【SBS】新宿文藝シンジケート読書会、第63回概要
 
1.日時:2016年5月28日(土)18時〜20時
2.場所:マイスペース新宿区役所横店1号室
3.テーマ:高木仁三郎『巨大事故の時代』(弘文堂、1989)を読む
4.概説:東間嶺【巨大テクノロジーは〈死の文化〉か?CP(=Catastrophic potential)と社会の『選択』】
https://drive.google.com/file/d/0B5Z85xuBi5K3ak4xWTFXRGlVWXM/view
5.備考:FBイベントページ
https://www.facebook.com/events/1755360661342812/

 

◆ 上掲の通り、5月28日の土曜日夜にSBS第63回読書会が開かれました。当月の図書は高木仁三郎『巨大事故の時代』(弘文堂、1989)、冒頭の概説レクチャーは選書した東間嶺(@Hainu_Vele)が担当しました。発表の模様はリンクの動画をご参照下さい。

◆ 高木は在野の科学者/運動家として、2000年に死去するまで日本の反原発運動をリードしてきたことで知られています。『巨大事故の時代』も、基本的には原子力の問題が中心にすえられていますが、現代社会に起きる大事故を分析する概念として、エール大学の社会学者C.ペローが唱える『ノーマル・アクシデント』と『CP(=Catastrophic potential)』を紹介したことによって、本書は単なる反原発にとどまらない、より広範な射程で人間とテクノロジーの関係性を問う優れたテクストとなっています。当日の議論も、主にそれらの提起する問題---「果たして何がカタストロフか?」「テクノロジーの放棄など本当に可能なのか?」---をめぐって展開された他、高木の在野研究者としての在り方についても意見が交わされました。

◆ 絶版本のため現在の中古価格は高騰していますが、公共図書館に収められていることも多いため、ご興味を持たれた方は是非ご一読くださればと思います。

以下、当日に配布された東間によるレジュメを転載しておきます。
(PDFリンクはこちら

巨大テクノロジーは〈死の文化〉か?
---『CP』(Catastrophic potential)と社会の『選択』---


* 図書梗概および要約 *

日本における反原発運動の理論的支柱の一人だった在野の科学者/市民運動家、高木仁三郎(1938~2000)による、大規模な産業事故を材にとった技術・文明批評。原発、航空機、科学工場、スペースシャトル等、執筆当時までに発生したいくつかの象徴的な大事故を取り上げ、それらの要因分析を通して現代のテクノロジーが共通に孕む本質的危険性、もたらされる破局の可能性を探っている。
後半部ではエール大学の社会学者チャールズ・ペロウの著書『ノーマル・アクシデント』で示される破局の潜在的可能性(Catastrophic potential以下CP)の概念を引き、民主主義的な試行錯誤、【"やり直し可能性"】(p218)が保証されないほどの破滅を招く可能性のある技術は【死の文化】(p210)であり、社会的選択として放棄すべきとも訴えた。個別の事故紹介や工学的要因分析以上に、主な読み所としてはそのような問題意識にある。
 


総論:『選択』の問題として 

  • 高木の遺した著作の中では埋もれがちだが、射程はもっとも広い。引用されるペロウ『ノーマル・アクシデント』の概念とそこから展開される技術批評は、2016年現在も依然有効である。発刊から27年経ったが、社会を運営するシステムの全体的な局面における【"複雑な(complex)"相互作用"】(p179)と【「緊密さ(tightness)」】(p182)はヒューマンファクターも含めてますます高度化し、同時に脆弱性も強まっている。
  • そうした脆さを抱えるシステムによって運営される文明のリスク、『CP』は、本書で分析される工学的なアクシデントを超えた様々な要素の影響によって高まり続けている(ex→外的事象によって増幅される危機。巨大自然災害への対処困難性=3.11での福島原発事故、南海トラフと首都圏直下型地震、阪神淡路大震災と熊本地震の被害差。大規模な気候気象による影響の様々な拡大=食糧不足、燃料不足、電力不足etc……)。
  • 高木は原発に代表されるある種のテクノロジーを、事故を起こした場合は社会に回復不能の破局catastropheをもたらす【死の文化】であるとして、発生確率の如何を問わず放棄するのが倫理的な選択だと主張するが、その『選択』は、何が『破局=やり直し不可』なのかも含めて、文明の在り方としての議論を要請する。

PICKUP---1:『ノーマル・アクシデント』
---
高度工業化/情報化文明における必然的帰結としてのリスク---


【現代のシステムは、きわめてゆるみなく作られているように見えて、いや、そうだからこそなのだが、大破綻をきたす可能性を内に秘めているのであり、それはシステムそのものの性質から生まれるという意味で、まさに”ノーマル・アクシデント”なのである。(…)
現代システムの先端性、その大きさ、強さ、速さ、効率そういった特徴こそが、巨大事故を起こしやすくしているのだ】
(P178-185)

※  高度さの仕組みから必然的に発生する脆弱性=ノーマル・アクシデント(正常事故)
 
