民家に戻ると、はしごのような階段で2階へ上った。敷居や扉がやたらに多い建物で、懐中電灯の光を頼りに壁につかまりながら歩くあいだ、あちこちでつまずいた。
通された部屋は、訪問客を泊めたり普段は使わないような家財をしまうのに使っているようで、私はこの部屋で寝ることになった。部屋の隅にはウレタンの入ったマットレスやブランケットが積まれている。そのマットレスを一枚借りて床に敷き、上に寝袋を広げた。チュンクーが湯ざましの入った魔法瓶を持ってきてくれた。チームのみんなはこの部屋の真下にある部屋を使うのだと教えてくれた。
私は疲れていて、咳もひどかった。診察してもらい、薬をもらって安心したからか発熱や悪寒はなく、ひとりで寝るのは問題なさそうだった。けれど咳を繰り返しながらの眠りは浅く、たびたび起きて魔法瓶の湯ざましを飲んだ。
翌日は、家の外に朝の雰囲気を感じても、寝袋から出る気にならなかった。
身体を休めたほうがいいような気がしたし、お茶を飲みたいとも食事をしたいとも思わなかった。トレッキングが始まってから鏡を見ていなかったけれど、顔つきも動作も病人になっているのは間違いがなく、そんな様子を人に見られるのもいやだった。
階下からは何の物音も聞こえない。チームのみんなもくたびれて眠っているのだろう。
朝も遅い時刻なって、ジャムソーが様子を見に来た。このまま病人ということにしておいてほしかったが、彼は部屋の窓の引戸を開けた。前夜、懐中電灯で部屋の中の様子を見たときには気づかなかったけど、部屋の窓は板の引戸になっていた。開けると部屋の中が明るくなり、さわやかさの残る空気が流れ込んできた。
「調子は、どう?」
「昨日よりずっといいよ、どうもありがとう」
私は寝袋に入ったまま答えた。熱はなくて身体も動かせたけれど、つぶれたままの気分は回復していなかった。
「朝食は?何時に持ってくればいい?」
やっぱり起きないといけないのか。診療所で「吐いてもいいから食べろ」と言われたのを思い出した。
「10時でお願いできる?」
「伝えとくよ」
時間になるとチュンクーが朝食を持ってきてくれた。トレーには食パンとジャム、四角い箱に入ったジュースが乗っていた。朝食に焼飯を食べるなんて芸当はもうできなかったが、普段はあまり飲まない甘いジュースがおいしく感じられた。食パンにジャムを塗ってゆっくり食べ、湯ざましをカップに注いで昨夜もらった薬を飲んだ。
食べ終わっても動く気にならなかった。テーブルの上に日記帳を広げて書き出したけれど、一行書き終わらないうちに書くのが止まってしまう。眠たい訳じゃないのに書き続けることができず、そのまま目を閉じた。抗生物質を飲んでいるからだろうか?
目を閉じたまま座っていたら、ジャムソーが来た。
「話があるんだけどさ」
改まって、なんだろう。
「君が病気になって以来、みんな心配してる。食事を全然食べないからドルジはさみしそうだし、チュンクーもそうだ」
それは知っていた。ドルジが心配しているのは、言葉が通じなくてもよくわかった。私が病気になって以来、チュンクーもあまり笑わなくなっていた。病人と一緒に過ごすのは精神的にも負担だったのだろう。
「ぼくらがトレッキングしてるのは、君がいるからだ。君がいなかったら、ぼくたちはここでトレッキングなんてしてない。君が病気になるまで、トレッキングは本当に楽しかった。いまみたいな状態だと、チームのみんなも元気が出ない」
チームのみんながトレッキングしているのは私がいるからというのは当たり前の話だし、ジャムソーから今まで何回も言われていた。そして、それが彼らの『仕事』であるのにかかわらず、みんながトレッキングを楽しんでいる様子なのが、私もうれしかった。でも、私が理由でトレッキングしているというその条件が、みんなの精神状態にどういうふうに影響しているのかは、考えていなかった。
チームの中で自分が一番非力で、私はいてもいなくてもあまり差がない、みんなにとってはどうでもいい立場なんだと思っていた、メンバーの気持ちの中で、私がどういうポジションにいるのか、想像したこともなかった。
「ぼくらは家族みたいなもんなんだよ。だからみんなが元気になるように、もしできるんだったら明るく振舞ってほしい」
もともとこのメンバーでトレッキングする必然性などなかったのだ。でも10日間山道を歩きながら一緒に過ごして、今では一時的な家族みたいな状態でいる。
私は、そういう関係性に甘えていたのかもしれない。
病気だから助けてもらって当たり前と思っていなかっただろうか?
