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撮影:中島水緒、デジタル編集:東間嶺

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 文章を書く者はいつも、「自分はなぜ書くのか」という問いの周辺を堂々巡りして、その核となる部分を言い当てられずにいる。書く作業を「未来のわからなさ」に向けて自分を投げ出すようなものとするならば、テキストを書き直す行為は、季節を跨いでこの「わからなさ」と再びつきあうことの表明となる。本稿は、2014年製作の私家版テキスト(「恋愛映画」は誰のためにあるのか―「(500)日のサマー」における「真実」と「言葉」)を加筆修正し、若干の変奏を加えたものである。

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 はじめの問い。恋愛映画とは何か。そして恋愛映画は誰のためにあるのか。

 恋愛映画の「使用法」は多岐に渡る。映画のなかで起こっているロマンチックな出来事に自己を投影したり、恋愛がもたらす甘美な感情を追体験したり、あるいは恋愛特有の煩悶とマゾヒスティックに戯れるための口実として利用したり。おそらく他のジャンルより顕著に、恋愛映画は感情移入のためのスクリーンとして機能する。しかし、本当に恋愛に傷つき、悩み、苦しむ者は、もはや恋愛映画を必要としないのではないか。なぜなら恋愛は主体を極限状態へと向かわせるものであり、そこでの主体にとって自分の経験は唯一無二の替えのきかないもので、恋愛映画というフィクションによって代理されるものではないはずだからだ。

 確かに映画史に残る恋愛映画の名作の数々は、恋愛を普遍的なテーマへと高めることに成功してきた。だが、恋愛の厄介さは、それが普遍的なテーマへとつながっていく可能性をもつと同時に、極めて個人的かつ特殊な経験ゆえに、他者と共有不可能な圏域をつくりだすところにある。失恋したばかりの人間に「男(女)は星の数ほどいる」という慰めがまったく意味を成さないのと同様に、普遍へと昇華して共同体のための物語と化した恋愛映画は、傷ついて孤独の極みを味わう主体とは本来的に馴染まない。恋愛する主体の心の機微を巧みに描いた恋愛映画はそれこそ星の数ほどあるかもしれないが、その映画がこの世にたったひとりずつしかいない「恋する私」と「恋の対象であるあなた」についての真実を言い当てられるかどうかは、また別の問題である。

 恋愛する者は、恋愛の対象を掛け替えのない唯一の存在として認識し、ときには運命を感じ、執心し、その出会いに必然性を読み取ろうと躍起になる。一方で、この「運命」は代替可能かもしれないという疑念にとりつかれ、相手は本当に運命のひとなのか、運命などというものは存在するのか、この恋の結末は自分をしかるべき場所に連れ出してくれるのか……などと、絶えざる自問自答を繰り返す。「運命」か「偶然」か。古典的、哲学的、あるいは他人からみれば陳腐とも言える問いだが、ともあれ当事者にとって抜き差しならないテーマであることは間違いない。

 ここでは「運命」を、映画における「物語」と読み替えてみよう。人生は不条理の連続、すべてが因果関係で説明できるものではなく、自分を賭けた行動が徒労に終わることさえあると大人になった私たちは重々承知しているのだが、それでも何らかの整合性や返報性を求めてしまうのが人間の性分である。「運命」も「物語」も、いうなれば人生の不条理に主体が溺れてしまわないための辻褄合わせである。未来のある時点から過去を振り返ったとき、一連の出来事が「なるようになった」と感じられるように、本質的には何の因果関係もない事象を縦糸・横糸として撚り合わせ、見栄えのいい一枚の織物を織りあげるようなものである。

 それでは、恋愛映画が「運命」=「物語」を疑ったとき、そこで新たに開示されるヴィジョンはどのようなものだろうか。この問いにひとつの回答をもたらした、括弧付きで扱うべき「恋愛映画」の実験作として、映画「(500)日のサマー」(2009年/米)をここに召喚しよう。


 【作品情報】
 『(500)日のサマー/500 Days of Summer』
 監督:マーク・ウェブ
 出演:ジョゼフ・ゴードン=レヴィット、ズーイー・デシャネル他
 形式:デジタル/96分/2009(アメリカ合衆国) 
 英語公式: http://www.foxsearchlight.com/500daysofsummer/



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 「(500)日のサマー」は、ミュージシャンのプロモーション・ビデオなどを手掛けていたマーク・ウェブ監督による初長編映画である。全米10都市27スクリーンの限定公開から話題を呼んで拡大し、公開4週目にして興行収入トップテン入りを果たすなど、商業的にも成功を収めた。ちなみに日本公開時のキャッチコピーは「恋を信じる男の子と信じない女の子の、ビタースウィートな500日ストーリー」であり、大衆好みのポップな恋愛映画の路線を前面に押し出すものだった。

