午前11時からの原書講読講座が終わり、しむさんに声をかけられた時も、音楽鑑賞講座に出ようか出まいか、正直、まだ迷っていた。

きょう4月17日の午後の発表者の大久保さんは1978年生まれ、岡崎さんは1985年生まれ。共に若く、わたし(1980年生まれ)とほぼ同じ世代と言っていいだろう。自分と近い年の人が何をやっているかというのは、わりと気になるところである。が、同時に、自分に近い年の人に対してまだ未熟だったり、あるいは気張っていたりーこれは完全にわたし自身を他者に投影しているから、滑稽なのだがーして、あまり学ぶべきものはないのではないかと不遜なことを思ったりもするのである。

昼食の後、学芸大学駅前のドトールを出て駅に向かうと、改札の前に人が溢れていた。折からの強風で東横線はどうも運転休止しているようである。さて、またBuncademyに戻るか、と先ほど来た道を足早に戻った。電車が止まっているようだが、きょうの発表者は果たして間に合うのだろうか、とも思いながら。


さて、午後3時7分ころから、近藤譲先生臨席の下、大久保さんの発表が始まった。ご本人はろくに準備をしていないと謙遜されていたが、流暢な発表であった。簡単な自己紹介のあと、大久保さん自身のオリジナル作品「Visions for Piano(2016)」をまず皆で聴いた。12分ほどの曲で、今年の2月に録音されたばかりの即興演奏である。導入部こそ、まさに即興という感じであったが、曲が進むに連れて非常に構築的な音楽表現に心を奪われた。わたし自身は特に即興演奏や作曲をしないので、このような構築的な表現はもはや作曲ではないかと思ったり、よくある即興演奏の気難しく、不穏なイメージから遠く離れ、音楽に愉悦するどこか快楽的な弾きぶりが楽しかった。これは即興者の人柄がよく出ている、というのが一聴した印象である。音楽から現れる作者の人となりは、もちろんその作品のオリジナリティに直結する重要なポイントだ。大久保さんは即興についても、また自身が影響を受けた音楽についてもまったく隠さずに滔々と語った。即興をするときはメモを作って大体の構成を決めるが、手癖などにより演奏にゆるみが出ないようにする、とか、ナザレス、ヴィラ=ロボス、エグベルト・ジスモンチといったようなブラジルの音楽家に深く影響を受けた、という細かなエピソードも、作品の解説として非常に適切かつ有用であった。ラテン的な感傷と洗練された都会性が彼の「Visions for Piano(2016)」には溢れていたのである。




続けて、岡崎さんの発表が始まった。ご本人の録音による2曲が約5分ずつ、スピーカーから流れた。この2曲のうち、わたしが感銘をうけたのは最初に聴いた「魔女のランプ」(for piano,2011)である。

この曲は無音部からもたらされる、一種即妙な陶酔感があり、曲の進行とともに、極めて繊細なアンビエンスへと意識が運ばれる。聴衆は自分自身の、あるいは作曲家の音へ向かう意識の流れを、強く感じるのである。前述した大久保さんの音楽が悦楽の音楽だとしたら、岡崎さんの音楽はまさしく好対照であり、禁欲の音楽と言える。しかし、その音数少なく、禁欲的な素材(ダンパーによる打弦音、鍵盤による打弦音、鍵盤裏のノック音)によって、聴き手は知らず知らずに築いている耳の枠をふっと外されるのである。逆説的なようだが、禁欲的だからこそもたらされる心地よさがここにはある。

ストイシズムとサウンドスケープの意識はポピュラー音楽の分野では、ブライアン・イーノがオリジネイターであるが、イーノのアンビエント音楽に通じるあえかな音のレイヤーが心地よいと感じた。岡崎さんにはイーノからの影響関係についてはとくに尋ねなかったので、わたしの理解(というより推測)が的外れであるかもしれないが、その点はご容赦頂ければ幸いである。

*ちなみにきょう発表されたお二人(大久保さん、岡崎さん)のプロファイル、およびSoundCloudは以下URL→http://buncademy.co.jp/wordpress/?p=1685



*そして、Buncademyってなに?と興味を持たれた方はこちらのリンク先へどうぞ→http://buncademy.co.jp/

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