前編)より続く


「モランディを、独裁下で生きのこるための道を見出した美術家とみなすことは容易である。しかし彼は実際にはたんに生きのこる以上の事をしていたのである」(エドワード・ルーシー=スミス『1930年代の美術―不安の時代』岩波書店、1987年、76~77頁)。 
 

 イギリスの美術批評家エドワード・ルーシー=スミスによる『1930年の美術』は、戦間期の美術動向をドイツ、イタリア、フランス、メキシコ、アメリカといった複数の地域を横断して記述した貴重な概説書である。イタリアの章では、ムッソリーニ政権下の未来派やノヴェチェントなどの動向がそつなく整理されているのだが、注目すべきことに章の終盤で、ジョルジョ・モランディについてもわずかな紙幅が捧げられている。


 モランディは美術史の流れには位置付けにくい画家だ。青年期には未来派や形而上絵画の前衛運動に一時的に接近したが、人生の大半はあらゆる流派(イズム)から距離を置いて独立不羈の道を歩んだ。そのモランディに対し、スミスはご丁寧にも「たんに生きのこる以上の事をした」という特別な評価を与えている。言及自体は短いものであるとはいえ、独裁下のイタリア美術を記述する締め括りにモランディのような画家をもってくるとは、何とも含みのある演出である。


 ジョルジョ・モランディ、1890年ボローニャ生まれ。故郷を離れず、たった2度のスイス旅行を除いては国外に出ることもほとんどなく、ボローニャの自宅兼アトリエで身の回りの静物や風景を繰り返し描き続けた。生涯独身で3人の妹たちと慎ましやかに暮らし、環境の変化を嫌った。若かりし頃は絵画制作だけで満足のゆく収入を得られなかったが(妹たちが3人とも教員だったため生活は安定していたようだ)、1930年(40歳のとき)にボローニャの美術アカデミーの版画科教授に就任する。ヴェネツィア・ビエンナーレをはじめ名だたる国際展への参加も多く、画家としての成功は充分果たした人生だった。とはいえ、画家本人は名声に対して欲がなく、むしろ集中して絵を描ける環境こそがいちばんの優先事項であった。「特別な出来事のない人生をおくれて、私は幸せだった」とは、画家自身が晩年になって人生を振り返ったときの言葉だ。絵を描くことはモランディにとって唯一の情熱で、まさしく彼を生き延びさせる「天職」だったといえる。

Giorgio Morandi   Google 検索
(Google Image Searchより画像キャプチャ。作成、東間 嶺)
 
 一般的にモランディといってイメージされるのは、柔らかいフォルムで描かれた瓶や器が正面を向いて画面中央に寄り集まり、背景になにもない空間が拡がっている静物画だろう(上掲Google Imagesのキャプチャ参照)。しかもこの画家は、一見するとほとんど差がないような構図を飽くことなく何度も描いているのである。喧騒から離れて我が道をゆく態度、そして極めて私的・内向的にみえる作風のため、周囲の人間はいつからか彼を「隠遁者」「象牙の塔の修道士」と呼ぶようになった。じじつモランディは、画面に社会状況どころか現代性の指標となるものすらを一切反映させず、政治的信条についても沈黙の態度を貫いている(数少ないインタビューでファシズムと美術の関係について話題が及んだときは、「わたしの作品で、何か綱領的なものを図解しようとしたということは、いまだかつていちどもありません」とはっきり述べている)[註]。

 だが、忘れてはいけないのは、モランディもまた激動の20世紀を生きた画家の紛れもないひとりである、ということだ。第一次世界大戦下の1915年には兵役のためパルマの軍隊に所属し(ただし病気のためすぐに帰郷)、第二次世界大戦中はレジスタンス活動の容疑で一週間勾留され、さらに戦局が悪化してボローニャの市街地までがドイツ軍の爆撃を受けるようになると、モランディは住み慣れた自宅兼アトリエを離れて近郊の田舎町グリッツァーナに一年間も疎開しなければならなかった。疎開中の1944年には、爆撃がグリッツァーナの別荘の近くにまで迫ってきた惨状を知人宛ての手紙で嘆いているほどである。
 静物や風景という穏健な主題のおかげで国家の圧力をすり抜けられた側面は確かにあるかもしれない。だが逆も然り。モランディの友人にして劇作家のリッカルド・バッケッリの回想によると、モランディのイタリア国外での 展覧会を外交施設に務める知人に提案した際、筋金入りの愛国主義者であるその知人から返ってきた返事は次のようなものだったという。


