6時半出発なんて、到底無理だった。
発作的な高熱がおさまるのに、2時間くらいかかるんじゃないかと思った。
ここから終点のガサまで、まだ3.5日分の道程が残っていた。
ガサまで行かないと、自動車の通れる道はない。トレッキングを中断して車で移動する、という選択肢はないのだ。状況によっては予定通りに帰国できないかもしれない。
「ジャムソー、ごめん、6時半に出発できない」「ぼくたちもまだ朝食を食べてないから、どっちみち出発できないよ」
「...ネテンに電話してもらいたいんだけど」
「ここには、携帯の電波はないよ」「今しなくていい。電波が届くところに着いたら、ネテンに伝言してほしいことがある」「なにを?」
「私の旅行保険の、緊急番号に電話するように頼んで」
私は旅行保険に入っていた。高額なプランではないけれど、病気やケガで日程変更になった場合帰国便の手配を手伝ってもらえるし、その費用は保険でカバーされる。緊急搬送が必要な場合も、費用が払われる。
私はネテンに保険情報を渡してあった。万が一の場合に備えて保険会社に電話しておいてもらおうと思ったのだ。
「保険会社に伝えておいてほしいことがいくつかある……。まず、私が病気だということ。私の現在位置。さしあたって緊急搬送は必要ないこと。でも、場合によっては帰国便の再手配の可能性があること。そのときは、もう一度連絡するということ..…。.」
しゃべるだけで苦しくて、まるで遺言の口述筆記をしているみたいだった。ジャムソーは面倒くさそうだったけど、ネテンに電話することを承諾してくれた。
8時近くなると、ようやく身体が楽になってきた。チームのみんなが集まり、昨日の夕食と同じようにヤク飼いの女性の家で朝食になった。
でも私は、果物を食べてジュースを飲むのがやっとだった。朝食が終わりチュンクーに支えられてキャンプサイトに戻ると、もう撤営が始まっていた。誰が詰めてくれたのか、私の荷物も半分ぐらいパッキングが終わっていた。チュンクーに手伝ってもらい、残りの荷物をダッフルバッグに詰め込んだ。
出発するときには、アマが見送りに来てくれた。通訳経由で、私が健康になればそれよりうれしいことはない、と言ってくれた。
いつもは9頭で運ぶトレッキングの荷物を8頭に配分して、マイラが私のために馬を1頭用意してくれた。
ブータンの村々を結ぶ山道では頻繁に馬を見るけれど、馬が運ぶのは荷物だけだ。
ここの人たちは普通、馬には乗らない。馬に乗るのは病人くらいのものだ。
トレッキングしにブータンまで来て、馬に乗るのはインチキしているみたいでいやだった。でも平らな所はともかく、空気の薄い場所で山道を上る体力はもうなかった。ダライラマがインドに亡命する時、病気で歩けなくて馬に乗せられた、という話を思い出した。
何年も米国住んでいるので、私も観光地の乗馬の経験はある。観光乗馬用に訓練された馬たちには鞍や手綱やあぶみもちゃんと付いているから、乗馬の心得がなくとも何の心配もいらない。
でもブータンの馬は荷役用だ。そういう馬とは違う。
ホースマンたちは馬の背に折りたたんだブランケットを載せ、それをビニールシートで被う。そして上に木製の小さな鞍を置き、左右の重さが同じになるよう、鞍の両側に荷物を振り分けて積載する。馬の背に人間が乗らないので、手綱やあぶみは使わない。
でもこの日は、私が乗れるように木製の鞍の上にブランケットを敷いてくれた。馬の腹の両脇には、あぶみのかわりにロープで作った輪が下がっていた。手綱はないので、鞍の下に敷かれたブランケットとビニールシートの端を掴む。私が掴めるようにと、鞍のグリップに紐を結んでくれたが、すぐに緩んでしまって役に立たなかった。そのグリップは小さく、私の指が4本しか入らない。両手で握るのは無理なので、馬に乗っているあいだは右手でグリップを握り、左手でブランケットの端につかまった。
荷役の馬は乗馬に使う馬よりずっと小さいのだが、それでもドルジに手伝ってもらって、何とか馬の背によじ登った。ジャムソーが乗り方を説明してくれた。馬は動物だから、十分に気をつけて乗ること。左右のバランスを取って、上り坂では馬の背の前方に、下り坂では後方に乗るようにする。ブランケットの端をしっかり握ること。乗っているあいだ、岩にぶつけたり藪に引っかけたりして足を怪我しないように気をつけること……。
だるくて集中力が続かないし、いちいち相槌をうつ気力もなかった。