 手短にストーリーを紹介する。主人公のトム(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)はグリーティングカードの会社に勤める二十代の青年。会社ではカードの言葉を考案するコピーライターとして日々をなんとなく過ごしているが、元々は建築家志望である。音楽は80年代のブリティッシュ・ポップスを好み、女性関係に奥手。いわゆるイマドキの「草食系男子」であり、十代の頃に聴いたポップミュージックの影響でいつか運命の女の子があらわれることを大人になった今でも信じている。一方、トムの会社にアシスタントとして入社してきたサマー(ズーイー・デシャネル)は自由奔放で少しエキセントリックなところのある女性。少女時代に両親が離婚した複雑な家庭環境のせいで、トムとは正反対に「真実の愛はない」「愛は絵空事」というドライな価値観をもつ[註1]。

 すぐにサマーに一目惚れしたトム。自分が愛聴するイギリスのバンド、ザ・スミスをサマーも好きだと知り、いよいよ本格的な運命を感じるようになる。サマーの一挙一動に翻弄されながらもどうにかデートに誘いだし、傍から見れば「恋人同士」と呼んで差し支えないような関係性にまで進展するが、サマーは頑なに自分たちの関係を「友達」と呼び、言葉による「恋人」の定義付けを拒み続ける。

 言葉による規定からすり抜けようとするのは、なにもサマーに限ったことではない。そもそもこの映画自体が、冒頭からして「恋愛映画」なるジャンルへのカテゴライズをきっぱりと拒んでいるのである。物語のはじめに流れるナレーションはこのように告げる。「これは男女が出会う物語だが、前もって断っておくが恋物語ではない(This is a story of boy meets girl. But you should know up front this is not a love story.)」


  繰り返し確認しておくが、これは「恋愛映画」なるジャンルを括弧つきで保留する態度の表明である。実際のところ「(500)日のサマー」には、いかにも「恋愛映画」的な描写が数多く見受けられるのだが――恋に落ちたトムの心理状態をおかしみや悲哀たっぷりに表現すること、トムとサマーのデートシーンを彼らが闊歩するロサンゼルスの街並みを含めて活き活きと映し出すこと等々――、映画の根底にあるのは「恋愛映画」という「つくりごと」=「フィクション」へのアンチテーゼなのだと思われる。また、映画本編に先立って流れるテロップでは次のような奇妙な「念押し」の言葉が掲げられる。「原作者のメモ:これは架空の物語で実在の人物との類似は偶然である。特にジェニー・ベックマンは(AUTHOR’S NOTE : The following is a work of fiction. Any resembles to persons living or dead is purely coincidental. Especially you, Jeny Beckman.)」。

 「(500)日のサマー」は脚本家のスコット・ノイスタッターの実体験に基づいて物語がつくられたそうだ。とすると、運命を信じない奔放な女性サマーのモデルはこのジェニー・ベックマンなのだろうか。もっとも、ジェニー・ベックマンなる女性が本当に実在するのか、どこまでが実体験でどこまでがフィクションなのか、観賞者に「真実」を知る術はない。ただ、冒頭のテロップにおけるあてこすりのような「名指し」が反語的に作用し、ジェニー・ベックマンなる人物の実在可能性と唯一性をネガのように浮き立たせているふしは否めないだろう。もしかしたら、映画というつくりごとの世界を成立させる原動力として、ここにもひとりの人間の代替不可能な経験があったのかもしれないのだ。

 いったん結論づけてしまおう。「(500)日のサマー」は、「恋愛映画」というフレームから離脱し、「運命」=「物語」を疑わせるための映画なのだ、と。「真実」と「つくりごと」のあいだを揺れながら、表出された言葉の背後にあるものに目を凝らすとき、「(500)日のサマー」の反‐恋愛映画としての性格がはじめて見えてくるのである。

 

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 ここで映画の最大の特徴に触れておかなければならない。「(500)日サマー」はトムとサマーの500日間に渡る「恋愛」物語を単線的に進行する時間軸ではなく、一日ごとの出来事をバラバラにして再構成した分裂的な時間軸で辿っている。たとえば、サマーにふられそうになって落ち込む290日目のトムが描かれたあとに、2人が初めて出会った1日目のエピソードが続き、282日目の倦怠期のデートのあとに、34日目の仲睦まじい初デート場面が対比される、というふうに。また、映画は一貫してトムの目線から描かれており、サマーの内面を示す手掛かりはほとんど観賞者の側に提示されない。ミステリアスなサマーの振る舞いは純情なトムを振りまわす「ビッチ」のようでもあり、どこにでもいるごく真っ当な感覚の若い女性のようでもある。