「我が国が英雄的瞬間に直面しているというのに、モランディはいまだ瓶の絵なんかを描いている。あいつは絞首刑になるべきだ!」
 
 

 
 モランディの人生は決して、終始穏やかだったわけではない。そして、制作どころか日常生活も危ぶまれる1940年代初頭、外界との緊張関係が頂点に達したときに、モランディは画業の中でも「異変」と呼んで差し支えないような注目すべき作品群を残している。たとえば、モランディの油絵としてはめずらしく暗褐色を基調とした1940~1942年頃の静物群。放縦にうごめく筆触が不穏な空気を醸し出す18点の貝の連作。そして、グリッツァーナ疎開中に手掛けられた、荒涼かつ空漠とした風景画の数々……。これらの作品からは、外界に対しておのれを頑なに閉ざそうとするこわばった態度、その裏腹にある抑えがたい欲動、そして徹底した「非応答」の身振りのニヒリズムさえもが浮かび上がってくる。

 この時代の作例のひとつとして、1941年の《静物》を見てみたい(画像出典はリンク先)。

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 水差しや瓶、オイルランプなど、6つのオブジェが横一列に並んでいる。細長い形状のオブジェが並ぶなか、唯一の例外として左端の白の小瓶が目を引く。この小瓶があることで画面はやや左詰まりになっているのだが、しかしもしこの小瓶を取り去れば、シーソーのごとく紙一重に保たれていた全体のバランスはたちまち崩れて平凡な絵に堕してしまうだろう。小瓶は画面全体を揺るがしかねないささやかな異分子として、この絵に緊張感を与えているのだ。
 モランディという画家は、モチーフの際どい配置に限らず、筆触や色調、マティエール(絵肌)のわずかな差異によって、画面に見え方を劇的に変化させてしまう。だから私たちはモランディの絵を見るとき、安定をぎりぎりのところで揺るがす破調にこそ注意しなければならない。現実に対する直接の応答ではなくとも、卓上で繰り返される造形上の実験は、彼にとっては世界の危機にも拮抗するほどのラディカルなものであった。

 第二次世界大戦が終わるとようやくモランディもボローニャの自宅に戻り、制作に集中できる環境を取り戻す。1946年以降はこれまで堰き止められていた制作意欲を噴出させるかのように、制作ペースが一挙に速くなり、類似構図による連作が増え、オブジェの配置の工夫も多彩化した。大戦下に頂点に達した緊張感が絵画の造形性において結実し、大戦後の豊穣の季節へと受け継がれたのだ。戦中から戦後への劇的な変化も含め、1940年代のモランディ作品は非常に見応えがある。
 だが、戦争が遠くなった1950年代になると、画面からその緊張感がやや薄れてくるという印象を受ける。生活の安定も含めて理由はいくつかあろうが、1940年代に開拓された造形性がスタイルとして確立しすぎてしまったことが最も大きかったのではないか、というのがとりあえず私の見立てである。

 ただし、このような発展史的な解釈には注意が必要だ。当然のことながら、40年代のすべての作品が傑作とは言い切れないし、50年代のすべての作品がつまらないわけでもない。個々の作品については実物を見たときにその都度判断を下していくしかない。幸いなことに、私たちはいま、モランディの実物をまとめて見る貴重な機会に恵まれている。

* 

 全国3館を巡回する「ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏」が現在、東京ステーションギャラリーで開催中だ。展覧会テーマはモランディ作品の変奏=ヴァリエーション。同一モチーフが登場する作品や類似構図の作品が主に集められているため、画面の細部の違いにおのずと注意が向かう。モランディ作品の卓越した造形性を知らしめる好企画である。忘れがたい佳品はいくつもあるのだが、とりわけ気になった油彩作品のいくつかに言及しておきたい。

