山本貴光+吉川浩満『脳がわかれば心がわかるか――脳科学リテラシー養成講座』(太田出版、2016)は『心脳問題』(朝日出版社、2004)の増補改訂版である。本書を読んでいて思い出したことがある。
 
 ある人文系の学会にて。発表が終わり、質疑応答タイムに突入、その場で出された水村美苗『日本語が亡びるとき』をどう思うか?という質問に対して、「亡びるとかいわれても、単一の日本語なんてものは存在しないので、そのへんの意識どうなってるのか」云々と或る学者は答えていた。

 実に真っ当な答え方で、私たちが「標準語」と呼んでいるものはだいたい東京弁のことなわけで、それが「標準」になった歴史なんて大したことなく、前近代にあっては山や川を超えたぶんだけ(或いは、いまでも人の数だけ?)話し言葉としての「日本語」は散在する。そういう意味でいえば「単一の日本語」など存在せず、そこに発生しているのは複数のものを「単一」化しようとする暴力だけである。

 人文系の学者というのは基本的にこの手の暴力に極めて敏感な生き物だ。よいことである。

 ……が、ここまできて私がちょっとひっかかるのは、「でも、そんなふうに普段生きてるわけじゃないでしょ?」ということだ。

 たとえば、レポートを出し遅れた学生がその教授に「ぼくの村では「6月24日」という表記は、7月の頭を指しているんです。だから、ちゃんと受け取ってください」とか言ってきても、教授は単なるヘリクツだとしか受け取らず、真面目に相手にしないだろう。勿論、それは正しい。

 でも、「単一の日本語」がないのならば、「6月24日」が7月の頭を指す言語体系をもった共同体があっても当然おかしくないはずだ。にも拘らず、普通、私たちは学生の言い分に理があるとは思わないし、面倒事に巻き込まれた教授に同情してしまう。それは、日本語の単一性を(フィクションではあれ)どこかで信憑し、これに準じて現実に行為している(或いは行為すべきと考えている)からだ。

 なにが言いたいかというと、学術の言葉を用いれば、この世の間違い探しゲームにおいて数多くの戦果をあげることができるものの、だとしても、間違いそのものをなくすことはできないし、そもそも、当の学問の人でさえ、学術の言葉だけで生きているわけではなく、間違いながら行為している。

 こういうことをどう考えればいいのか? そこで、この『脳心』である。

 『脳心』が教えてくれるのは、私たちはいくつもの世界をマタギながら生活しているということだ。それらを一つに統合しようと途端に、「カテゴリー・ミステイク」に陥る。いや、「カテゴリー・ミステイク」さえも、諸世界のマタギの産物(間世界的産物)として生まれた一つの世界観にほかならない。「ミステイク」にはそれ相応の理由がある。ただ一つの回答を回避して、一つの回答を迫ってくるような一つの世界の構造こそを考えるべきだ。世界の重なり合うヴァージョンごとに、本当らしさがあることをまず認めようじゃないか。『脳心』のこの姿勢に私はとても勇気づけられた。

 私たちは、マタガナイ世界とマタギ世界をマタギながら生活している。そして、たまにマタガナイ世界にだけ生きたいと思うことがある。山本+吉川は、その動機を、ギルバート・ライルに倣って「ある種の知的な気分 a certain intellectual mood」(p.75)と説明している。大事なのは、学問に代表されるような知性の発揮は、割と気分によって左右されるんじゃね? ということだ。時と場所が変われば、気分も変わる。だから、マタガナイ試みは大体において失敗する。気づくと(お腹がへったとかバイトの時間だとか)別の世界観に移行しているから。

 『脳心』が素晴らしいのは、マタガナイ世界の究明以上に、マタガナイ世界からマタギ世界への移行を堕落と捉えるのではなく、その移行の論理さえも問題構制のなかにとり入れようとしているところにある。真実の世界にいくための近道を考えるのではなく、世界と世界の間を移動する(してしまっている)その理屈を考えること。

 この姿勢は、快刀乱麻を断つ、のではない快刀(=キレた頭)の使い方を教えてくれている。乱麻(=難問)が一気に解決しました! なんてことはならないのだけれど、解きほぐして見通しをよくすることで、乱麻と正確に付き合っていくための使い方だ――同じことは著者の一人、吉川浩満『理不尽な進化』についてもいえる、この本は専門的進化論と通俗進化論解釈のマタギに関して「快刀」を発揮している――。

 正しいことを言おうとしたとき、正しい道具立て(概念の布置や歴史的な文脈)を揃える必要があると思って、色々勉強するのだけれど、ふと振り返ってみて、必死に揃えた正しい道具の体系の正しい仰々しさが、最初思っていた正しさとは似ても似つかなくなってしまった、と感じることがある。正しくないわけじゃないんだけど、なんとなく納得できない。オレがやりたかったのってこれだっけ? 『脳心』はあの歯がゆさを、勉強を無駄と切り捨てるのではない仕方で、何とか思考しようとする意欲に満ちている。

 実のところ、私は狭義の心脳問題一般についてほとんど関心がない。どうせ解決不能なのは分かってるし、解決したとして、どうせ納得できる答えにならないことも分かっているからだ――ちなみに、「大事なのは納得することだ」と私に教えたのは動物行動学者の小原秀雄で、この本には彼が最重要視していた「自己家畜化」の概念が登場する、……久しぶりに見た!――。にも拘らず、『脳心』の論述に一種の感動を覚えるのは、そのような日常と専門知を取り結ぶ真摯な思考の豊かさにあるのだと思う。