適当に聞いていたら、怒鳴られた。
「おい、オレの言うこと、聞いてんのか!」
逆切れするエネルギーなんてないはずなのに、腹が立った。聞いてるよ、と小さな声で答えた。ストレスの多い一日になりそうだった。
出発し、馬は山道を登り始めた。体高が小さいから、乗馬位置もそんなに高くない。馬の背に乗った状態で、私の肘がドルジの肩と同じ高さだった。
馬の歩く速さはゆっくりだけれど、岩だらけのトレイルを進むその背は大きく揺れる。自分で歩くより楽なのは間違いないのだが、振り落とされないようしがみついているだけで、結構な運動量だった。重病人だったら耐えられないだろう。
急な上りだと、乗馬位置も後ろにずれてしまう。あぶみ代わりのロープもすぐに緩んでしまい、左右のバランスが取れない。そのたびにジャムソーから怒られた。怒られても、座っている位置がずれてしまうと自分では修正できなくて、馬を止めてもらって誰かにつかまりながら腰を浮かせないと元の位置に戻れなかった。
荷物を積んだ馬は自分で勝手に歩いていくのが普通だけれど、私が乗った馬はいつも誰かが引き綱を引いていた。緩い下り坂になると、馬は早足で降りることがある。でも私が乗っている馬がそんなことをしたら、私は振り落とされてしまう。落馬を心配して、いつもドルジかチュンクーが馬の横を歩いてくれた。手綱はついていないけれど、これなら安心だ。
トレッキングの馬が運ぶ荷物は、通常30キロ程度だという。今回、衣服や靴も含めた私の総重量は50キロはあるはずで、馬には気の毒だった。いくら馬でも、いつもより重く、バランスの安定しない荷物を積んで5,000メートルの高地で坂を上るのは楽ではないはずだ。チュンクーに聞いたら、馬の最大積載重量は60キロくらいだという。重量だけで考えれば許容範囲内なのだが、馬は辛そうだった。
そして、辛いのは馬だけじゃなかった。
ジャムソーも風邪気味なのだという。
口うるさくイライラしているのは、そのせいなのだろうか。病人を連れて5,000メートルの峠を越えて一日半の行程を一気に歩くことを決断するのは、彼にとってもストレスだったに違いない。
これくらいの標高だと、チームのみんなも歩くのは大変だ。体力的にきついという様子は見せなくても、私が乗った馬の横を歩くドルジとチュンクーの表情が妙に真剣で余裕がなかった。最初の急な上り坂が終わるとトレイルの傾斜は緩くなったけれど、それからだらだらした上り坂が際限なく続いた。シャリジタングを出発した時は晴れていたのに標高が上がるにつれて曇ってきて、空は一面の雲に覆われている。森林限界を超えていることもあって、見渡す限り岩だらけの寂しい景色だった。
途中で一回お茶の休憩をとったが、いつものように楽しい気分になるわけもなく、早々に出発する。
引き綱を手にしたドルジが、私の馬の横を歩いてくれた。歩きながら口笛を吹いたり小石を投げたりして、荷物を積んだほかの馬たちの軌道修正をする。できないのは英語をしゃべることくらいで、本当に器用だ。感心して見ていたけど、ほかの3人が見当たらないことに気がついた。彼らがいないからドルジが忙しいのだ。あの3人、いったいどうしてしまったのだろう?
ドルジは英語がわからないのを承知で、聞いてみた。
ジャムソーとチュンクーとマイラはどうしちゃったの?
ドルジが何か言っているけれど、私にはわからない。しばらくふたりで通じない話をしていたけれど、ドルジが「トイレット」と言うのがわかった。ああそうか、トイレ休憩か。
突然、ドルジがまったく休憩を取っていないことに気がついた。お茶休憩のあと、ひとりで3役こなしながら歩きっぱなしだ。彼にそんなことをさせて馬に乗っている自分が情けなくなる。しばらく経ってやっと現れたジャムソーに言った。
「ドルジがずっと休憩を取っていない!ドルジは大丈夫なの?」
ジャムソーとドルジがゾンカ語で何か話している。こちらを向いてジャムソーが言った。
「きみは病気なんだから、自分のことだけ心配するように」
振り落とされないよう、両手でしっかりつかまっていないといけないので、馬に乗っているあいだずっと手が使えなかった。鼻をかむこともできなかったのだが、ジャムソーが鼻水を拭いてくれた。
シンチェラに着いたのは午後1時過ぎだった。
トレッキングの最高地点に自分の足で立てないのが残念だった。
もし病気にならなかったら、自分の力でここまで登ることができたのだろうか?