 恋愛する主体は何かにつけ、錯乱した時間軸へ迷い込みがちなものだ。「あのとき彼女が恥ずかしげに目を伏せたのは自分に好意を抱いているからに違いない」「彼のメールの返信が近頃めっきり遅くなったのは、私に対する拒絶の遠回しの表現なのではないか」。はたまた、「初デートの食事の席でグラスが割れたのは、2人の行く末を暗示していたのだろう」。自分にとって都合のいい解釈に引っ張られそうになりながら、もしくは有り得ないようなネガティブな妄想に飲み込まれそうになりながら、それでもなお「真実」を知りたい、つかみたいと切望し、過去に散逸するさまざまな記号からもっとも正しい解釈を引き出そうとする。恋愛のディスクールを開く場として「断章」の形式を選んだロラン・バルトは次のように言う。
 


「恋愛主体たるわたしには、目新しいもの、心を乱すものは、すべて、事実としてではなく、解釈を下すべき記号として受けとれるのだ。恋愛者の視点からすれば、事実は、それがただちに記号へと変容するがゆえに重大なのである。重要なのは事実ではなく記号なのだ(その反響ゆえに)」

(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』三好郁朗訳、みすず書房、1980年、94頁)
 


 バルトの美しいテクストが教えるように、同一の記号に対しても、主体の置かれた心理状況によって解釈は異なってくる。たとえば恋愛の初期段階にあって目に映るすべてが肯定的に感じられる154日目のトムにとっては、サマーの胸元のアザは「ハート形」と形容されるが、サマーへの疑心暗鬼がつのる322日目のトムにとっては「ゴキブリのような形のアザ」である(ちなみに、この2つの場面で流れるサマーのショットはまったく同一の映像である)。

※当該シーン。YouTube上は、ファンによる抜粋動画で溢れている。

 現在に身を置きながら過去へと思いをめぐらし、ときには病的なまでに生きられた過去のなかへ自己を分裂させること。恋愛する主体は、想いを寄せる対象が送り出す記号の「反響」を過剰に聴取してしまうがために、際限なく解釈しつづけるというある種の無限地獄に陥る危険性と、常に背中合わせにある。ご多分に漏れず、トムも記号の過剰聴取と聴きまちがいに悩む、迷える恋愛主体のひとりである。とりわけ、トムがサマーとの会話で時折やらかしてしまう聴きまちがいは、恋愛主体がいかに「言葉」に対して脆くセンシティブであるかを物語る格好の例と言えよう。

 他方、「(500)日のサマー」は、苦しみ、分裂する恋愛主体が再生へと向かうための手掛かりも、きちんと作中に埋め込んでいる。そのひとつが、トムの歳の離れた妹レイチェル(クロエ・グレーツ・モレッツ)による恋愛アドバイスの言葉だ[註2]。恋愛初心者のトムとは対照的に、まだ十代前半のレイチェルは妙に大人びたところがあり、恋愛観も達観している。天国と地獄のジェットコースターを突っ走るトムにどこまでレイチェルの声が届いているかはわからないが、「期待はずれの答えでこの数カ月の幸せが消えるのは怖い? 私ならまず確かめるわ」「海に魚は一杯いるわ。彼女しかいないと思うでしょうけど私は思わない」といった的確なアドバイスの数々は、トムを飛び越して映画を見ている私たちにも突き刺さり、個々人の「思い当たるふし」を刺激する。とりわけ再生の鍵となるのが、サマーとの別れで傷心するトムに投げかける次の言葉だ。「今は思い出が一杯でも振り返ってみて。もう一度見直すの」。

※妹レイチェルと歳が離れているのは両親の離婚が関係しているのだろうか?的確なアドバイスをくれるのはいつも身近な他者である。

 よく思いだすこと――すなわち「想起」の作業は、危機的状況へと陥った主体が断片へと粉砕された記憶を拾い出し、自分の経験を編みなおすために辿るべき最初の手続きとなるだろう。では私たちも、レイチェルのアドバイスに従って、映画の鍵となる場面をよく「見直して」みよう。

