬を「飲んだらどうなるのだろう」と興味津々で何の抵抗もなく飲んだし、医者から精神分裂病だと言われた時は、もうそれを肯定するしかなかった。

 もちろん病気のせいで学業が続けられなくなり、子供の頃からの物理学者になるという夢も断念せざるを得ず、そういう自分が置かれた状況に深く深く絶望し果てていたのは確かだが、ノストラダムスが予言した世界の崩壊の代わりにもたらされた精神病そのものは自分のなかですんなり受け入れられたと思う。

 それからあらためて僕は鶴見済と村崎百郎の本をそろえ直した。『人格改造マニュアル』は生きづらいなら薬を飲んで生きやすくなろうというコンセプトで、最初にプッシュされている薬が覚醒剤なのが激ヤバであるのだが、まあ覚醒剤には手を出さなかったけれども、脳を薬でチューニングすることの抵抗感は僕にはなかったし、精神科の治療薬も素直に服薬を続けることができた。(途中で薬を自己判断で止めてしまい、再発する人はとても多い)。

 薬を飲んだら、被害妄想などはいっぺんに消えた。




 精神病者をサブカル系コンテンツに変換してしまった『電波系』においては、そこで書かれた面白コンテンツとしての精神病や精神病者について、病気の当事者としてツッコミながら読み直すことができたし、変にタブー視されるより、こういう風にネタにしてくれたほうが助かるよなあと思ったものだ。(2000年代半ばからメディアで統合失調症が取り上げられることが増えてきたが、以前はまったくメディアでは病気について解説されることすらなかった)

 1998年から本格的にインターネットを見るようになり、そこには「クスリ」を飲んでいる人たちがたくさんいることも、僕の心を助けた。主にうつ病に関しての言説が多かったが、ネットライターらが中心となって出された精神科の薬についてのミシュラン本では、統合失調症の薬についても取り上げられていたし、ちょうどメディアでは引きこもり問題がクローズアップされていた時期で、そのことも僕が置かれた状況がけっして珍しいものではないと思わせてくれて、助けになった。

 僕は本当に90年代のサブカル、特にアングラな方面のそれに、ずいぶん助けられたと思っている。鶴見済や村崎百郎の本と出会っていなければ、精神科に行くことすら躊躇したと思うし、強制的に入院させられるほど悪化するまで治療を拒絶していたかもしれない。これらの本が、病気であることと、それによりもたらされる現実からくる絶望を緩和してくれた。

 自分がいま直面している困難について、語られない状況。それがよりいっそう、困難に直面している人たちを苦しめる。90年代、精神病や向精神薬についての言説が、サブカル方面にしかなかったという現実があったし、だからこそ僕にとってサブカルは救いの言葉になった。いや、メディアで病気のことが少しづつ語られるようになった現在であっても、公の言葉でない、等身大で切実な言葉はサブカルチャーの側にあることが多いと思う。福祉や医療の言葉だけしか届かないのであれば、やっぱり困難に対して絶望してしまうだろう。困難を乗り越えるには、困難をコンテンツ化することも大切な方法だ。そうやって文化の要素となった言葉が困難者を救う。
 
 だから、ある文化について一瞥しただけで、排斥しようとしないでほしい。いっけん不健全な文化が、枠から外れた人たちにとっての、絶望への中和剤となることがあるからだ。『完全自殺マニュアル』も『人格改造マニュアル』も『電波系』も、現在の政治的正しさとはかけ離れているし、今の出版業界では刊行不能なのかもしれないけれど、もしそれらの本がなければ、僕は働けるほど、あるいは文学フリマで同人誌が出せるほど、回復していなかったかもしれないのだ。

 いかがわしいものが、いかがわしいと見下されてしまうような困難者たちを救済することがあるのだと、もっと世の中に伝わってほしい。また、今後もそういう文化の自由が失われないことを願っている。


(編・構成:東間嶺@Hainu_Vele)