今年のはじめ、デビッド・ボウイの突然の訃報が駆け巡ったとき、多くの追悼文のなかに「日本の少女漫画に与えた影響は大きい」という意味のコメントを目にした。少女漫画の美麗な男子キャラがボウイのルックスをモチーフにしていた、ということなんだろうか。ほかの意味もあるのかもしれないが、少女漫画に疎い僕にはよくわからない。ただ、同じように少女漫画が好みとする金髪碧眼のスターとして、ヘルムート・バーガーの名前を挙げてもそれほど的外れではないだろう、とは思う。

 ルキノ・ヴィスコンティの貴族趣味、ヨーロッパ・ブルジョアの退廃趣味にあふれた豪華絢爛たる映画で、手を触れると火傷しそうなほどの美青年を演じた俳優。ボウイ同様少女漫画的な容姿に恵まれており、ちょっと危険な匂いのする王子様というキャラクターが似合っていた。ナチスを素材にした『地獄に堕ちた勇者ども』(69)で見せるマレーネ・ディートリッヒを模した女装など悶絶モノだが、それ以上に19世紀のバイエルン国王・ルートヴィヒ2世を演じた『ルートヴィヒ』(72)は、少女漫画がテーマとする世界観との相性もよく、全編出ずっぱりのヘルムート・バーガーにはイコンとしての資格が十分にあったと思う。
 そのうえ、映画中盤で見せる、老けメイクもそこそこにヒゲを生やしたルックスのアンバランス感は、美少年の顔にヒゲを描き加えるとミドル・エイジの渋いおじさまキャラになるという、少女漫画のアンバランスさそのまま。ヒゲさえ生やせば大人、という絵は少女漫画に限らないから、この影響は日本の漫画全体にとってかなり大きいかもしれない。もっとも、この映画が日本で公開されたのは80年になってからだけど。
 
 そのヘルムート・バーガーの、現在の姿をとらえたドキュメンタリーである(イメージフォーラム・フェスティバル2016にて上映)。さぞかし渋い、かつての少女は勿論、現役少女のハートを撃ち抜くに十分な、うっとり見惚れてしまうロマンスグレーのおじさまになっているだろうと思いきや…。



  お、おじさま? オッサン?! オヤジ!? ジジイ! エロジジイ! お下劣! お下品! 不潔! ヘンタイ! ド変態!! キャー、キモい!! こっち来ないで!!!
 
 どこが、おじさまだよ! ちょいワルおやじを通り越したエログロおやじ! 
 引きこもりでわがままでものぐさで、過去の栄光に溺れながら停滞した時間を無為に過ごしている醜い独居老人。汚いケツをむき出しにし、頬はぶよぶよに垂れ、髭も剃らず、ろくにベッドから出ることなく悪態ばかりつく、世界中の醜いものを集約させたかのようなグロテスクな廃人一歩手前の71歳。ボウイは死の直前まで少女漫画に出てきてもおかしくないほどダンディだったのに…、なんだよ、この差は!
 監督はまともな取材を行えず、バーガーの不在中に部屋を掃除するおばさんを延々と記録する。ブツブツ愚痴をこぼしながら着々と掃除を続けるおばさんの働きによって、さすがに部屋は綺麗になるが、ではそれと並行するようにバーガーも身ぎれいになっていくかといえばそんなことはまったくなく、むしろ映画が進むにつれてバーガーの行動は酷さを増してゆき、監督とバーガーの取材者と被取材者という関係性もあらぬ方向に進んでいく。
 忘れてはいけないのは、これはワイドショーのアポなし突撃取材でもなければ、隠しカメラが捉えた云々とか、消し忘れビデオ云々とかではないということ。アンドレアス・ホルヴァートという映画作家とヘルムート・バーガーの間には、ドキュメンタリー映画を作るという正式な契約が成立しているはずだ。であるにも関わらず、取材される側は取材する側に一向に協力しない。それどころか、両者の関係はのっぴきならない状況に突入していく。何故だ?

 ひとつの疑念が頭に浮かぶ。
  これは本当にドキュメンタリーなのか? 

