『奇跡』は、牧師のカイ・ムンクによる舞台劇を原作に、ドライヤー自身が脚本を書き起こした作品である。舞台は1930年代のデンマークの片田舎。農場を営むボーエン一家を中心に、映画の大半は室内劇の形式で展開される。信仰に厚いが頑固な老家長のモルテン・ボーエンには3人の息子がいるが、農場を手伝う長男ミケルは信仰心が薄く、年若い三男アーナスは一家と対立宗派にある仕立て屋の娘アンネと恋仲にあり、神学生だった次男ヨハンネスは数年前から気がふれて、みずからをキリストと名乗っては奇矯な振る舞いで周囲を困らせている。
問題含みのなか、一家の潤滑油となっているのが長男の嫁インゲルだ。彼女は第三子を身籠りながらも家族の世話を甲斐甲斐しく焼き、アーナスとアンネの仲をさりげなく取り持ったり、モルテンの頑迷な宗教観を優しく諭したりしている。しかし、穏やかにゆったりと流れる時間は長くは続かない。とつぜん産気づいたインゲルの容態が急変し、お腹のなかの赤子ともども彼女は死んでしまう。
葬儀の席で悲しみに暮れながらもボーエン家と仕立て屋一家が和解し、自分たちのこれまでの狭量な信仰心を悔いていると、一時蒸発していたヨハンネスがどういうわけか正気を取り戻して家族のもとに帰ってくる。「神の御名において、インゲルよ、蘇れ」。ヨハンネスが投げかけた言葉によって棺のなかのインゲルは息を吹き返し、ミケルに抱きかかえられながら半身を起こす。死者が蘇生するという、この上ない「奇跡」が実現したところで、――クライマックスの高揚感が現実の地平に引き戻される間を与えることなく――映画は幕を閉じる。
あたかも本当に死者が蘇生する瞬間に立ち会っているかのような錯覚を抱かせるワンカットの見事さも含め、『奇跡』のラストシーンが感動的であることは間違いないのだが、「奇跡」が起こったその後の世界を想像すると、余計な詮索をせずにはいられない。どことなく異様な雰囲気を引きずったままのヨハンネスは本当に正気を取り戻しているのだろうか。生き返ったインゲルを周囲の人間は手放しに喜んで受け入れることができるのか。蘇生直後のインゲルの表情は恍惚として神秘的でありながら、いまだ死の世界の住人であるような不気味さをも湛えてはいないか。
ハウスナーは1972年生まれのオーストリア人で、一時期はミヒャエル・ハネケのもとでアシスタントを経験したこともある女性映画作家だ。『ルルド』がドライヤー版『奇跡』の現代的解釈であることは、『奇跡』の一場面(病床のインゲルがベッドに横たわるカット)を露骨になぞった構図からも明らかであるが、ハウスナー自身、『ルルド』の製作にあたってドライヤー『奇跡』の影響を受けたことをインタビューのなかで明言している。
一方、室内の調度品からただの壁までが緊張感を帯びている『奇跡』の古典的で厳かなトーンとは対照的に、『ルルド』では冷徹で乾いた視線が一貫している。もちろん、映画の終わりに戯曲的大団円などは訪れないし、クライマックスに向かって諸要素が収束していくような映像の運動もいっさい見られない。『奇跡』が親密な家族間のネットワークを基盤に物語を展開しているのに対し、『ルルド』の人間関係のネットワークは結束を欠いていて、束の間に切り結ばれる関係も、意味付けの固着力が弱過ぎるがために、すぐさま散逸していく運命にある(この点、「すぐ戻るから」という台詞が、その約束を本気で守る気もなさそうな幾人かの人物によって吐き出されるのは象徴的だ)。
『ルルド』のあらすじも辿っておこう。物語の舞台は現代のフランス・ピレネー山脈付近にあるルルド村。この地には聖母マリアが出現して奇蹟を起こしたという伝承があり、泉の湧水には万病治癒の効能があると信じられているが、現代では物見遊山の旅行客から信仰に篤い巡礼者まで年間600万人が訪れる観光地化された聖地となっている。
主人公クリスティーヌ(シルヴィー・テステュー)は多発性硬化症を患っていて首から下が動かせず、長いあいだ車椅子生活を強いられている女性だ。その面差しには知性による抑制と深い諦念が入り混じっており、特別に熱心な信仰者ではないのだが、車椅子の自分が参加できる旅行は限られているという消極的な理由から、障害者向け団体ツアーでルルドに滞在している。
カトリック教会が後ろ盾となった障害者向けツアーのため看護体制は充実しており、クリスティーヌにはボランティア看護団のメンバーである若きマリア(レア・セドゥ)が付添い人となる。だが、日常を少しばかり変えたかった程度の動機でボランティアに参加しているマリアは、始めのうちこそ不器用ながらに世話を焼いてくれるものの、すぐに男性看護人たちのグループと秋波を飛ばしあうようになり、肝心のクリスティーヌの介護は気もそぞろ状態になっていく。
「なぜ、彼女が選ばれたのか?」
周囲の怪訝そうな眼差しが遠巻きに彼女を包囲する。奇跡を喜ぶ者はもちろん、大仰な反応を示す者がまったくいないという状況がかえって辛辣だ。傍観者たちのあいだで交わされるのは、せいぜい「恢復状態が何日続けば奇跡と認定されるのか?」といった世俗的な遣り取りだけである。