  • ---《point》:ノーマル・アクシデントを生み出すシステムの高度で複雑な相互作用性(inter-activeness)、近接性、緊密さ(tightness)は、現在の工業化、情報化の異常発達した文明を象徴するもので、本書が取り上げる原発、航空機、科学プラント等に限らず、医療や建築、軍事、物流等、生のあらゆる局面に作用している(まずもって、巨大都市での集住という近代的生活自体が外的、内的にひとつの大きなリスク→過剰な近接性)。21世紀はインターネットが地域を超え、上記各々の作用性をさらに緊密化し、加速化している。前記したような外的要因(巨大地震、気候変動)によってそれらの結びつきが破綻するとき、高木の分析する【共倒れ型】、【重畳型】、【将棋倒し型】(p168)のパターンがより巨大で複合的な、文明の継続性を破壊しかねないものとして現れてくる。

  • ---《point》:文明の繁栄を支えるもの(システムとテクノロジー)が同時に孕む脆弱性のリスクへ人類はどう対処するべきか。テクノロジーの放棄?社会制度=生の在り方変更?

PICKUP---2:Catastrophic potential(CP)と技術の放棄 


【カタストロフィー=破局とは、いっそう大きな惨事というだけでなく、事柄の連続性が一挙に断たれるようなでき事に対する表現であろう。(…)つまり、それまでの世界が大きな破綻を経験する、それが破局であろう(…)そのような、その後の生を虚しくするようなトータルな破局を破滅と私は呼ぶ(…)どんなにわずかでも破滅の可能性が残るような技術は、究極の「死の文化」であり、そのような技術の選択はすべきでない。】(p208-210)
 

  • ---《point》:『破局=破滅』とは単なる大惨事ではなく、コミュニティや社会の連続性=歴史、文化、経済すなわち文明の継続性が危うくなるような事態を指す。

  • ---《Question》:ペロウー高木によるCPの概念、および、ミスから無縁ではありえない人間に必要な【ひとつの試行(トライアル)】、【試行錯誤(やり直し)】(p215-216)というプロセスを保証しない高CP技術(それは代替可能であるかもしれないし、できないかもしれない)の放棄という問題提起をどう捉えるか。
  • ①思考作業→自分なりにテクノロジーや社会システムの【量的評価】(p215)【技術選択の指標】(p212図)のプロットを作成し、他者との合意可能性を検討してみる。
  • ②評価条件→やり直し可能か否か=【最大限事故(被害)の想定はどうしても必要である。】(p217)。もしくは、単に公衆へのメリットをデメリットが上回るか、という点でだけ考えてみる。ex→高速増殖炉、核燃料再処理、核融合、BC兵器、ドローン、ES細胞技術、クローン技術、遺伝子組み換え、ベーシック・インカム、ビットコインetc…。

  • ---《point》:合意可能性の地平→再三記したように、いまや個々の技術を超えた現状の文明の在り方そのものが、激烈さを増す自然環境の変化等、外部との関係性によって大量死、そして『破局=破滅』に至るリスクを抱えている。それを踏まえた上で、国家間、他者間でいかなる一致点が得られるか?テクノロジーと社会の持続可能性に対する異なるアプローチ。ex→不完全な民主主義と専制管理体制のあいだに広がるグラデーション。合意の破綻→最終的には戦争の危機。


補遺---『在野××者』としての高木仁三郎


  • ---《Question》:在野での高木は研究者か?(=学問をしていたか?)→検討=『市民の科学』、『オルタナティブな科学』を唱え、長期にわたって原子力資料情報室(現在はNPO)代表であったが、東大核研や都立大、原子力事業の研究員時代に行っていた核物質の基礎研究は継続を放棄。主として国の原子力政策や電力会社の事業内容に反対、ないし批判的に検討するレポートやレビュー、著作を発表。学術的な知見を更新するような内容は少ない。


【私自身に関して言えば、事柄は、常に、科学者としての専門性とただの一市民としての感性や視点をどう両立させうるのかという、決して容易でない問題をめぐって生じていた。これと関連して、原子力資料情報室には、研究調査の専門機関なのか、反原発のためのキャンペーン組織なのか、という問が常につきつけられていた。】【一人の人間として、一市民活動家の立場は、すでに自分から取り除くことのできない身体の一部のようなものになっていた。それなら、専門家と市民、時計とかな槌という二足のわらじをはくのでなく、やることの範囲を絞ったうえで科学者=活動家といった地平で仕事をすることも可能ではないか。いや、そこにしか自分が今後生きていく道はないのではないか。】(『市民科学者として生きる』p163、174)
 

  • ---《point》:「時計とかな槌」問題への挑戦的立場。専門知を有すという意味で科学者ではあり、自然科学のエリート研究者が大学等の公的機関を辞してオルタナティブを目指した極めてまれなケースではあるが、在野においては運動家、批評家に近いといえる。

(以上、2016/05/28作成)