5月1日(日曜日)の午後3時から、目黒区のBuncademyにて、近藤譲による 第3期現代音楽鑑賞講座の第7回(最終回)が開催された。今回は米国のアルヴィン・ルシエ(Alvin Lucier, 1931-)の『I am sitting in a room』(1969)という録音を主に聴き、またあわせて彼のドキュメンタリーDVD『No Ideas But In Things』に収録されている「Music On A Long Thin Wire」という映像を見聴きし、ひろく音楽における自然と藝術の関係について、考えるこころみである。


まず、参加者には事前に一枚ずつ資料が配られ、そこには次のように作曲家と作品の名前が記されていた。これらの作品はCD、デジタルデータ、LPなどのメディアを用いて、降順にステレオ装置で再生された。またこの資料には記載のない、前述の「Music On A Long Thin Wire」の映像(上掲YouTubeリンク参照のこと/ただし講座内で視聴された映像とは別)も、プロジェクション装置を利用して、流された。


アルヴィン・ルシエ Alvin Lucier(1931-)
≪私は或る部屋の中に座っている≫ I am sitting in a room(1969)

ヨゼフ・ハイドンJosef Haydn(1732-1806)
交響曲 第6番 「朝(Le Matin)」, Hob.I:6 (1761)

チャールズ・アイヴズCharles Ives(1874-1954)
≪尖塔と山々から≫ From Steeples and Mountains)

ジョン・ケージ John Cage(1912-92)
≪フリーマン・エチュード≫ Freeman Etudes(1977-80) より  


ここに示した5つの「音楽」の中で、最も重要で意義深いものは、ルシエの『I am sitting in a room』であり、それは約23分にわたる録音である。ルシエが、自身の話し声をまず部屋の中で録音し、その録音をもとに部屋の中でくりかえし再生・録音したものである。


それは、録音をプレイバックする時間が進むにつれ、部屋の共鳴振動数が強まっていく。そのことによって、記録されているルシエの話し声が、徐々に―マイクロフォンのハウリングの様に―崩れてゆき、またそこで話されている内容(ルシエ本人が作品のコンセプトを説明している)の意味も、そのサウンドと共にゆるやかに崩壊してゆく。聴いているわたしたちは、物理時間の経過にしたがって、ぼんやりと次のようなことに、徐々に気づかされる。録音物そのものがはらんでいる時間の層、そしてその録音物に影響されて変化する聴き手自身の意識の層を。その間、さしあたり、次のようなことがわたしの脳裏をするすると横切っていった。

……音楽は音(空気の振動)であること、ルシエがところどころどもって話すこと、話し声の反復、そして録音がくりかえされることによって記録された部屋鳴り(部屋という空間/音響)、その部屋鳴りからもたらされる音響そのものへの意識。そしてこれはいったいどのように録音されたのか。部屋は一室だろうが、録音機は二台使われたのか。これはとてもコンセプチュアルかつ、簡明なサウンドアートとして受容可能ではないか...。そういったゆるやかな、しかし、そのひとつひとつが大切な発見に、わたしたちの耳はしぜん、ひらいてゆき、意味や音(振動)や空間といった、音楽の成立する条件について、いやでも意識が経巡ってしまうのだ。…近藤はこれらの音楽に、的確なガイドをいくつも投錨してゆく。今回のテーマは「自然と藝術」ということであるから、その自然と藝術はいかに違うのか。また、それらは時に対立するアイデアであり、自然ということばの意味も時代を経て変遷していく。その広く深い歴史をかるくひも解き、わたし(たち)に、ものを作ることと藝術の関係、音楽と制度の関係について考察するよう導く。気が遠くなるような数千年の音楽の知の堆積をわたし(たち)は、一瞬のうちに垣間見て、少々青ざめて驚きを隠せない。ルシエの「Music On A Long Thin Wire」は「音楽」なのか、「作品」なのか、いったい何なのか。それが「作品」だとしたら、磁石とワイヤーが空気を震わせる響きをマイクロフォンで拾い上げることは、「作曲」と言えるのか……。

そして、ある批評家・音楽家―大谷能生(おおたに よしお,1972-)―が、その著書でかつてこう書いていたのを、わたしはふと思い起こした。


 音は目的を持っていない―目的を持っているのはつねに人間である。音はそれが人間によって名づけられる以前から存在している。無名の音の集合体としての世界……。人間はその中から自分がうまく使えそうなものだけを取り出し、名前を付け、それを分類し、理解しようとする。こうした「音を飼い馴らす」作業を経ることで、ぼくたちははじめて音楽と呼ばれているようなものを手に入れることが可能になるのである。
 ケージが問題にしたのはこうした「音楽」を(まさに沈黙でもって)支えてきたこの音の刈り込み作業そのものの是非であり、彼はある音をある音として人間化することなく放っておくこと、「その音」を「その音」として認識/体験することの倫理に一生を捧げた。ケージの生は一つのシリアスな模範である。ぼくはそこに音の本来の意味での正しい拡がりを感じる。人間によって貶められる手前/向こうにある音。こうした音の世界はたいへんに魅力的だ。 

大谷能生『貧しい音楽』( pp101-102、月曜社、2007)
 
 
(文中敬称略)