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益城町のボランティア受付センター。株式会社井関の熊本製造所グラウンドにて
(撮影:山口倫太郎、デジタル補正:東間嶺。以下すべて同じ)


(無職を利用してボランティアに行ってきた-から続く)

益城町―2016/5/19

 夕食の後、車で駅近くのサウナまで送って貰ってから友人と別れた。
 
 サウナは価格と中心地に近いという利便性の面から、宿泊先として予め目星を付けていた所だ。電話では、「ボランティアの方は半額」と聞いていたが、いざ到着するとボランティア参加前には適用されないという。事前にボランティア保険に加入している事もあり、何となく釈然としない感じがした。福岡から電話した際に説明があれば何の問題も感じなかったのだろうが。

 それに、このサウナのフロントは少々対応が良くないようにも思った。恐らくフロントの責任ある立場であろう痩せた黒縁眼鏡は――元々そういうタイプなのかもしれないが――笑顔どころか訝し気な表情で対応する。ボランティアを目の敵にしているというわけでも無いのだろうが、何かこちらが悪い事でもしているかのような気になってくる。
 それでも他を探すのは面倒だったので、そのまま泊まる事にした。
 
 チェックインを済ませ、酔った頭で「さて明日は何処のボランティアに参加するか?」と考えながらロッカールームで荷物を解く。
 デイパックと小さ目の旅行鞄。それが今回の僕の荷物だ。中には長靴やヘルメットなどのかさばるものも一緒に押し込められている。当初は、旅行鞄はサウナで預かって貰うか、それとも何処かのコインロッカーに預けて日中はデイパック一つで……と考えていたのだが、結果からすると考えが少し甘かったようだ。サウナは震災以降連泊を受け付けておらず、荷物も預かって貰えないそうだ。それに熊本駅のコインロッカーまでは少し遠い。
 しかも旅行中段々と荷物が重くなっていくようにも感じられ、よく旅をしていた若い頃と比べると体力の衰えを痛感した。もう少し荷物を減らし、大き目のバックパック一つにまとめるべきだっただろう。

 サウナのせま苦しい共用のロッカールームで荷物を整理する時、旅の最中二つの荷物と共に移動せざるを得ない時、僕は旅人の手本としていた50歳位のある男性を思い出した。
 その方とは、二十年ほど前にメキシコシティーのある日本人宿で短期間ご一緒した。
 彼はキューバ旅行を目的(当時はアメリカからキューバへの直行便はなく、メキシコシティーを経由するのが一般的だった)とした数週間の旅に痩せたデイパック一つで、それなのにいつも身綺麗にしていて、振る舞いも落ち着いていた。
 
 何もかもが最初から決まりきったような旅ではないのだから、やはり荷物は少な目にして一つに纏めるべきだった。
 「馬鹿だったなあ」と反省したが、しかし、結局はその厄介な荷物が、明日の行先を決めてくれたと言えるのかもしれない。サウナの更衣室で荷解きと整理に手間取っている僕に、やはりボランティア活動の為に来たという五十代位の男性が声を掛けてくれたのだ。
 
 関西から来たというその男性は、この早朝に高速バスで益城ICに着いたそうだ。そしてやはりボランティアの為に来たという方の運転する車をヒッチハイクで捕まてボランティアセンターまで同乗させて貰い、ボランティアを終えた後もその方と一緒にこのサウナへ泊まる事にしたのだという。明日もやはり、二人で益城のボランティアに参加するらしい。
 すぐさま「僕も益城に行きたいんですけど、乗せて貰えそうですか?」と相談してみたら、「大丈夫だと思う」という回答を頂けた。
  礼を言って、「では明日」という事で別れた。

 事前にボランティア活動を取り仕切る各地の福祉協議会のHPやFacebookページ等を調べてみると、ボランティア募集の枠は各自治体によって「市内」、「県内」、「九州内」、「全国」という風に参加希望者の居住地で区分されている事が分かった。
 どうやら、被害規模の程度や自治体の大小に応じてこの募集範囲を拡大・縮小する事によって、被災者とボランティア希望者の需給関係を調整しているらしい。