ジャレラほどではなかったけれど霧が濃くて景色はよく見えなかった。あたりじゅう石だらけで、石材の採掘所みたいだと思った。氷河に削られてできたらしい浅くて広い谷の底に、ほこりっぽく汚れた万年雪が見える。
何を見ても薄汚く見えるのは、自分が病気だからなのだろうか?
馬が前傾姿勢になるので、下りのトレイルで馬に乗るのは難しい。峠を越えて下り坂になったとたんに落馬しそうになった。馬の横を歩いていたチュンクーが抱きとめてくれたけど、両足はあぶみ代わりのロープの輪に入ったままだ。ドルジとジャムソーがロープをはずしてくれた。一人では、馬を下りることもできなかった。
「ジャムソー、下り坂で馬に乗るのは危険だと思う。ジャレラを越えた時みたいに、ドルジとチュンクーに手をつないでもらって、自分で歩いて下りてもいい?」
ジャムソーの表情が厳しくなった。
「...ラヤはここの近くじゃないんだよ」
私だって、ラヤまで相当な距離があることは承知している。でも夕方になったら、また発熱と悪寒の発作があるかもしれない。そんなことになったら馬に乗ることさえままならないだろう。歩ける状態のうちに、できるだけ距離を稼がないと。
「自分の足で降りたほうが馬より安全だし、速度もあまり変わらないと思う。いいよね?」
ジャムソーはしぶしぶ了解し、私はドルジとチュンクーに手をつないでもらって、転がるように坂を下り始めた。しばらく降りると、足場の悪い急坂になった。
「ここは危ないから、ドルジが君を運ぶ」
運ぶって、一体どうするのかと思ったら、背負ってくれるという。
いくらなんでも、それはあんまりだと思って断ったが、私が自分で降りるのは危ないから絶対ダメだといわれた。ジャムソーのスカーフの両端を結んで大きな輪を作り、それをおぶいひも代わりにしてドルジが私を背負ってくれた。
ドルジが私を背負って急坂を降りる。人を担いでいるとは思えない、結構なスピードだ。
どうしてこんなことができるんだろう?
申し訳ないというより、信じられなかった。ただ、身体が痛いのには参った。大人になってから人に背負ってもらうう機会なんかなかったけど、こんなに痛いものだとは知らなかった。おぶいひも代わりのスカーフがお尻に食い込むし、ドルジのウェストをはさむ格好になる両方の腿の内側もひどく痛かった。急坂の途中で降ろしてもらう訳にはいかなかったので我慢したが、それから先、背負ってもらうのは、そうしないとダメだと言われた時だけにした。
背負ってもらったり、そうでないときは両手を引っ張られるようにして歩いて、できる限りの速さでトレイルを下り続けた。下り坂が苦手な馬たちよりずっと早かった。
午後4時ごろ、キャンプする予定になっていたリミタンを通り過ぎた。
広い谷に川が流れ、すぐ近くの山に氷河が見えた。
お天気がよければきれいな景色なのだろう。でも、こんな寒そうな所でひと晩キャンプしても、休養にも何にもならない。無理してでもラヤまで行くのが正解だと思った。
私が持参していたトレッキングのガイドブックには、リミタンからラヤまで所要3~4時間とあった。チュンクーは、ラヤに到着するのは夜8時くらいになるんじゃないかと言う。日没後も歩く必要があるのかと、覚悟を決めた。山で暮らす人たちは日没後や夜明け前でも懐中電灯の光を頼りに山道を歩くことができるから、彼らと一緒なら歩けないことはないだろう。とはいえ、懐中電灯なしで足元が見える時刻に目的地に到着したほうが安全に決まっている。
リミタンの谷が終わるあたりで、馬が追いついてきた。
トレイルが平らで馬に乗れそうなところは乗り、そうじゃないところはドルジとチュンクーに手をつないでもらって歩き続けた。夕方になり、霧でかすんだ空に満月に近い月が昇った。そして、みんなの携帯電話の着信音が鳴り出した。村が近い証拠だ。
空気が甘い、というのは表現としてはおかしいけど、そんなふうに感じた。ラヤの村は標高3,800メートル。今までのキャンプ地と比べると、少しだけ低い。その分、空気も濃いのかもしれない。
薄暗いトレイルをたどり、最後の急な坂をよじ登ると、そこがラヤの村だった。7時10分前。懐中電灯なしでトレイルを歩けるぎりぎりの時間だった。ラヤでは民家の空き部屋に泊まれることになった。今夜はみんな、屋根と壁のある所で安心して眠れる。よかった。本当によかった。
