【ジョモラリキャンプ】ブータンについて---30から続く
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)
馬の優しさ、人間の優しさ
私がひとりでトレッキングを計画したのだと言うと、どうやって手配したのか聞かれた。私はひとりなのでブータン人のチームメンバーと交流する機会には事欠かなかった。ローカル志向の強いトレッカーには、うらやましい条件だったのだと思う。
トレッキングのグループが何組もいるので、キャンプ地には荷役の馬もたくさんいた。そのうちの一頭が、立ち話をする私たちの所に来た。馬たちはおとなしい。この馬もおとなしくて、トレッカーたちは口々に「かわいい」と言いながら馬を撫でた。
確かに馬たちはいつも静かで従順で、「かわいい」と言ってもいいのかもしれない。馬はブータンの山や村の生活に欠かすことができない存在で、人々は荷物を積んだ馬と歩き、苦労を共にする。かわいがるためだけの愛玩動物とは違うし、馬たちと本当の苦労を分かち合っているわけではない私に、無責任な愛情を注ぐ資格はないような気がした。だから私は、その馬を撫でなかった。
風で馬の毛が飛んできて、私の右の眉に引っかかった。
瞑想する時の習慣もあって、私は馬の毛をそのままにしておいた。馬に愛情を向けることはできなくても、眉毛に引っかかった馬の毛は何かの贈り物のように思えて、しばらくのあいだそこに留めておきたかったのだ。
引っかかった馬の毛が風にそよぐのを感じていたら、オーストラリア人のトレッカーがそれを払ってくれた。「馬の毛がついてるよ!」と彼は言った。これはこれで、人間の優しさなんだと思った。
「サツキ、出発だよ!」
ジャムソーに呼ばれ、彼らに別れを告げて、バックパックを背負って歩き出した。この日はチュンクーは馬を連れたマイラに同行し、ジャムソーとドルジが私と一緒に歩いてくれた。
ニレラの峠へ
この人たちは、刃物を扱うのが本当に上手だ。
マイラも刃渡りが30センチ近くある大きなナタをいつも腰に下げていて、たきぎを集める時に使うだけでなく、そのナタでいつも小さなドマ(ビンロウジュ)の皮をむいて固い実を割っていた。もちろん、ケガなんてしない。
川に沿って歩き続けると、尖った形が特徴的な山が左手に見えてきた。
ジチュダケだとジャムソーが教えてくれた。
川を渡り、スイッチバックを繰り返しながら山の斜面を登る。この日、ジャンゴタングからニレラの峠を越えてリンジへ歩いてゆくトレッキングのグループは、私たちを含めて3組あった。出発が早かったので私たちが先頭だったけれど、もたもた休憩を入れながら歩いたので、他のグループが追いついてきた。
でも、急いで歩くにはもったいない、景色のきれいな場所だった。
所々に雪の残る山々が目の高さで、遠くには真っ白なジョモラリとジチュダケが見えた。
ニレラの峠は標高4,890メートル。空気が薄い上に峠へのアプローチは崩れやすい小石の急坂で、ごくゆっくりでないと歩けない。でも私も、他のトレッカーたちに混ざって元気に峠へたどり着いた。ジョモラリは見えなくなり、代わりにツリマ山が見えてきた。ここから峠の反対側へ、崩れやすい急坂を下る。
天気が良かったこともあり、万年雪の溶けた水があちこちで小さな流れを作っている。ぬかるんで、足場の悪いところも多かった。森林限界の上なので木は生えていないけれど、乾いている所は背の低い草で覆われている。
そういう草原で、ドルジが腹ばいになって何か探している。
まだ時期が早いから見つかるかどうかわからないけど、この辺りでは冬虫夏草が見つかるのだとジャムソーが教えてくれた。高額で取引される薬草だ。ジャムソーも草原に腹ばいになり、冬虫夏草を探し始めた。私も一緒に探すように言われたが、見たことがないので探しようがない。草原に座って休憩にしたが、そのあいだ他のトレッキングのグループは私たちを追い越して坂を下って行った。
冬虫夏草は見つからなかったけれど、ジャムソーが別の薬草を探してきた。私は彼に、ちょうど空になったのど飴の袋を渡した。チャックがついていて開け閉めできる袋だ。彼はその袋に薬草をしまった。
坂を下り、万年雪から流れ出た水が小さな川になっている所で昼食になった。ドルジがバックパックから保温容器を取り出し、みんなで弁当を食べた。ジャンゴタングで知り合ったスイス人のトレッカーが通りかかり、私たちの写真を撮ってくれた。トレッキングのグループはこれが最後で、そのあとはもう誰も来なかった。私たちは朝一番早く出発したのに最後尾になってしまった。でもそんなふうに、のろのろだらだら過ごすのがとても贅沢なことに思え、楽しかった。
昼食を食べ終わると、ドルジもジャムソーも横になって昼寝してしまった。
ただ休んでいるだけかと思ったら、本当に眠っていた。
トレッキングの仕事をしているというより、完全に「自分たちがトレッキングしてる」モードだ。次のキャンプ地までの距離や所要時間は計算しているだろうから、きっと慌てて歩く必要がないということだろう。
私も横になった。
眠らなかったけれど、心拍数や呼吸数がいつまでたってもゆっくりにならないことに気がついた。
空気が薄いせいかもしれない。高山病にならなくても、身体にはずいぶん負担がかかっているに違いない。
氷河、そして雲
いつものように、午後遅い時間になると空に雲が多くなってきた。トレイルはフラットになり歩きやすいけれど、歩行距離は長かった。やがてツリマの下に氷河が広がっているのが見えてきた。歩くのもいいかげん飽きた頃、視界のずっと下に、先回りしたマイラとチュンクーが張った赤いテントが見えた。この日のキャンプ地は、ツリマの氷河を水源にする小さな川のほとりだった。