  全国から募集している範囲で特に行きたいと思っていたのが益城町だった。震災後、恐らく被害の甚大さによって熊本で最も有名な自治体になったであろう益城町は、当然のように全国からボランティアを募っていた。他にその当時全国からボランティアを募っていたのは、熊本市、西原村、宇城市、御船町、といった所だっただろうか。

 

 その中で、益城町や西原村のボランティア受付けは最寄り駅から大分離れた所にあり(Googleマップによると、共に歩いて一時間半以上)、車無しでは辿り着くのが中々難しい事のように思えた。「ではとりあえず熊本市にでも……」と思っていた所で、これは良いタイミングだった。


 荷物を整理して風呂に浸かり、この旅行中に読もうと持って来ていた中村文則の小説『遮光』を読み、そしてリクライニングチェアーから(工事関係者に加えて我々ボランティアなどで客が増えたようで)急遽増床された布団へと移動して寝床を確定させて目を閉じた。


益城町へ---<チーム>編成

 結局はiPhoneのアラームよりも早く目覚め、軽く朝風呂で汗を流し、朝七時半、約束の時間にロビーに出た。

 雑魚寝の環境で中々寝付けず、恐らく二、三時間程寝ただけだったが、それにしては寝不足の怠さは感じない。緊張のせいだろうか。同乗者は二名。一人は昨日僕に声を掛けてくれた方で、もう一人は車の持ち主である年配の男性だ。彼は僕と同じく福岡から来たという。
 もう一人、彼等と昨日一緒に行動したという、仙台に住む英語教師のオーストラリア人の男性(この日は、熊本市のボランティアに参加すると言っていた)に促されて写真を撮り、彼に見送られながら出発した。

 車は何度か渋滞に巻き込まれたが、比較的スムーズにボランティアセンターに辿り着いた。途中で(センターにかなり近くなってからの事だが)バックパックを背負った、恐らくボランティア参加者であろう若者を見掛けた事があった。運転していた福岡から来た男性は、「あれボランティアじゃないかな」と心配しながらも、反対側の車線を歩く若者を乗せる事も出来ず、仕方なくそのままセンターに向かった。
 
 ボランティアセンターは農機メーカーである井関の熊本製造所グラウンドを拝借して設置されていた。広々としたグラウンドは、駐車スペースに加え、ボランティア要員のオリエンテーションや各種作業に対するマッチング等の受付に必要なスペースを確保しても充分に余裕がある程だった。受付の列は継続と新規で分かれており、僕らは、ここまで運転してくれた方の「終了の時間はバラバラになるだろうから、帰りは各々で何とかして」という言葉で別れ、そこからは各自別行動になった。

 新規の列に並んだ僕は、待ち時間の後で書類に記入し、オリエンテーリングを受け(これは地元の福祉協議会で保険に入った時と同じ内容で、そう何度もやらなければならない事なのかと疑問に思った)、ボランティアの要望に対するマッチングをするため、縦横十列程に並べられたパイプ椅子に座った。

 マッチングのやり方は何処の自治体も基本的には同じで、まず職員が車の持ち込みや重機などの取り扱い(重機の要望は少ない)が可能な者が居るかどうかを確認する。そしてその他の必要人数が告げられ(女性が数名必要だとか、そういった要望もある)、その要望に対する参加希望者が手を挙げ、だいたい前列に座っている者から派遣先とチームが決まっていく。

 最初はどのような要望があるのか分からなかったため、中々手を挙げる事が出来なかった。しかし数回のマッチングで手を挙げずに過ごしてからは、「これではいつまでも決まらない」と思い、その後はほぼ全ての要望に対して手を挙げた。前列の方から決まって行くのを見て、空いたら真っ先に椅子を移動した。

 結局、とりあえず手を挙げ続けた結果として決まった作業は、「倒れた庭木を起こしてそれを支える為に棒杭を立てる作業、それから時間があれば瓦礫の撤去、その為に八人欲しい」というものだった。

 僕も含めて男性五名に女性三名、計八名のグループが決まると、まずリーダーを選出し(これは、三十代の男性が手を挙げてくれ、すぐに決まった)、改めて作業内容を確認した。

