(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)
高山病対策
今回のトレッキングは標高の高いところを歩く。キャンプ地の標高はどこも4,000メートルくらいで、12日間のトレッキングの間に5つの峠を越える。一番高いのは8日目に超える予定になっているシンチェラの峠で、標高は5,000メートルもある。十分な高山病対策をする必要があった。
高山病というと、頭痛やめまい、吐き気などの症状が思い浮かぶけれど、重症になると死亡することもあり、状況によっては緊急下山や病院での手当が必要になる。ジャムソーがトレッカーの高山病に気を使うのは当然だった。ブータン到着翌日は高山病対策で高地で身体慣らしのハイクをすることになった。
私がタクサン僧院へ行くのはいやだと言ったので、チェレラの峠が行き先になった。チェレラの峠は標高3,899メートルだ。峠近くまで車で行って、峠の周辺をハイクするという計画だ。
スカイブリアルグラウンド
車に乗り、3人でチェレラの峠へ向かった。パロののどかな里山の風景を通り過ぎると道路は上り坂になり、スイッチバックを繰り返して峠へと上っていく。車から眺める景色は涼しげな森から、低木の生える草地に小さな草花が咲く山の風景へと変わっていった。
峠の少し手前で、ジャムソーと私は車を降りた。ネテンはそのまま車を運転して、峠で私たちを拾ってくれることになっている。
「それじゃ、ここから歩こうか」
とジャムソーは言った。自動車道路の普通の路肩で、トレイルの入り口などは見当たらない。
「どういうところを歩きたい?急な坂を上る?それともゆるいトレイルのほうがいい?」
「ゆるい方かな。トレイル」
「そうか~。ああ、でも、やっぱりここがいい。ここから登ろう。薄い空気に慣れるのには、ちょうどいい」
彼が「ここ」といった場所はトレイルでもなんでもなくて、ただの山の斜面だった。
これはきついかもしれない。私は持参していた手袋をはめた。私は身長が低いので脚も短い。縦方向に大きな歩幅が必要な急斜面は苦手で、手を使って登ることが多い。そういう時、手袋をしているとやりやすい。手袋を持って来てよかった。
半分ジャムソーに引っ張られながら、その斜面を登った。空気が薄いせいですぐ息が切れて苦しいけれど、これは仕方がない。身体を慣らしておかないとトレッキングが始まってから苦労することになる。斜面を登りきると普通のトレイルに出た。上りだからやっぱり苦しいけど、両手両足で斜面を登るよりは楽だ。
自動車で通過できる最高地点、という以外にこれといった特色のないチェレラの峠は風の強い場所だった。辺り一帯は、プレイヤーフラッグで埋め尽くされていた。赤、黄、緑、青の旗……。死者のために立てられるという白い旗も多かった。
「あそこに、黒いものがあるのが見える?」
とジャムソーが指差した。フラッグで埋め尽くされた山の斜面に、大きな黒い岩のようなものが見えた。
「見える見える。何なの、あれ」「スカイブリアル・グラウンド」
スカイプリアル・グラウンド。日本では『鳥葬』と言われることもある。若くして亡くなった家族の遺体を安置し、鳥がそれを食べに来る場所なのだ。スカイブリアルに付されるのは15歳以下の子供で、それをするかどうかは家族が決めるのだという。
死んだ人間の身体を刃物で切り刻んでそれを屋外に放置するなんて、わたしにとっては考えただけで恐ろしい。でも、ブータンの人たちには、もっと別の考え方や感じ方があるのだろう。
死んだ人間の身体を刃物で切り刻んでそれを屋外に放置するなんて、わたしにとっては考えただけで恐ろしい。でも、ブータンの人たちには、もっと別の考え方や感じ方があるのだろう。
旗とツェツェ
あたりじゅう、畑に植えた作物のようにフラッグが立っている。トレイルは、その間を進んでいく。老人がひとり、フラッグの間を歩いていて、ジャムソーが話しかける。やたら親しげに話しているなと思ったら、ジャムソーの出身の村の人なのだという。こんな辺鄙なところで知人にばったり会うって、いったいどういうことなんだろう?ブータンの人口が75万人というのはウソで、実は7,000人くらいしかいなくて、国民全員が知り合いなのかもしれない。
老人はひとりだったけれど、強風で倒れてしまったフラッグを立て直すために峠まで来たのだという。
フラッグの竿は5メートルから10メートルくらいある。老人ひとりの力で立て直すのは大変だ。そして立て直しても、いずれまた強風で倒れてしまうだろう。
でも、たぶん、彼にとって、フラッグがきちんと立っているかどうかはあまり問題ではないのだ。
旗を立て直すためにこの峠までやってきて、作業すること。昨日ダムツェのお堂で会った老人のように、その作業自体が大切なのだと思っているのじゃないだろうか。この人たちは、西洋の成果主義的な考え方の領域から、ずっと離れたところに住んでいる。
そのかわり、岩の隙間にツェツェがたくさん置かれているのを見つけた。ツェツェとは、中にお経を印刷した小さな紙が入っている素焼きのいれものだ。ブータンの人はこれを寺院のプレイヤーホイールの周りやチョルテンの周りに奉納する。自動車道路からさらにトレイルを歩かないとたどり着けないこんな所に、誰が何のためにツェツェを置いたのだろう。
食卓での会話
トレイルを歩き回って、ネテンが待っている自動車道まで戻った。車に乗り込み3人でパロの町まで帰った。
もう午後3時近くて昼食には遅い時間だったけれど、レストランで食事になった。ジャムソーもネテンもお腹がペコペコだと言って、信じられないほどたくさん食べた。私もつられて大食いしそうになるが、やはり彼らほどは食べられない。
ネテンは皿に盛った食べ物を口に運びながら、最近は肉を食べるのはやめて野菜の料理だけを食べているのだ言った。どうして?と聞いたら、高血圧で、肉は控えるように医者に言われたのだという。高血圧というのは年配の人が心配するものだと思っていたので意外だったけれど、若くても体質やそれ以外の理由で生活習慣病になる人がいるのは不思議じゃない。そういう傾向は、日本でも米国でも、そしてブータンでも違いはないのかもしれない。
前回訪問時にパロにある博物館に行っていないということが話題になり、食事のあと連れて行ってもらった。国立博物館という立派な名前がついているけど、実態はごくささやかな施設だ。ブータンの祭りの伝統舞踊で使われる仮面の展示が一番充実していて、あとはブータンの地誌に関する展示など。見学には大して時間はかからなかったが、見終わるともう夕方で、ホテルに戻った。
明日からはいよいよトレッキングだ。
ホテルの部屋でくつろぐのも、しばらくはおあずけになる。
【トレッキングの仲間】ブータンについて---29へ続く