私は民家の主人の部屋に通され、木のベンチに座るよう勧められた。石を積んで作った壁はヤク飼いの家と同じだけれど、天井はずっと高く、床は平らで、きれいに整っていた。部屋の中央には薪ストーブが置かれ、天井には電灯が点っていた。
家の主は60代の夫婦で、バター茶を振舞ってくれた。
寒いトレイルを歩いた後だし、がぶがぶ飲みたかったが、脂肪分のあるものは身体が受け付けなかった。失礼にならない程度にいただいて、あとはカップに注いだ湯ざましを飲んだ。
飲んでいると、チュンクーがおかゆを持ってきてくれた。ドルジが作ってくれたのだろう。一日中歩いて村に到着したばかりなのに、どうしてこんな早業で料理ができるんだろう。いくらも食べられなかったけれど、とりあえず匙を口に運び、ベンチに座ったまま目を閉じた。
熱が出なかったのはありがたかったが、もう動けなかった。
しばらくするとジャムソーが来た。村の診療所について調べてくれたようだ。
「診療所に医者はいないけど、メディカルアシスタントの女性がいるんだって。ここに来てもらうこともできるっていうけど、どうする?」「この時間でも、診察してくれるの?」
「大丈夫、してもらえる」
「診療所で診察してもらいたい。連れて行ってくれる?」
診療所、と強調した。みんなのいるところで問診を受けるのはいやだった。どういう診察になるのかわからないけれど、設備のあるところへ行ったほうがいい。
村の電力はソーラーパネルなので建物の外は真っ暗だ。懐中電灯を手にした村の男性が診療所まで案内してくれた。ジャムソーとドルジが一緒に来てくれた。暗闇の中に診療所の建物が見え、白衣を着た女性が出迎えてくれた。彼女がメディカルアシスタントだという。
私たちは建物の中に入り診察室に通された。彼女は机の上の電気スタンドを点けたが、照明はそれだけで、診察というより、取調べみたいだった。診察室の隅でジャムソーとドルジが神妙な顔で立ち尽くしている。
彼女が体温と血圧を測ってくれたが、共に正常だった。
「体温も血圧も正常ですね。あなた一体どこが悪いの?」
「周期的に発熱と悪寒が起こるので、感染症じゃないかと思うんです。咳もひどいし、身体にまるで力がはいりません」
私の症状や食事については、ジャムソーとドルジがゾンカ語で女性に説明してくれた。ジャムソーは相変わらず、私の症状は感染症ではなく、雨の降っている夜に焚火に当たっていたので風邪をひいたのだと主張しているようだった。
「食事はとっていますか?」
「あまり食べていません。食べると吐きそうで、食べる気にならないんです」
彼女は言った。
「吐いてもいいから食べなさい」
吐いてもいいから食べろ。
医療の専門家がこんなアドバイスをするなんて信じられなかったけれど、これがこの場所の生き方なんだと思った。ここでは、食べ物は生命の直接の起源だ。食べるのがイヤだったら、死ぬしかないのだ。
先進国だって、食べることは大切だ。人々は安全な食材を求めてネットを検索し、コンビニでは健康食品が売られている。どこかの店の何かを食べるために友人や家族と長い列を作って待つのだって、珍しくない。
でも、そういう食事は生きるためというより、《レクリエーション》だ。
人々は《健康のために》食べることへ心を砕く一方で、付加価値のある食事の機会を見つけることに余念がない。
そんな事情はこの土地の人々には想像もつかないだろう。
何の病気なのかは検査してみないと分からないが、診療所で検査はできない。それでも、感染症の疑いありということで、5日分の抗生物質を出してくれた。痛み止めと食欲増進剤も出してくれた。
薬を飲めば身体の調子も回復するだろう。
どれくらい費用がかかるのかと聞いてみたが、診療所は政府で運営しているので無料だという。
私が払った旅費には滞在税が含まれているので、それでもいいのかもしれないが、高額の医療費が社会問題になっている国から来た人間には信じられないような話だった。
貧乏な国の、単純で無料の医療。
豊かな国の、高度で高額な医療。
どっちがいいのか、わからなくなった。
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米国に戻った後、体調が思わしくないので、病院へ行った。
診察費用とは別に、診断のために撮った胸部レントゲン2枚の請求書が来た。金額は220ドルだった。
【ラヤの村、コイナへの道】ブータンについて---36へ続く