 しかし、庭木が倒れてる?何本?それに八人?大きな木?と、職員に聞いてもまるで要領得を得ない(それ以外でも、職員が聞き取りをしている内容には曖昧なものが多かった)。仕方なく、用意されていた水や経口補水液、スポーツドリンク、それから作業に必要と思われるスコップや土嚢袋などの道具を持ってから、リーダーの車と、熊本に住む女性の車二台に分乗して現場へと向かった。

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益城町で---<共同作業>


 僕が同乗させて貰ったのは熊本に住む同年代と思しき女性(以降Kさん)の車だ。

 Kさんは車中で、ボランティアに参加するのは今日がはじめてで、こうして他県からも参加して貰えるのは凄く有難い事だと繰り返し感謝の言葉を述べた。地図を手に住宅地の入り組んだ小道を地図で確認しながら、20分位経っただろうか、車はようやく要望のあったお宅に辿り着いた。確か十時を過ぎていたと思う。

 現場は中々凝った造りのお宅で、建築会社を経営されているご主人は白髪頭を短く刈った、普通の優しいおじいちゃんという感じの人だった。奥様は現在入院されており、ご主人も昼からは病院に行くそうだ。

 ご主人による作業の説明を、僕は軽く準備運動をしながら聞いた。

 事前の説明では庭木と聞いていたが、実際には庭木というより生垣で、それがブロック塀と共になぎ倒されていたのだ。被害は勿論それだけではない。リビングの大きな鏡が割れており、家具は既に大半が片付けられているようだったが、ガランとした室内が返って被害の大きさを感じさせた。更に庭の方に進むと、庭の方に突き出るような形で建てられている一角は屋根が落ちて潰れていた。

 とは言っても、その程度の被害はこの辺りではマシな方なのかもしれない。


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 向いのお宅は外壁の大半が崩れ落ち、ほぼ丸裸の骨組みだけの状態で、しかも一目見て分かる程に大きく左に傾いていた。勿論住める筈もなく、門には危険を知らせる赤紙が貼ってあった。この家は、恐らく二階を移動しただけでシーソーのように揺れるだろう。
 他にも、センターからの行き帰りでは、高台になっている一角から土砂がブロックを推し倒して通りに流れ出した跡(通行が出来るように、土砂は運び出されている)がそこかしこに見られたし、潰れた家を重機で積み上げた残骸も見られた。

 また、昼からの作業中、ガラガラガラ!という凄い音と共に、既に潰れていた一角に面した、すぐ上の外壁が崩れ落ちるという事があった。再度の余震があったのでも無ければ、僕等が特に何かしたというわけでもない。震度六強の地震が起こってから既に一か月が過ぎており、僕の滞在中にもたまに揺れる事はあったが、それも大きなものではない。にもかかわらず、積み重なった負荷によって被害は少しずつ拡大しているのだった。
 
 僕達はリーダーを中心に手順と役割を話し合い、すぐに作業に取り掛かった。まず、作業の邪魔になる瓦礫等を取り除き、次に倒れた生垣を起こした。そして生垣の根本の土を踏んで叩いて地面を固め、棒杭の為の穴を掘った。しかし杭を打つ為に用意されている杉の木を運び出したものの、それを地中に打ち込む為のハンマーが無い。作業内容が上手く掴めておらず、頭に浮かばなかったのだ。

 土木や解体、或いは工事現場の警備員など、現場仕事を経験している僕が予め気付いて無ければならなかったのだろう。アルバイトの身分に過ぎなかったが、かといって僕以外に恐らくそういった現場仕事を比較的長期に渡ってこなしていた人は居なかっただろう。
 本来ならばこれは職員が手配しておかなければならないものだった筈だ。杭の件に限らず、職員による作業詳細の確認は何度か甘いと感じた事がある。とは言っても、これも急ごしらえのボランティアセンターでは難しいのだろう。

 丁度その辺りでお昼になったので、一部メンバーがハンマーを取りにセンターに戻る事になった。他はそのまま昼食だ。僕は事前に買っておいた昼飯の一部を朝食へ回してしまっていたので、買い足すために同乗した。
 