 確かに、作為性が感じられる箇所がいくつかある。特に、呆気にとられて爆笑するか目を背けるしかないクライマックスなどそうだ。そもそもタイトルが「俳優、ヘルムート・バーガー」(原題は『Helmut Berger, Actor』)だ。これは全部、演技なのではないか。ドキュメンタリーを装った、フェイク・ドキュメンタリーなのではないか?
 
 だが、それはどうでもいい。これが事実なのかフェイクなのか、素なのか演技なのかなど、意味のある問いではない。仮に演技だとしても、表現されていることは同じだからだ。
 俳優にはセルフ・イメージがあり、特にスター級の俳優がそのイメージを極端に逸脱する役柄を演じることは、まずない。落ち目のスターが大胆な演技派に転向して一発大逆転を狙うことはあるだろうが、あくまでも仮のペルソナを被る俳優としてだ。自分自身を演じるのは演技ではないし、当然アカデミー賞も狙えない。かつては少女漫画に出てくるような超美形俳優だったヘルムート・バーガーが、およそ他人に見せたいなどと誰も思わない醜い姿を見せる。仮にそれが演技だとしても、それはあり得ない演技だ。
 
 そしてそれは、“著名人を捉えたドキュメンタリー”というこの映画の、“著名人”という要素も無化してしまう。たしかにこれは、ヘルムート・バーガーの映画だ。それがセールスポイントなのだし、観客はそれを目的に映画を見、かつてのイメージとのギャップに驚くだろう。しかし、ここにはその栄光の日々を具体的に見せる映像はまったく出てこない。映画俳優なのだからアーカイブ映像はいくらでもあるはずだが、それらはいささかも使用されず、部屋の壁一面に貼られた写真が映し出されるだけ。もし映画が過去とのギャップを強調したいのであれば、何かしらの映像を使うだろう。バーガーがビデオで自分の映画を見る、という状況を用意してもいい。仕事仲間のインタビューは必須要素だ。しかし、そんなものは何ひとつない。
 ここには現在しかない。バーガー自身は過去に溺れているのかもしれないが、映画はあくまでも現在だけを映し出す。であれば、この映画の主役が著名な映画俳優である必要など、ないではないか。だれでもいい、孤独で独善的な老人を主役に据えている、というだけだ。

 すると、次にこんな疑問が浮かぶ。
 誰が、そんな映画を見たがるのか?
 
 ここに描かれているものは何だろう。この映画は何を言いたのだろう。老人の孤独、人間の真実の姿、落ちぶれた人間への反面教師、諸行無常、あるいはカメラが必要以上に過剰な振る舞いを引き出してしまうという恐怖…。

 そうだろうか? バーガーは別に、監督に協力していないわけではないのではないか。協力しないような振る舞いが、バーガーの表現なのではないか。
 バーガーは何度か「私は俳優だ」と言う。映画俳優であれば、目の前のカメラを意識しないわけがない。カメラのレンズこそが映画俳優の鏡であり、自らの姿を世界に流布させる窓だ。バーガーは、引きこもりでわがままでものぐさで生産的なことなど何一つしない、という表現をこの映画で提示してみせた。かつて「ヴィスコンティの未亡人」と語ったといわれるヘルムート・バーガーは、その影をみっともなく引きずりつつ、それを表現として差し出してみせた。
 それは、目が覚めたら醜い毒虫になっていた、カフカの小説の主人公のようだ。自分の身に降りかかった奇天烈な状況よりも、いつものように出勤できないことに気を揉んでいたザムザ氏は、いつしか壁といわず天井といわず、自分を取り囲む六つの面を自由に移動できる自由を楽しむようになる。案外無邪気な毒虫くんだが、すぐ隣で生活している家族、とりわけ妹への愛情が心から去ることはない。部屋のなかをガサゴソ這いまわり粘液を滴らせるグレゴール・ザムザのように、ヘルムート・バーガーは汚れきった部屋で下半身をむき出しにする。