「...みんなが心配しているのは知っていたけど、そこまで気がついてなかった。もうトレッキングも終わりに近いけど、またみんなで楽しく過ごしたい。薬をもらったから、もう大丈夫だよ」
「うん。それならいいけど」
「それから、チームのみんなには本当に感謝している。大人になってからこんなにひどい病気になったことはなかったし、ひとりで住んでいるから誰かに看病してもらったこともなかったけど、親切にしてもらえて本当にうれしかった」
「うん」
「昨日はみんな、とても大変だったと思う。みんなどうしてこんなことできるんだろうと思った。ジャムソーも風邪気味で大変だったでしょ」
「まあね。でも僕がしっかりしてないと、みんなもやる気にならないから」
「みんながジャムソーを信頼して働いているのがよくわかったよ。すばらしいチームだと思う。このチームとトレッキングできて、本当によかった。どうもありがとう」
ジャムソーの目がうるんで見えた。
昼過ぎに、全員でラヤの村を見物しに出かけた。おしゃべりしたり歌ったりしながら、5人そろって心配事もなく歩き回るのは楽しくて、本当に家族旅行みたいだった。ジャムソーとマイラは村の雑貨屋でドマを買い、さっそく口に放り込んで噛み始めた。そういえば、彼らがドマを噛んでいるのをここ何日か、見ていなかった。わたしのことで、それどころではなかったのかもしれない。
ラヤは、丘の上にある村だ。
谷にある村と違い、明るく開けた山の景色を望むことができる。
ラヤの村の家は、どれも伝統模様で美しくペイントされていた。建設中の家も多く、村の男たちが大工仕事をしている。学校の授業が終わる時刻で、子供たちがバックパックを背負って友だち同士で歩いていく。男の子たちが雑貨屋で駄菓子を買い、その菓子で緑色に染まった舌を見せ合ってふざけていた。民家の軒先で、桶に入れた布を足で踏みつけて染色の作業をしている若い女性たちもいた。彼女たちの脛が藍色に染まっている。そのまわりで村人や子供たちが輪になって座り、おしゃべりを楽しんでいる。そして、ブータンの小さな村はどこでもそうだけれど、聞こえてくるのは村人や子供たちの話し声、それと馬の首につけられたベルや、プレイヤーホイールを回す時に鳴るベルの音だけだ。
活気があると同時に、静寂を感じた。自動車も電気もないけれど、豊かで落ち着いた暮らしをしている村、という印象だった。
ジャムソーと約束したこともあって、元気に振舞うように努力したけど、やっぱりくたびれてしまう。それでも夕食は、1階の部屋でチームのみんなと食べた。みんなで揃って食べるのも、あと3回なのかと思った。
翌朝、ラヤを出発した。病気のせいなのか抗生物質のせいなのか、パッキングがはかどらない。ジャムソーに怒鳴られて、ひどく落ち込んでしまった。体調不良が精神状態に影響しているのは疑いようがなかったものの、シャリジタングを出発して以来、自分の不甲斐なさばかり考えていた。
9時過ぎに、民家の夫婦に見送られて出発した。今日の目的地のコイナまでは、ずっと緩い下り道だ。またドルジとチュンクーに手をつないでもらって、トレイルを下った。いつの間にか、このふたりに手をつないでもらうのが普通になってしまった。もうトレッキングポールは使わないので、折りたたんでダッフルバッグにしまった。
手をつなぐだけじゃなく、肩を貸してもらったり、担がれたり、抱きかかえられたり……。こんなに他人とべたべたくっついて過ごすのは、赤ちゃんだったとき以来だ。身体の接触が暴力やハラスメントと同義語の国ではありえない事態だ。
水量の多い深い渓流を谷底に見ながら、トレイルは標高を下げていった。自動車が通れるガサへ向かうトレイルなので、村人や馬の交通量は多かったが、両側はうっそうとした森だ。きっと降水量も多いのだろう。霧でかすんだ森の中に巨大なシャクナゲの木が真っ赤な花をつけているのを何回も見た。
ぬかるんだトレイルを歩きながら、雨の降りそうな森に悠然と咲く、けばけばしいと言っていいくらい鮮やかな色のシャクナゲを見ることは、もうないだろうと思った。この森は10年後はどうなっているのだろう。自動車の通れる道が開通して、苦労せずに同じ地点に到達できるのかもしれない。でもそうやってここまで来て、見える景色は同じなのだろうか?私は、病気になった自分が他人に支えられて、泥だらけになって歩きながらでないと見られない景色を見ているのだと思った。