彼らの冷淡な反応のうちでも極めつけなのは、「奇跡」が訪れた翌朝、クリスティーヌがやや誇らしげにマリアの前で立ってみせたときの、眉ひとつ動かさないマリアの無表情だろう。「奇跡」の衝撃はこの無表情のうちに吸収され、その特異性も棄却される。この頃からマリアの振る舞いはいよいよ奔放さを増すのだが、これはクリスティーヌの身に起きた「奇跡」が周囲の人間にとって何ら特別な磁力を持っていないことを示しているといえよう。『ルルド』が描きだしているのは、個々の思惑のみが浮沈を繰り返す、徹底的に中心性を欠いた均質空間なのだ。
ところで、クリスティーヌらが滞在する施設のエレベーターホールにはマリア像のレプリカ(現代風に光輪が蛍光灯で出来ている)が設置されているのだが、何度となく画面に映り込むこのマリア像は、クリスティーヌの硬直した身体の露骨なメタファーとみて間違いないだろう。そして、ルルドの洞窟付近にも設置されているマリア像の首から下のみが不自然なフレーム・インで捉えられるとき、首から下の自由が利かないクリスティーヌと聖母マリアの兌換可能性はいよいよ強調される。そもそも、レア・セドゥ演じる自由奔放なボランティア介護人の名前も、皮肉にも「マリア」であった(ちなみに映画の冒頭で流れる音楽も「アヴェ・マリア」である)。ここでは聖なる存在も、信仰を持たない世俗の人間も、すべてが形而下の等価な存在として置かれ、その身に降りかかる災難と奇跡が入れ替わりうることがほのめかされている。だから、クリスティーヌの身に奇跡が起きたのも、ひどく音痴なマリアが歌うカラオケの曲名のように、日常レベルで誰もが遭遇するような些細な「フェリチタ(幸運)」に過ぎない。そういえば、介護団のメンバーや司祭たちが呑気にトランプゲームに興じる場面が何度か出てくるが、トランプのカードもまたひとつの喩えとみなすなら、クリスティーヌに訪れた奇跡はトランプの良いカードがたまたま手元に来た程度のもの、と解釈することができるだろう(映画全体の基調となる赤、白、黒の色彩もまたトランプ的色彩である。)。
ハウスナー監督は先に紹介したインタビューのなかで、「奇跡は別に聖なるものではないの。それは宝くじとも同じ」と語っている。トランプの良いカードや宝くじが当たる理由が説明できないのと同様に、クリスティーヌが選ばれた存在であることは証明されないまま物語は進行し、クリスティーヌとマリアという2人の女性のあいだに生じる距離と対比によって――さらにマリアの音痴な歌声に空間が撹乱されて――、『ルルド』における「奇跡」の脱神秘化は完成する。
2つの映画のあいだには明らかな対比が生まれているのだが、『ルルド』はかならずしも『奇跡』の批判的応答に終始しているわけではない。たとえばクリスティーヌの硬直した身体は、『奇跡』で神秘的かつ不気味に生起していたインゲルの身体を正しく引き継いでいると解釈することも可能である。その継承が、あくまで現実の地平で行われているだけのことだ。映画の前半では、まだ身体を動かせないクリスティーヌがベッドの高さの調節をボランティア介護人らに頼むシーンがあるが、クリスティーヌの「奇跡」=「自力で身を起こせるようになること」は、このようなベッドの上げ下げの延長線上にある。つまりは現実と地続きなのだ。確かにクリスティーヌの身に起きた「奇跡」は、硬化症の一時的な寛解に過ぎないのかもしれないし、非科学的・超常的なものというよりは、医学的な見地から説明されうるものなのかもしれない。身体を動かせるようになったとはいえ、彼女の動作はまだこわばっていてぎこちなく、非常に不安定だ。だが、このこわばりと不安定さによって、逆説的にもクリスティーヌの孤独な身体は際立つことになる。それはあたかも、この硬直した身体こそが、他の誰にもとって代わることのできない固有性の徴しであるかのようなのだ。
クリスティーヌにとって固有性となるものが、もうひとつある。それは彼女の孤独である。まだ「奇跡」が訪れる前、クリスティーヌは滞在施設に併設する告解室で、ひとりの牧師に鬱屈した感情を吐き出していた。
「いつも怒ってる。なぜ他の誰かではなく、わたしの身に? 人がうらやましい。自由に歩き回り何でも普通にできる。」「自分より重症の人にも一切同情を感じない」
節度の人、クリスティーヌが普段は自分の心の内にのみ仕舞っていたネガティブな感情を、言葉で具体化しようとするめずらしい場面だ。しかし、牧師の答えはもっともらしい教えや祈りの言葉を形式的に繰り返すのみで、彼女の個人的な苦しみに蓋をするものだった。無理解に打ちのめされたクリスティーヌの横顔が、言葉を失って微かに震える。他人とはたやすく共有できない彼女の苦しみが、平板な映像のなかに挿し込まれてさざ波を立てる。クリスティーヌを演じるシルヴィー・テステューの微妙な表情変化は本作の見どころのひとつであるが、戯曲的大団円に取って代わるような、私たちの現実により近い何かは、こうした細部の変化=映像の襞にこそ宿っているといえるのではないか。
クリスティーヌが再び絶望の淵へと手繰り寄せられるようなラストシーンを、どう捉えるべきか。ハウスナー監督は明確な結末を示さなかった。現実と接続された「奇跡」のその後については、映画を見た者たちがそれぞれの思いを巡らさなければならないようだ。