承前 :【瀬川さんの6月のリサイタル/1914年のミュンヘンをめぐる妄想】
どうしてもパウル・クレーとフーゴ・バルの1914年の関係が気
というわけで、以下、『時代からの逃走』巻末の(不完全な)人名索引を頼りにいくつか抜書きしてみた。1914年の時点で次のような記述が見られ、そこにクレーの名前も登場している。ここには、当時バルが構想していた芸術家劇場についての素案が回想形式で書かれている。クレーについての資料にも当たらなければ断定はできないが、1914年の時点でこのふたりに何らかのつながりがあったことは確かだろう([ ]の中は訳註/以下同じ、引用にあたり文中の漢数字を一部アラビア数字に改めた)。
理論的にいって、芸術家劇場はざっと次のような形をとるはずだった。[これは、1912年初頭に創刊された年刊誌『青い騎士』の続刊計画とも重なり、その理念を継承している]
カンディンスキー……総合芸術作品
マルク……『テンペスト』の舞台裏
フォーキン……バレーについて
ハルトマン……音楽のアナーキー
パウル・クレー……『バッコスの信女たち』[エスメーロス作]の画稿
ココシュカ……舞台面と戯曲
バル……表現主義と舞台
エヴレノフ……心理学的なものについて
メンデルゾーン……舞台装置家
クービーン……『甲羅をつけた蚤』の画稿
(pp17-18)
その次にクレーの名前がバルの日記に見えるのは、1917年である。チューリヒでの話。シュトゥルムの絵画展の中に、ギャルリー・ダダという一角を設けたらしく、そこにクレーの画もあったようだ。ちなみに、Wikipediaによれば、バルは第一次大戦で短期間従軍しているが、クレーも1916年から18年にかけて従軍していたらしい。
チューリヒ、1917年3月18日
わたしはツァラとともに、コレ―[1880-?スイスの画商]画廊の部屋を引き受け(バーンホーフシュトラーセ19)、昨日「シュトゥルム」[ヴァルデンがベルリンに開設した同名の画廊に作品を展示した画家たち]の絵画展で「ギャルリー・ダダ」(Galerie Dada)を開いた。それは前年のカバレー理念の継続である。画廊の提供からオープニングまで、三日間だった。オープニングには約四十名集った。ツァラが遅れてやってきたので、わたしが、たがいに援助し教化しあう人間たちの小さなつどいをつくっていきたいと、われわれの意図について話した。
「シュトゥルム」シリーズ第一回展にはカンペンドンク[1889- 画家、《青い騎士》に参加]、ヤコバ・ヴァン・ヘームスケルク、カンディンスキー、パウル・クレー、カール・メンゼ[1889-? 表現派の画家]とカブリエーレ・ミュンター[1877-1962 女流画家、《青い騎士》に参加]の絵が含まれている。
(pp187-188)
(1917年)4月1日
昨日、ドクトル、ヨロス[不詳]が、パウル・クレーについて話した。講演がちょうど終ったとき、画家クレーの父親ハンス・クレー氏がベルン[クレーの故郷]からやってきた。彼は、講演を聴くためにとくにこちらへやってきたのだが、遅れてしまったのだ。およそ七十歳ぐらいの老人。わたしは、できることなら、講演がもう一度始まるように、そしてそのためにわれわれが電話で聴衆を呼び集めるように、配慮してあげられればいいのだがと同情した。老人は、「講演をきかずにベルンに帰れば、わしはひどくからかわれるだろう」と言った。しかし、彼は有名になった息子の絵をみて、とても大喜びだった。クレーの絵が、ここの画廊のようにすばらしく、しかも生き生きした環境でみられることは、二度とないかもしれない。
(pp192-193)
テート・ギャラリーのページでは1935年のクレー一家の集合写真が一葉見られるが、この写真の一番上部に立つ長いヒゲの男が、ハンス・クレーである。このページの解説によれば、1940年に90歳で亡くなったと書かれているから、この写真が撮られた時は85歳くらいの高齢だった訳である。1917年のハンスはまだ67歳くらいなわけで、バルが彼を「およそ七十歳」と言っているのは、まあ当たっている。ちなみにこのページの記述によれば、ハンス・クレーは(スイスの)州立大学の教員養成課程に属す音楽教師だったようだ。それにしても、親しい画家の父親に対する、バルの深い気遣いは微笑ましい。
しかしながら、「クレーの絵が、ここの画廊のようにすばらしく、しかも生き生きした環境でみられることは、二度とないかもしれない。」とは、さすがに言い過ぎだ!!!
(1917年)4月1日つづき
クレーについては、先の講演とはまた違ったふうにも言えるだろう。たとえばこんなふうに。彼はあらゆる対象のなかで、ごく小じんまりと、戯れるようにふるまう。巨大なものの時代にあって、緑の葉一枚、小さな星ひとつ、蝶の羽根ひとつに惚れこむ。そのなかにも天空と一切の無限が映し出されるので、彼らはそれらをも共に描きこんでいく。彼が使う先の細い画筆に誘われて、小さい細やかな世界が形づくられる。彼はいつも最初の発端のごく近くにとどまっている、だから絵のサイズはいつも小さい。発端が彼の心を支配して、離れないのだ。末端までたどりついてしまうと、すぐには新しい絵にとりかからないで、最初の絵を彩色し始める。小さなサイズの絵がひきしまった強さでいっぱいになり、魅惑的な手紙となり、彩色による重ね描きの透視画となる。
4月7日
4月9日に「シュトゥルム」シリーズ第二回展が始まる。陳列される画家たち。
アルベルト・ブロッホ[1882-1921]、フリッツ・バウマン、マックス・エルンスト[1891- ダダ・シュルレアリスムの画家]、リオーネル・ファイニンガー[1871-1956 表現派の画家]、ヨハネス・イッテン[1888-1967 画家、〈シュトゥルム〉派]、カンディンスキー、クレー、ココシュカ、クービーン、ゲオルク・ムッへ[1895-、《シュトゥルム》派の画家]、マリーア・ウーデン。
(p193-194)
バルによるクレーの作品評、そしてシュトゥルムの第二回展にクレーの作品が出展されたことが記されて、バル日記の中におけるクレーへの言及は終わる。前者については、今のぼくはコメントできない。パウル・クレーの作品を大して観た訳ではないのだから、バルのクレー評について云々する前に、せめてクレーのコレクションがあるという宮城県美術館に行かねばならないだろう(そして、最終的にはベルンのパウル・クレー・センターへ?)。しかし、ぼくはどうしようもなく20世紀前半の文化に囚われているようである。21世紀の世界に身をおいてはいるのだが、心惹かれるものはいつも20世紀という過ぎ去った100年の中の、しかも前半の方に、あるようなのである。
(おわり)