この雑誌を書評するのも、今回で三度目なのでもう前書きはいいだろう。本題に入ろう。
 

・矢野利裕「詩的教育論(いとうせいこうに対する疑念から)」

 矢野「詩的教育論」は、〈いとうせいこうが教科書への収録依頼を受けたときに表現を変えて欲しいと言われて激おこ事件〉に触れて、いとうを論駁するかたちで学校空間だからこそ可能な「詩的言語」を訴える。私の言葉遣いで要約すれば、脱構築のためには構築が必要、って話。

 で、いとうのtweetはコレ。


 私がよく分からないのは、これって、学校批判とか教員批判とか「方向づけ」批判とか、してんのか? ということ。「教科書」ってことを理由にメンドくせぇ(「しつこく粘られた」)コミュニケーションをするのってマジでウゼェ、ってことなんじゃないの? 「しつこ」さが、「天下の教科書」という深読みを呼び寄せちゃった、という。

 学校も教員も教育も別に否定してないのに、論のなかでは「学校や教員の権威主義的なありかたに嫌味がいわれているのだろう」とか「学校批判者」とか呼ばれてて、ちょっと戸惑う――少なくとも教員の話なんて誰もしてないんじゃね?――。実物より敵が大きくなってるというか。いとうからすれば、いやそんなこと言ってねーし、みたいな。それに、教科書編集者/学校制度/教員ってそれぞれ別の問題なんじゃないの? 「方向づけ」って共通項で教育問題としてぜんぶ一緒くたにして大丈夫か?? とか。

 というのも、それら手続きが雑駁だと、学校や教員に対して「単純化」ないし「過大評価」している(いとうに代表される)「学校批判者」への批判がそのまま反転、即ち、矢野こそいとうを「単純化」ないし「過大評価」してるんじゃないか、という不信を与えてしまうからだ。断っておけば無論「過大評価」一般が悪いのではない。「過大評価」を批判する文章が「過大評価」(虚像のふくらまし)で成立するときに、ウーン感が生じるという話。

 いや、もしかしたら私が偏った読み方をしてるだけで、フラットに読めばそんなに違和感ないのかもしれない。というわけで、私の読みの一般性を確かめるためにも、広く読まれて欲しい。(ちなみに、私はいとうせいこうに対して興味がないので、一般に学校批判者として有名なのかもしれない。だったら申し訳ない)。


・東間嶺「死んでないわたしは(が)今日も他人」

 東間はEn-Sophの同人なので取り上げるべきか一瞬迷ったが、よくよく考えてみれば自画自賛甚だしいレビューを書いた人間がなにをイマサラって話である。良いものは良いし、悪いものは悪い。

 で、この文章は良い。一皮むけた、というだけにとどまらない、新境地である。この新しい出発を知人の一人として寿ぎたい。

 「死んでない~」は、「天使すぎる女の笑顔が、目の前で半分、潰れていた」からはじまる。毎日の鉄道飛び降り自殺事件と八年前に縊死した「田中さん」とを対照し作品化しようとしている奇妙なアーティスト(東間)の断想である。「天使すぎる女」とはそのアーティストの目の前で飛び込んだ女子高生の遺骸を指す。

 注目すべきは「天使すぎる」という表現だ。天使とは、神が人間のもとにつかわす使者であり、天上界と下界の間を行き来する〈メッセンジャー/メディウム〉である。超越的なものと経験的なもののメディアこそ、天使なのだ。

 であるならば、本来、天使とは「すぎ」てはいけないものなはずだ。メディア的天使は、中間的なものでなければならず、極に行くことを禁じられている。過ぎたるは猶及ばざるが如し。

 では、〈天使すぎるもの〉は、己の分をわきまえない使者失格者なのだろうか。そうではない。彼女もある世界からある世界へ音信(おとずれ) を運んでくる。どんな中間にいるのか。数的に処理された自殺のデータベース的世界と八年前に(交友のあった)縊死してしまった「田中さん」の物語との間である。

 報道や記録のさいに活用される数字の処理は、年間三万人近くの自殺者の個々の「理由と物語」、その実(?)像を隠蔽し、ネットワーク化したデータベースに埋葬する。人々は、神ではなく自分たちでつくったGoogle先生の超越性を信頼する。「田中さん」もまたそんなアーカイブ的〈天〉に召されていったわけだ――「1/240,000の田中さん」――。

 しかし、生者が語ることによってのみ、その「理由と物語」は仮説的に回復される。東間は「感傷や悲嘆を通した自己陶酔とはぜんぜん違う」「かれへの悪意の表明にも近くなる」仕方で「語ろうとしている」。なぜか。推察するに、たとえば、いまここで電車が止まるからだ。いまここでTwitterが更新されるからだ(死のデータベース化の始まり、あたかも腐って土に還っていく死体のように?)。いまここで「ゴキブリ」が「脈略のない啓示」を与えるからだ。つまりは、〈天使すぎるもの〉が、動かない電車という無為な時間をつくりだすからだ。

 やがて数字に回収される者たちの喪に服すこと。それは固有名をもった「理由と物語」を回復させることで達成される。

 〈天使すぎるもの〉は「すぎる」が故に、天使に似つかわしくない媒介役をこなす。人間がつくりあげた疑似超越的世界から「田中さん」の「理由と物語」の物語的世界への橋渡し。数字であれ言葉であれ、ここには徹頭徹尾の人間の世界しか存在しない。ただ、神と人ではなく、「他人」たちのあいだの世界を行き来するには、ちょうどよい天使であってはいけない。「すぎる」くらいがちょうどいいのだ。


・辻本力「健康と耳栓と音楽」

 私は音楽に興味がないので(しっかし、なんにも興味がないやつだな……)、フツーに勉強になった。「音楽用耳栓」というのがあって、「必要な音は残し、難聴の原因になる余分な周波数帯域を軽減する」らしい。へぇー×100。

 たしかに辻本のいうように、耳栓をしてライブをするというのは、矛盾というか、本末転倒というか、音楽なんてもうやめちまえよ、といった感じがする。辻本はその耳栓を「耳のコンドーム」と形容してるが、正しく、コンドームするくらいなら別にセックスとかしなくてもいいんじゃないか、というよくよく考えてみると不思議な矛盾と通底している。

 とまれ、健康って大事だよね。

 そうそう、昔、ミシェル・ビュトールが上智大学にきて講演してたとき、さいきん耳が悪くなってサ、って話をしてたが、ビュトールがいうに「耳が悪いってことは、音が聞こえなくなるってことじゃなくって、意味のある音と意味のない音とを分けることができなくなるってことなんだ」って言ってて、深いナ、とか思ったけど、そういう意味で言えば、耳とはそもそも耳栓なのかもしれないな、うん(←お前はなにを言ってるんだ)。

 最後に。この雑誌には私も寄稿してるが、それについてはなにも書かない。第一に沢山文字を書いて疲れたし(なんだこのバカな感想)、第二に私の文章が素晴らしいのは宮本百合子「雲母片」を扱ってるってだけでもはや自明のことだからだ。いや、というか、私の文章は読まなくてもいいので、代わりに「雲母片」を読んでください。名作ダヨ。