仕事を終え、帰る馬たち。ジョモラリキャンプへ向かうトレイルで。

【旅の終わり】ブータンについて---38から続く
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)

再びの帰宅後に


バンコクに一泊して翌日は台北行きのフライトに乗り、台北で乗り換えてロサンゼルスへ向かった。フライトは長く、体力の落ちた身体にはきつかった。火曜日の深夜、予定通り帰宅した。


翌日は出勤して、休暇中にたまっていた仕事を片付けた。まだ咳が続き、身体が痛かった。会話は必要最小限にして、休暇中どんなことがあったのかも、話さなかった。ブータンへは行かなかったかのように振舞いたかった。身体はだるくて、時差ボケどころではなかった。木曜日の朝、病院へ行った。検査を受けて気管支炎に加えて膀胱炎だと診断され、抗生物質を10日分処方された。病院から職場へ行き、この日はともかく仕事をした。でも帰宅途中に薬局へ行き抗生物質を買い、それを飲み始めるともう動けなかった。仕方ないので、その翌日は仕事を休んだ。

次の日もノドが詰まるような苦しい咳が止まらず、話ができなかった。職場での業務的な会話はともかく、個人的なことで会話をしたいと思わなかった。食事する気にもならなかった。ドルジのことを思い出しながらコーンフレークを食べた。少し動くと疲れてしまい、週末だったこともあって、寝たり起きたりして過ごした。楽しい旅の思い出も、旅先のできごとを懐かしいと思う気持ちもなかった。

休暇の旅行でこんなことを感じるのはばかげていると自分でも思ったけれど、敗北感に打ちのめされ、試験に失敗したか、試合に負けたみたいな気分だった。今回の旅に対する期待と夢は破れた。旅行中に撮った写真を見る気にもならなかった。それでいて、いつもブータンでのできごとを思い出していた。私が出会った強靭な人たちを思い、自分の弱さを思い、どう生きていけばいいのかまるでわからなくなり、しばらくこのまま病気を口実に自分を甘やかして、ブータンのことは忘れたふりをして暮らしたいと願った。


宿命と未来


5日経って、ようやく妹に電話した。旅行中の緊急連絡先になってもらっていたし、遅すぎるけれどもそのお礼を言って帰国報告するためだった。でも、旅先でのことを話し始めると支離滅裂なってしまい、思った以上に混乱していたのがわかった。

でも、やっぱり、言葉は良い。帰国後初めて旅行のことを話して、自分の経験を他人に向けた言葉で固定できるようになった。起こったことを、少しずつ、理解できる形に変換することができた。気持ちが落ち着いてきて、写真を見る気になった。

ブータンでの写真を見ると、楽しいこともあったのだと、やっと思い出すことができた。

私は世界中を旅行しているような人間じゃない。だからよくわからないけど、あんなに強靭な人間がまとまって住んでいる国は、ブータンくらいなんじゃないかと思う。もちろん、それ以外の国だって、自分を鍛えて心身ともに強くなった人はたくさんいる。でも、それは特別な人たちだ。ブータンはそうじゃない。心身が強いのが『普通』なのだ。そうでないと生きていけない。前回の旅と比べても、今回の旅はずっと苦しかった。大変なことが多すぎた。チームのみんなにも大きな負担がかかった。けれど、私はそういう強い人たちに出会うことができた。

そして私は、変化していくブータンの宿命について、考えずにいられない。将来のブータンは、自然の景観と歴史を売り物にするヨーロッパの小さな観光立国のように発展していくことになるのかもしれない。豊かな自然を維持しながら、人々は便利な暮らしを享受できるのかもしれない。そのとき、――たとえばネテンの子供が50歳になったとき――、ブータンにはどんな人が住んでいるのだろう?こんなことを考えるのは寂しいが、苛酷な環境をものともせずに、何もかもが当たり前という顔で生活する強靭な人々は、そこにはもう、いないような気がするのだ。


ブータンを想う


私にできることは何だろう?

ただ単に、記録として残すだけじゃなく、彼らに対する賞賛と感謝の気持ちを表現するために、日本語で何か書くことは決して無意味じゃないと思うようになった。

私は、記事を書き始めた。

病気になってしまったのでトレッキング中の日記は不十分だし、写真もあまりない。忘れないうちに書きたかった。

旅行中に病気になったという話をすると、もう一度ブータンに行きたいかと聞かれることがある。行きたいに決まっている。私はブータンが好きだ。だからこそ、そこは私のいる場所ではないのだと理解するのは辛かった。

私は、ブータンを想う。いつかいなくなってしまう、強靭で幸せな人たちを想う。

そして彼らの住む、美しく、私を寄せつけない土地のことを想う。


(終)