中学3年生の時、読書感想文の全国コンクールで毎日新聞社賞を取った。内閣総理大臣賞、文部大臣賞に次ぐ、全国3位の賞である。
表彰式は東京會舘で、三重県に住んでいた私と付き添いの家族1名分の旅費は用意されていて、タダで東京に行けたわけだが、あいにく私立高校の入試日と重なってしまい、欠席した。

22歳で東京の大学に入り直した大学1年生の終わり、全国コンクールの表彰式にOBとして参加した。当時は全国コンクール入賞者のOB・OG会が結成されており、過去の受賞者は表彰式に参列することができたのである。
表彰式には皇太子と妃も来ており、受賞者に個別に声を掛けていた。私はその様子をSPが作った壁越しに眺め、飲み放題のワインをあおっていた。式が終わると、OBとOGが別室に集まって、会合になった。
2月の平日の昼間である。参加者は主婦や学生ばかりだった。自己紹介になると、東京大学の学生です、とか、早稲田大学です、とか東京のトップクラスの偏差値の学生ばかりで、中堅私大に在籍していた自分はこわばった。その会合で印象に残った言葉がある。OB・OG会を主催している、老け込んだ男性が言った言葉。
 
「賞を受賞した人でプロの作家になった人はいないんですよ」

彼はそう言いながら、OGが自費出版した絵本を取り出して、回覧させた。すでに作家志望であった(まだ小説は書いていなかったが)私の心には、この言葉がひどく引っかかった。

読書感想文の全国コンクールの入賞者からプロの作家になった人はいない。もしかしたらペンネームで活躍している人がいるかもしれないが、少なくとも彼が把握している中ではいないらしい。賞を取って、東大に進学した人や、キャリア官僚の内定を取った人までいるのに、作家になった者はいない。その意味をずっと考えてきて、最近、確信してきたものがある。

学校での創作活動は、先生に誉められるためのものであるということ。

読書感想文で賞を取るコツはいくつかあって、もっとも重要なのは『らしさ』である。中学生なら『中学生らしさ』、高校生にふさわしい『高校生らしさ』、それが一番求められていて、そこから逸脱すると、賞は取れない。早熟なんてもってのほか。『健全な中学生』、『まっとうな高校生』を演じることが求められる。


一方、若くして世に出る創作者は早熟であり、同年代の者たちから超越した才能を評価されるものだ。綿矢りさや羽田圭介が高校生のうちにデビューした時、彼らの作品から「健全な高校生」を読みとることは難しいと思う。
ある作家は、小説というものは親や教師に見せられないことを書くものだ、と書いていた。それは具体的にはエロや暴力なわけだが、そういう反学校的な内容を含む創作物が、学校が主体のコンクールで賞を取ることはないだろう。結局、学校での創作活動とは、学校的価値観をどれだけ内面化しているか競っているものなのだ。

だから、読書感想文で全国入賞してしまうような人間は、学校的価値観を内面化した「優等生」であり東大生や官僚にはなれても、人々から読みたいと思われる作品を作るプロの作家にはなれないのである。教師が生徒を評価・序列化するための判断基準と、芸術やエンターテインメントを鑑賞する際の判断基準はまったく相容れないし、学校的価値観なんて、学校を出た人間には「クソ」以外の何物でもない。

運動部なら学校の部活でやってきた延長線上にオリンピックがある場合だってあるわけだが、文化的な創作活動の場合、学校的なものの対極に本当の世界がある。学校なんてクソくらえ、そう言い捨ててはじめてスタートラインに立つことができる。

私がなかなか新人賞を取って、プロの門をくぐれないのも、この「読書感想文の呪い」があるからかもしれない。面白い文章を書く人は、子供の時に作文で賞なんか取らないものだ。

中学3年生にして、私は自分の才能の「無さ」、適性の「無さ」を評価されてしまったのだろうか。

(編/構成:東間 嶺)