 物語の終盤、500日目のトムとサマーは2人の思い出の場所である公園のベンチに並んで腰掛け、最後の会話を交わしている。サマーはここで、「(あなたと)一緒に来て好きになった場所よ」と述懐する。建築家志望だったトムは87日目にコンチネンタルビルやファインアーツビルといったロサンゼルスの古き良き建築群をサマーと一緒に巡ったあと、自分の愛する高層ビル群を見晴らせる公園のベストスポットを彼女に案内していたのだった(そのときサマーに促されたトムは、彼女の腕をキャンバスがわりにマジックで高層ビルのスケッチを戯れに描いてみせる。映画のなかでもっとも美しいシーンのひとつである)。

※動画上が最後の会話、下が87日目のシーンである。

 重要なのは、サマーがトムの眼差しを借りてロサンゼルスの街並みの美しさを再発見していたことだ。そう、「恋人同士」という言葉による承認を最後まで獲得しなかったとはいえ、2人のあいだには深いレベルでの情緒の交感があり、他人が介入できない親密圏が形成されていた。そしてこの「恋人たちの共同体」は、ロゴスによる支配に抗し、むしろ反‐ロゴス的なものによって強力な磁場を築き上げていた。

 たとえば、2人が電話口で第三者にとってはまったく意味不明で「イカれてる」としか思えないような鼻歌でコミュニケーションするとき(45日目)。あるいは原っぱで「penis!」と公共の場で憚れる隠語をわざと叫び合うとき(266日目)。難解な現代美術を観賞してその感想を言語化しようとする際にはぎこちなく上っ面のことばかりしか言えなくなる2人だが、つまらない美術館をさっさと後にして娯楽映画を見ながら笑いあう場面では、彼らが言葉による説明抜きでの世界のほうがより親密な関係を結びあう様子が伺える。


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 ところで気になるのは、初デートのIKEAショッピングで背景に映り込む店内のキャッチコピーの言葉だ。「We don’t make fancy quality. We make true everyday quality! IKEA」。この言葉が映り込んでいるのが単なる偶然には思えない。もし、「We」を主語としてこの言葉を発信するのがIKEAではなく映画製作者だったとしたら。これもまた、映画に埋め込まれた反語なのではないか? 映画という「つくりごと」=「フィクション」が「真実」でないことなど、誰だって判っている。「make true」=「真実をつくる」といったキャッチコピーは、傾注しなければ気づかないほどのさりげなさで「恋愛映画」の舞台装置に控え、お仕着せの「言葉」を空虚に響かせる。糖衣にくるまれた恋愛映画やポップミュージックの歌詞から離脱し、「運命」「物語」、ひいては「真実」を疑うこと、これこそが「(500)日のサマー」が暗に発信するメッセージである。

※「We don’t make fancy quality. We make true everyday quality! IKEA」のキャッチは1:37秒から確認できる。

  そもそも、トムの勤める会社がグリーティングカードを製作する(つまりは言葉を扱う)会社であることを思い起こさなければならない。結婚21年目で妻との関係も良好なカード会社の社長によれば、カードの言葉は「他の者が書いたが真実の言葉」だ。またトム自身が(本心かどうかはともかく)「カードは(永遠に人の心に)残る」と述べる場面もある。カードの言葉をポップミュージックの歌詞、あるいは定型表現による愛の言葉と読み替えてもいいだろう。運命を信じていた頃のトムはカードの言葉の「永遠性」「真実性」にどちらかといえば寄り添う立場だったが、サマーとの関係が破綻してすっかりニヒリズムに染まった442日目になると、新作のカードのアイデアを出し合う会議の席で、上司や同僚を目の前にしながらついに感情を爆発させる。「人々がカードを買うのは自分の気持ちが言えないか口に出すのが怖いからだ」「僕らはその助っ人だ。小細工するより正直になるべきだ」「カードは……映画もポップスもウソばかりだ。その責任は僕らにある。本音の言葉をカードにすべきなんだ」。このときトムは、運命を信じないサマーの心にもっとも接近している。そしてつくりごとの世界を糾弾するトムの反抗の声はメタ的に響き、映画自体が存立する根拠に対しても刃を突き立てるのである[註3]。

※トムの台詞「These are lies. We're liars(嘘ばっかりだ、僕たちは嘘つきだ)」には原作者の声が倍音として響いている。


 作中の「言葉」によく注意を払う者ならば、ここでふと思い当たるだろう。トムが「つくりごと」=「フィクション」の世界を否定するのは、なにもこれが初めてではない、と。何日目の出来事かは明示されないが、トムはサマーと連れ立って映画館に出掛け、リバイバル上映で恋愛映画の古典ともいうべき「卒業」(1967年)を観たことがあった。いったい「卒業」の何に揺さぶられたのかはわからないが、サマーは映画館を出た後も泣きじゃくってしまう。トムには彼女の心が理解できない。せいぜいのところ、「ただの映画だよ」と、その場しのぎの慰めの言葉をかけるくらいである。

