"Witchenkare" (撮影:東間 嶺、以下すべて同じ)
告知
■ 先月末に公式でもお知らせしている通り、今年も文藝創作のリトルプレス『Witchenkare(ウィッチンケア)』に、『死んでいないわたしは(が)今日も他人』というごくごく短い小説を載せています。はじめて書かせて頂いたvol.5から数えると三回目の寄稿になり、この場で告知をするのも三回目です。実にあっという間ですね。
■ 今号はなにやら売れ行き好調のようで、最近までAmazonでは欠品(!)状態でしたが、14日現在では数冊(!)ほど在庫している模様。実店舗でも、都内ならば紀伊国屋書店などの大型店舗には数冊並んでいると思われますので、前号までと併せて、精神と金銭に余裕のある方にはお求め頂ければ幸いです。
『死んでいないわたしは(が)今日も他人』
■ 今回寄稿したこの3200字弱の短い小説、『死んでいないわたしは(が)今日も他人』(以下、『死んでいない』)は、わたしが昨年から今年にかけて制作に取り組んできた私家製フォトブック『"Reminder of suicides" 央区霊岸島美術ギャラリー閉鎖事件、及び、都内鉄道人身障害事件について。』から生まれたスピンオフ、拡大変奏版のようなものだ。小説の中へも、そこで用いられたテクストがいくつも埋め込まれている。
■ フォトブックの内容は、曳舟のギャラリースペースRPSで開催された実験的な写真のワークショップ『THE BACK PAGE REVISITED』への参加によって構想され、3月には、小説と共に一応のプロトタイプが完成している。
■ だから、『死んでいない』が作品としては切り離されていても、生きている(死んでいない)わたしにとって、両者は強い関連性を持っている(フォトブックのプロジェクトに関しては、また別のエントリで詳述したいと思っている。本とプロジェクトの詳細は下の動画で参照して欲しい)。
■ …とまあ、本来ならここからもう少し具体的に内容について四の五のと書き連ねるべきなのだろうが、幸運にも、本作は既に身近な他者からの優れた〈読み〉が与えられている。せっかくだから、その言葉を借りつつ、わたしからの応答をしてみよう。
■ フォトブックの内容は、曳舟のギャラリースペースRPSで開催された実験的な写真のワークショップ『THE BACK PAGE REVISITED』への参加によって構想され、3月には、小説と共に一応のプロトタイプが完成している。
■ だから、『死んでいない』が作品としては切り離されていても、生きている(死んでいない)わたしにとって、両者は強い関連性を持っている(フォトブックのプロジェクトに関しては、また別のエントリで詳述したいと思っている。本とプロジェクトの詳細は下の動画で参照して欲しい)。
※ 画質はHD1080を推奨
この世の天使は、〈すぎる〉必要がある
■ 『死んでいない』は、ごく単純な小説だ。限定された空間にいる〈わたし〉の断片的な語りと回想/断想が交差し、それを揺さぶる事象が起きた途端に、お話は終わる。ただそれだけの内容だ。起きた出来事や差し挟まれる断想は、わたしが実際に経験したことを下敷きにしているが、性別の同定もできないテクストの中の〈わたし〉に、わたしを代入する必要は、当然ながら、まったく無い。
■ …とまあ、本来ならここからもう少し具体的に内容について四の五のと書き連ねるべきなのだろうが、幸運にも、本作は既に身近な他者からの優れた〈読み〉が与えられている。せっかくだから、その言葉を借りつつ、わたしからの応答をしてみよう。
「死んでない~」は、「天使すぎる女の笑顔が、目の前で半分、潰れていた」からはじまる。毎日の鉄道飛び降り自殺事件と八年前に縊死した「田中さん」とを対照し作品化しようとしている奇妙なアーティスト(東間)の断想である。「天使すぎる女」とはそのアーティストの目の前で飛び込んだ女子高生の遺骸を指す。荒木優太【『Witchenkare』第七号書評――矢野利裕・東間嶺・辻本力】
(En-Soph、2016年04月11日 )
■ En-Sophの寄稿者でもある文学研究者からの作品評は、全体としてもいちいち納得するほどその解析手順は鮮やかなのだが、それ以上に、書き手の意図を超えた部分にまで射程を伸ばし、本人が意図したものより複雑な作品であるかのように(書き手本人へ)思わせた部分が、真に批評として優れている部分だろう。具体的には、下記だ。長くなるが、お構いなしに引っ張ってみたい。