 20分位で現場のお宅に戻ると、他のメンバーは既に食べ終わっており、お宅の駐車場に座り込んで話している。僕達もそこに加わってお昼を食べ、会話に加わった。

 現在東京在住で熊本が実家の女性(以降Hさん)は、バンコクを旅行中に最初の地震が起こり、気が気でないまま旅を続けたという。僕はバンコクに住んだ経験があるのでその話をしていると、男性メンバーの一人が、千葉の女子大生さん(以降Sちゃん)を指さして、彼女が世界二十二ヶ国を旅した旅人だという事を教えてくれた(彼女は「就職したら旅出来ない!」と嘆いていた)。
 僕にも少しばかりの海外旅行の経験があるので、女子大生Sちゃんとも旅の話をした。


益城町で---ボランティアの育成と<やりがい>

 一時間きっちり休んだのち作業再開になったのだが、そこでまた新たな問題が浮かび上がった。ご主人が用意していた横杭用の杉の木は、それ程太いとは言えないが、それにしても流石に横杭にするには太すぎたのだ。鎹(かすがい・コの字型の釘)には大きなものを用意してあったが「それでもこの横杭を留めるには小さいだろう」とは思っていた。ご主人もそれに気付いたらしく、材木屋で裁断して貰うことになったという。

 そして、当日はその材木屋が休みだったため、僕等に残された作業は縦杭を地面に打ち込んで、その後瓦礫を家の前に移動させるだけになった(この時、ご主人は既に奥さんの入院先へ向かった後だった)。

 穴に杭を立て、(杭が長い為に)脚立に乗ってそれを打ち込む。一方は僕と車を運転してくれた女性Kさんの二人組で行い、もう一方はリーダーの男性とその他の女性たち(千葉の女子大生Sちゃんとタイ旅行帰りのHさん)。皆で、順に杭を打ち込んでいった(杭打ちをしないメンバーは、瓦礫や要らなくなった杭などを整理していただろうか)。

 僕等の組が、僕がハンマーで杭を打ち込み(多少のコツが要る)、運転手をしてくれた女性が杭を支えたり脚立を移動させたりして作業分担しているのに対し、リーダー達のグループは交代で女性メンバーにも杭を打たせている。当然ながら、作業を分担し、ハンマーの使い方にも慣れている僕等の方が作業の進みは早かった。

 自分たちの作業を終えると、僕は、ハンマーを持つ千葉の女子大生Sちゃんに「代わりましょうか?」と気を利かせた。しかしSちゃんは笑顔で「大丈夫です!やりたいです!」と答えた。彼女は前日に熊本市のボランティアに参加して消化不良のまま終わったそうで、もっと働きたかったそうだ。

 もう一人の女性Hさんにも「代わりましょうか?」と言ったが、その時はリーダーに止められた。

 杭打ちの作業が終わると、リーダーが「実は僕、ボランティアを育てる仕事もしているんですよ。それで、やっぱりボランティア作業にやり甲斐を感じて貰うには、自分達で作業をこなす事が重要なんです」と言って、女性メンバーにハンマーを持たせた理由を教えてくれた。

 なる程、Sちゃんの笑顔はそういう事だったのだ。
 僕は気を利かせているつもりで、彼女達のやり甲斐を奪ってしまう所だった。

 その後、お宅の敷地にある瓦礫をリレーの要領で道路へ運び出し、皆で通行の邪魔にならない場所へ積み上げた。このリレーでも、チーム全体でやっているという一体感が心地良かった。


二日目へ---継続するための条件と<不満>

 結局、この日は予定より一時間以上早く作業を終えることになった。

 道具を片付け、来た時と同じ組み合わせで二台に分乗してセンターに帰った。一日の活動報告や反省をまとめ、結果をセンターの職員に報告したあと、解散になった。良いメンバーで、記念に写真を撮りたいと思っていたが、何となく言いそびれてしまった。

 さて帰りはどうしようかと考えていると、「帰りはどうするんですか?」と聞いてくれたのは、朝、センターから現場までの行き帰りに乗せてくれたKさんだった。同じく帰りの足が無かったSちゃんと共に、彼女の車で市内の中心地(僕の場合はサウナ)まで送ってくれた。