  それは、とりもなおさず、ひとりの老人の存在証明なのだ。 
 
 バーガーは、ほとんど部屋から出ようとしない。旅行にいっても、ホテルの部屋にこもってばかり。彼にとって四囲を壁で囲まれた空間が、シェルターなのか胎内なのか何か他のものなのかは分からないが、そんな人間は外部に認知されようがない。おそらく、テロも自然災害も政治家のスキャンダルも、社会的な出来事にはろくに関心を持っていないだろう。バーガー自身、外部を必要としていない。
 しかし、どれだけ醜かろうと、どれだけ下品だろうと、どれだけゲスであろう、人間は生きている。年をとるという現象はすべての人間にとって逆らいようのない運命なのだし、程度の差こそあれ加齢とともに身体器官は衰え、若いころのような創造力も働かなくなる。それを恐れて人々はアンチエイジングなどという時間へのテロ行為に血道をあげるが、それは畢竟、フリークと紙一重でしかない。いったいどちらがグロテスクだろう。どちらがフリークだろうーー。
 

 80年代。デビッド・ボウイは「レッツ・ダンス」の世界的ヒットと共に圧倒的なポピュラリティを獲得したが、その作品のクオリティは悪化の一途をたどった。批評家は容赦なく叩き、口さがない若手ミュージシャンは「70年代に事故で死ねばよかったのに」などという悪態をついた。しかし、成熟しすぎたロックという分野には、60年代のように30歳までに死んで永遠のスターになるという破滅型の道は既に失われていた。“如何にくたばるか”ではなく“如何に生き永らえるか”が、ロックが迎えた新たな課題だった。
 ヘルムート・バーガーはヴィスコンティの死後、自殺未遂を起したという。生き延びたバーガーがどのような仕事をしていたのかは、よくわからない。出演映画はろくに日本公開されず、『ゴッドファーザー PART3』(91)に出ていたらしいが、まったく記憶に無い。
 
 迷走時代を抜けだしたボウイは再び意欲的な作品を発表し、かと思うと長い沈黙期間に入り、劇的な復活を遂げたと思ったらそれ以上に劇的な最期を迎えた。ほとんどの人は、ボウイのような最期は迎えられないだろう。バーガーのように、醜く老いていく可能性のほうが大きい。もちろん、ほとんどの人は、若いころからボウイでもないし、バーガーでもない。しかし、どんなにイケていない若年時代を送った人でも、どんなにダサい過去しかない人でも、ある程度年を取れば、若さの特権性にはいやでも気づかされる。それは手の届かない過去となって自らの身体に地層のように蓄積されている。それらをひっくるめた否定しようのない現在が、その時点にある。
 映画は度々、空、緑、山など、大自然の風景ショットを挿入する。それは、室内ショットだけでは観客も息苦しいだろうという監督の配慮によるサービス・カット程度のものだろうが、膨大な過去を蓄積した現在の、虚飾を排した世界のあるがままの姿でもある。それはポジティブなものでもネガティブなものでもない。だから、この老人の姿をネガティブに捉える必要などない。いや、ネガティブに捉えるならそれでも構わない。それが、ここに記録されたひとりの人間の表現なのだから。

 現実は不条理で、人生はままならない。ヘルムート・バーガー自身、老年を迎えた自分がこのようになるだろうなどとは、思いもしなかったに違いない。この映画を見て「こんな老人になりたい」とは思わないが、なっても悲観することはない、とは思える。この映画はデビッド・ボウイのラスト・アルバムより、よっぽど重要で切実な作品だ。


 【作品情報】
 『俳優、ヘルムート・バーガー/HELMUT BERGER, ACTOR』
 監督:アンドレアス・ホルヴァート
 出演:ヘルムート・バーガー
 デジタル/90分/2015(オーストリア) 
 英語詳細(Austrian Film Commission



寄稿者:越後谷 研(えちごや けん)

6:53生まれ。DTPオペレーター。ルンペン・プロレタリアート。転向左翼妄想者。IT弱者。ラッダイトをやってもいいのか? 



(構成:東間 嶺)