注目すべきは「天使すぎる」という表現だ。天使とは、神が人間のもとにつかわす使者であり、天上界と下界の間を行き来する〈メッセンジャー/メディウム〉である。超越的なものと経験的なもののメディアこそ、天使なのだ。であるならば、本来、天使とは「すぎ」てはいけないものなはずだ。メディア的天使は、中間的なものでなければならず、極に行くことを禁じられている。過ぎたるは猶及ばざるが如し。では、〈天使すぎるもの〉は、己の分をわきまえない使者失格者なのだろうか。そうではない。彼女もある世界からある世界へ音信(おとずれ) を運んでくる。どんな中間にいるのか。数的に処理された自殺のデータベース的世界と八年前に(交友のあった)縊死してしまった「田中さん」の物語との間である。〈天使すぎるもの〉は「すぎる」が故に、天使に似つかわしくない媒介役をこなす。人間がつくりあげた疑似超越的世界から「田中さん」の「理由と物語」の物語的世界への橋渡し。数字であれ言葉であれ、ここには徹頭徹尾の人間の世界しか存在しない。ただ、神と人ではなく、「他人」たちのあいだの世界を行き来するには、ちょうどよい天使であってはいけない。「すぎる」くらいがちょうどいいのだ。(引用、同上)
■ 恐らく荒木も本当は分かっていると思うが、このテクストが書かれた段において、死んだ女子高生が〈天使すぎる〉理由は、現在の日本に、〈天使すぎる〉アイドルと呼ばれる誰かがいる/いたからに過ぎず、そのアイドルが物語に召喚された理由も、本来は結びつくはずもないことば同士の意味不明なフュージョンが持つ〈引き〉の力を利用した、という以上のものはない。単純な仕掛けだ。映画の冒頭にアイドルの頭が木っ端微塵になれば、その作品を忘れる人はいないだろう。
……覚えているのはその場面だけ、かもしれないが
……覚えているのはその場面だけ、かもしれないが
画像キャプチャ:Google Images
■ しかしながら、荒木のように〈天使〉が〈すぎる〉ことを読めば、なるほど、確かに〈天使〉からのはみ出しにはグモ的な安易さを遥かに超えた、物語構造として確固たる役割が存在する、と思わせる。高田馬場駅で列車へ飛び込むのは天使どころか、さらに、〈すぎる〉必要さえあるのだ。
(…)数字であれ言葉であれ、ここには徹頭徹尾の人間の世界しか存在しない。ただ、神と人ではなく、「他人」たちのあいだの世界を行き来するには、ちょうどよい天使であってはいけない。「すぎる」くらいがちょうどいいのだ。
……ヤバいね、これはあれだね、ちょっとおれカナリ賢い人になれるね。これをパクればね(そうしよう、そうしよう)。
そしてわたしは今日も死んでいない他人
■ 下らないことを書いていたら、先ほど、『回答する記者団』からまた速報があったことに気付いた。午前10時12分。紀勢本線、阿漕駅~高茶屋駅間で人身事故。
【JR東海発表】(紀勢本線)10時12分頃、阿漕駅~高茶屋駅間で、人が触車したため、津駅~松阪駅間で運転を見合わせています。そのため、上下線の一部の列車に遅れが発生しています。 https://t.co/NZ7csewqrv
— 回答する記者団/佐藤裕一 (@kishadan_editor) 2016年4月14日
■ 『回答する記者団』のデータベースは、『死んでいない』でも、フォトブックでも重要な参照物として使わせて頂いた。主宰の佐藤は、荒木の言う【ネットワーク化したデータベース】への【埋葬】に取り憑かれた人間なのだとも指摘できるだろう。先ほど紀勢本線に飛び込んだ誰かも、かれの構築した【疑似超越的世界】【アーカイブ的〈天〉】に回収される数字であり、と同時に、別の誰かにとっての【〈天使すぎるもの〉】である。
■ これから、彼?彼女?の物語を回復する人間は、現れるのだろうか?わたしは、---依然として今日も死んでいないわたし---、は他人のままそれらを眺め、あるいは、別の誰かの物語を回復しようとしているのだが。
■ これから、彼?彼女?の物語を回復する人間は、現れるのだろうか?わたしは、---依然として今日も死んでいないわたし---、は他人のままそれらを眺め、あるいは、別の誰かの物語を回復しようとしているのだが。
(了)