 道中では、皆映画が好きだということで、好きな映画の話で盛り上がった。Sちゃんは、熊本に来てからホテルの近くの劇場でトム・マッカーシー監督脚本、マーク・ラファロ、マイケル・キートンなどが出演している「スポットライト」を見たさそうだ。僕も見たばかりで、とても面白い映画だったので、興奮気味に話したのを覚えている。
 
 それからKさんは、行きと同様に僕等に熊本までボランティアに来てくれた礼を言って、「皆さんでごはんでも食べるタイミングがあると良いんですけどねえ」と言った。僕は「そうですね~」と返したが、Sちゃんは次の日には千葉に帰る予定が決まっていた。中心街に着くと、またそのうち皆で会おうと言って連絡先を交換し、再会を約束をしてから別れた。

 サウナでは、ボランティア受付の際に貼り付けて貰った腕章を見せると、今度こそ一泊千円になった(定価の半額だ)。凄く良いサウナと言うわけではないけれど、この値段で文句を言うのは贅沢だろう。

 荷物を整理してロッカーに押し込み、風呂に入って(風呂でしっかりとストレッチをして)すぐに飯を食う事にした。我慢出来ずにハイボールを頼み、迷いに迷ってチキン南蛮定食を頼んだ。780円で、不味くはないが美味いというわけでもなく、量も微妙な盛りだった。ハイボールも氷が多過ぎると感じたが、サウナ飯なんてそういうものだろう。仕方ない。

 ボランティア初日の今回の作業では、内容に変更があったことが影響し、要望を最後まで完遂出来なかった。それは残念だったが、それでも気持ちは充実していた。氷ばかりのハイボールを大事に飲み、満足感を覚えながら、明日は何処に行こうかとぼんやり考えていた。

 今日は益城町は運良く車に乗せて貰う事が出来たが、乗せてくれる人が見付からなければ熊本市のボランティアに参加していただろう。そして、昨日今日とサウナで会った数人の方、そしてSちゃんが「熊本市のボランティアに参加したけど一時間で終わっちゃった」などと言って不満気だったことが印象に残っていた。
 僅かな期間のボランティア参加でそのような無駄はしたくない。
 その気持ちは、初日で充実感を得たからこそ尚更に強くなった。

 地元の福祉協議会では、熊本市のボランティアに参加しようとして「結局は仕事にあぶれた」という職員の男性とも話をした。彼は「待つ事もボランティアなんだと言われてますから」と、これからはじめてボランティアに参加する後輩である僕に言った。
 その時は、漠然と「そういうものか」と思ったし、そのような考えも実際正しいのだろうが、待つだけでは、リーダーが言っていた<やり甲斐>は生まれないだろう。あのSちゃんの笑顔も、熊本市のボランティアに参加した数人の方の不満げな表情も<やり甲斐>の問題だったわけだ。

 やはり西原村に行きたい。
 とはいえ、駅からは凄く時間が掛かる。

 そこでまた、Sちゃんの言っていた事を思い出した。彼女は駅から益城町のセンターまで、一時間半以上を歩くつもりでいたそうだ。結局は途中でタクシーを拾う事が出来たそうだが、最後まで歩く気概があったからセンターを目指し、だからこそ運よくタクシーを捕まえる事が出来、結果として辿り着いたわけだ。

 その話を聞いた時、僕の負けじ魂に火が付いたが、一瞬後には「とりあえずJR松橋駅まで迎えに来てくれる宇城市に参加しようかな。まだ日程あるし」と逆に負け犬根性が顔を出していた。若い頃なら、僕も迷わず歩く事を選んだのだろう。

 この日は早めに寝床を決め、旅のお供の中村文則『遮光』を開いた。若い頃の作品で、文章は拙いように思ったが中々面白い。もう一冊アンリ・トロワイヤの『ドストエフスキー伝』も持って来ていたが、これは面白すぎる序盤を過ぎると、途中から急に退屈に感じはじめ、しばらくの間読んでいなかった。結局、旅の間も開く事は無かった。

 本を閉じ、iPhoneをいじりながら三十分程じっくりとストレッチをして、遅くならないうちに眠る事にした。とは言っても、やはりあまり眠れず、安心して眠れそうな寝床を探して数度移動する事になったのだが。

――つづく


(編・構成:東間嶺@Hainu_Vele)