 「ただの映画だよ」――。トム本人も深く考えずに発したであろうこの言葉は時空を超えてスプリットし、やがて442日目の会議の席における反抗の声に乗って暴発する。ただし、「ただの映画」という無自覚な見くびりと、失職をも恐れぬ反抗の声とでは、その内実にかなりの懸隔がある。トムはフィクションの世界を低く見積もる言動のしっぺ返しとして、会議の席において自身の存在(=映画のなかの登場人物としての自分)をも否定しかねない言葉を引き受ける結果になった。映画のシーンをよく思い出し、作中に散りばめられた「言葉」を丹念に拾うなら、このような荒唐無稽な解釈も可能となるはずだ。

 話を戻そう。カードの「言葉」に象徴されるような、かりそめの「永遠性」「真実性」に対置されるものがあるとしたら、それは何だろうか。

 おそらくそれは「建築」だ。映画において建築は、変転、再生、スクラップ・アンド・ビルドの象徴である。たとえば、サマーの腕にマジックで描かれた建築のスケッチが、近いうちに洗い流されるのを必然とするように。また、サマーと別れて自室に引き籠もるトムが、黒板に建築のドローイングを描いては消す作業を繰り返すように(少しずつ変貌していくドローイングはトムが心の痛手から恢復していく過程と同期している)。本来、建築は堅固で半永久的な存在なのだから、カードの「永遠性」に対置するものとして建築にエフェメラルな性格を読み取るのは転倒した解釈に思われるかもしれない。だが、永遠性とエフェメラルなものが入れ替わりの可能性をもつこと自体がこの映画において十分に意味を持つのだ。トムとサマーも、運命の愛を信じる/信じないという互いの信条を最後には交換し合い、理解しあえぬ他者として対を成していた関係を完成形へと到らしめるのだから。

 映画のラストでトムが起こした行動について、ここではもう細かく触れはしない。ただ、トムの行動は映画を見る私たちに教えるだろう、「運命」「物語」のフレームを内側から破り、行動へと踏み出した者だけが新しい季節を迎えるのだと。最後のナレーションの声に逆らって、つまりはフィクションを外側から眺める傍観者の声に抗し、ニヒリズムを超克した彼は歩き出す。それとも、夏(summer)から秋(autumn)への移行もまた、結局は自然の摂理という大きなサイクルに私たちが絡め取られていることを示すに過ぎないだろうか?

 トムがカメラ目線になって観賞者の側を見返すラストショット。映画のフレームがいよいよ決壊する瞬間だ。「恋愛映画」はトムのこの一瞥をバトンとして受け止め、自分自身の現実を生きる者のためにある。



(Fin)


[註1]作中では多くは触れられないが、実はサマーだけでなくトムの両親も離婚している(しかしトムの母親は再婚しており、義父とトムの関係は特に問題を抱えてはいない)。真逆の家庭環境で育ったかに見えるトムとサマーだが、2人が思いがけず似通う背景(両親の離婚)を持っていることには注意が必要である。

[註2DVDに収録される未公開シーン集には、レイチェルが哲学者ニーチェの言葉を引用する場面もあり、彼女の達観した恋愛観がより浮き彫りになっている。

[註3]「(500)日のサマー」が、映画という「つくりごと」=「フィクション」をメタ的に言及する構造をもつことは、作中に幾度か挿入される映画館のシーンからも明らかである。まず、2人で娯楽映画を観るシーン(191日目)。つづいて映画「卒業」を観るシーン(?日目)。最後は失恋したトムが気分を紛らわすために一人で映画館に出掛け、ほとんどストーリーが頭に入らないような憔悴状態で何本かの映画を立て続けに観るシーン314日目)。このときスクリーンに映し出されるのはイングマール・ベルイマン監督の「第七の封印」(1957年)をはじめとする名画のパロディで、なぜか登場人物は(トム目線の妄想によって?)トムとサマーに置き換えられている。しかし、スクリーンへの投影化は失敗する(最終的に映される「Fin」の字幕の非情さ!)。居眠りから慌てて目を覚まし、映画館を出るトム。空っぽの座席。孤独な失恋主体と化したトムがフィクションの世界からはじき出される象徴的シーンといえよう。

 

[参考文献]

ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』三好郁朗訳、みすず書房、1980年。



(構成:東間嶺@Hainu_Vele)