シャクナゲの巨木が叫んでいるみたいだった。私を見ろ、そして記憶しろ、と。
さらに下ると雨が降り出し、昼食の休憩は取らずに一気にコイナまで歩くことになった。午後2時ごろコイナに到着。ここでも建物に泊まることになったが、民家ではなく森の中の交易所のような大きな建物だった。降雨のせいで回り中どろどろのぬかるみだったから、建物で寝られるのはありがたかった。
土間の右側奥、左側手前、左側奥の3つの部屋は宿泊者用だ。私は左側手前の部屋を使うように言われた。家具も何もないがらんとした、ひとりで使うには大きすぎる部屋だった。
いつも私が食事の時に使う折りたたみテーブルは、チュンクーが管理人の部屋の隅に置いてくれた。薪ストーブのある部屋は快適だけれど、疲労感が抜けなかった。天気が悪いからそう思えるのか、チームのみんなも疲れ切っているように見えた。病気になって以来ほとんど日記を書いていなかった。他に何もすることもないし、テーブルの上に日記帳を広げて病気になった話をのろのろと書き始めた。
管理人の部屋にはいろいろな人が出たり入ったりしていて、そのなかに英語の上手な男性がいた。村の人なのかどうかわからないけれど、このトレイルを行き来して仕事をしているようで、交易所に到着する荷物を待っているのだと言う。
彼は村の事情にも詳しかった。山奥にもかかわらずラヤの村の家々が立派なのが印象的だったのだけれど、冬虫夏草の採集で収入を得る村人もいるのだという。建設中の家がやたらに多いのも不思議だったが、村の人は、将来のことを考えて家を建てることが多いのだという。たとえば、子供が成人した時に住む家だ。無計画に建ててしまうこともあるらしいが、経済的な余裕がなければそんなことはできないだろう。
ここでもトレイルに沿って送電線の工事が進んでいたけれど、これは6月には完成し、ラヤの村でも電気が使えるようになるのだと言う。きっと街灯が立てられ、懐中電灯なしでも夜道を歩けるようになるのだろう。華やかにペイントされた家々の窓に電気の明かりがともるようになり、ラジオやテレビを持つ家庭も増え、村の様子も少しずつ変わっていくに違いない。
男性に、シャリジタングからシンチェラを越えてラヤへ移動した日の話をした。困難で印象的な体験だったし、チームへの感謝の気持ちを知らない人にも表現したかった。私の話を聞いて彼は言った。
「ここの人たちは強靭なんです。身体的にも...そして精神的にも」
この土地の人のはずなのに、客観的な表現でなんだか不思議だった。けれどこれを聞いて、私が感じていたことが何だったのか、私を打ちのめしたのが何だったのか、少ずつわかってきた。
もともとチームのみんなが頑丈なのは知っていたが、ジャレラで歩けなくなってしまって以来、その頑丈さが尋常でないことに驚いていた。でも彼らは身体だけじゃなく、精神も強靭なのだ。身体的な大仕事をするのに迷うこともなければ決心するのに手間をかけることもない。当たり前のことのように、ただやるだけだ。そうでなければ、ジャムソーがやれといったところで、いつ倒れるかわからない病人を連れて5,000メートルの峠を越えてラヤの村まで歩くようなまねはしないだろう。
チームのみんなだけじゃない。近所へ買い物に行くような様子で、山道を歩いていく村人たちはどうだろう?若い男性に限らず、年配の人や女性、そして子供を背負っている人も珍しくなかった。
ヤク飼いたちはどうだろう?携帯電話も使えず医療設備もない山奥で、ソーラーパネルの電力を頼りに生活しながら、彼らは何を感じているのだろう。病気になったら、あるいは食品が必要になったら、峠を越えて村まで行かないといけない。それが当たり前、それでも大丈夫だ、という自信の根拠って何だろう?
雨が降ろうが雪が降ろうが遊び続ける子供たち、あるいはデゴに興ずる大人たちはどうだろう?天候の変化を無視できるのは一体どうしてなのか。
私にはそれがなかった。何もなかった。この土地にいる資格なんてなかった。幸せになる資格もなかった。
【コイナからガサへ】ブータンについて---37へ続く