 1941年の《静物》(展覧会カタログNo.49、98頁)は、大戦下の「異変」をあらわす格好の作例である[fig.1]。暗褐色を基調とする画面のなかで、色彩の調和を打ち破るかのように、黄色いペルシャの扁壺(へんこ)が鈍い明るさを放っている。モランディの静物画としては比較的大きいサイズのせいもあって、静物群は建築的なスケールを感じさせる。水平に連なるモチーフ群が低層の建築物だとしたら、瓶の首部分はさしずめ聳える尖塔といったところだろうか。しかし、ペルシャの扁壺の右隣にある白い瓶の下部は闇にまぎれており、配置の様子がよくわからない。隣接するモチーフの影で見えなくなっている状態なのか、それとも手前に何か黒っぽい別のモチーフがあって遮られているだけなのか。ありえないことだが、この瓶の首は空洞から生えているかのようにも見える。実体(ボディ)から遊離した瓶の首は、じっと見ていると亡霊的なイメージを帯び始める。なんとも不穏な気配の漂う作品だ。
 この作品では、黄色いペルシャの扁壺の左脇から青い瓶をちらりとのぞかせるなど、思いがけない色彩同士をぶつけて際どいバランスを維持する手腕も光っている。ペルシャの扁壺はモランディのお気に入りのモチーフだったらしく、1940年代以外の作品にも頻出するのだが、後年につれて柔和な色調で描かれるようになったぶん、異分子的な個性も薄れてしまった。個人的には、ペルシャの扁壺の使用法にもっとも緊張感が漲っていたのは大戦下のこの時代だったのではないかと考えている。

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[fig.1 《静物》1941年、ドムス財団近現代美術コレクション(ヴェローナ)
(展覧会カタログより筆者撮影。以下写真すべて同じ。画面左の黄色いモチーフがいわゆる「ペルシャの扁壺」である)

 つづいて1946年の《静物》(展覧会カタログNo.30、74頁)[fig.2]。構図の奇妙さもさることながら、おそるべきはクリーム色の缶のボディ部分で不規則にのたうつ筆触である。ものを在らしめるというよりは、むしろその逆のベクトルをゆくような非‐描写的筆触。このような絵を描いているとき、モランディの意識は一体どこに滞留していたのだろうか。オブジェの表面、あるいはその硬い外殻をすり抜けて内部へと入り込んでいたか、それとももっと初期衝動に忠実に、絵具そのものと戯れる快楽へと傾いていただろうか。こうしたタイプの筆触に出くわすと、モランディは究極的にはすべての物質的な存在を溶融させたかったのではないか、とさえ思えてくる。

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[fig.2] 《静物》1946年、20世紀美術館(ミラノ)、ボスキ・ディ・ステファノ・コレクション
 (モチーフもテーブルも背景も、すべてが放縦なストロークで覆われている。泳ぎまくる視線!)

 先ほどは緊張感を欠く、とも書いたけれど、1950年代の作品にも良いものはあって、出品作のなかでは1954年の《静物》(展覧会カタログNo.11、52頁)[fig.3]が目を引いた。

 まっさらな卓上に溝入りの白い瓶、そしてミニマルな形態の4つの箱が置かれている。モランディの絵に登場する箱は画面に対して平行になるよう正面を向いて配置されることが多いのだが、ここでの箱の前面は、たったいま露出した切り出しの面のように瑞々しさを放っている。いかにも無防備ではあるが、しかしこの無防備さは決して侵すことのできない類のものだ。白い瓶に溝を刻む灰銀色の筆触は、かすかに傾いだ首に沿ってじわじわと上昇し、首先のハイライト部分でついに途絶える。誤解をおそれずに言えば、モランディ作品のこうした描写は、官能的でさえある。
 それにしても、いくら見ても見尽くした感じに辿り着けない絵だ。モランディの描く瓶や箱は、いつも見えないバリアに隔てられた“少し先”にある。これらのオブジェは何も主張せず、虚飾もなく、ただ周囲の虚空に向けてみずからを放擲する。モランディの沈黙の身振りの正体は、外界に対しておのれを閉ざすと同時に開くという、奇妙な様態のことなのかもしれない。

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[fig.3] 《静物》1954年、個人蔵
 (右手にある白い瓶はモランディが深い信頼を置いていたモチーフのひとつ。長い首の艶めかしさに注目)
 
 ずいぶんと勝手な作品観を書き連ねてしまったので、そろそろ筆を置く。モランディの絵は見るたびに発見があり、知覚のコンディションによって印象も変わる。私自身、ここで書いたことも、何度か繰り返し展覧会を見るうちに、あるいは時間を置くうちに、考えが変わらないとも限らない。ただ、身の回りの瓶や箱をさまざまに変奏させながら描くというモランディの実験が、世界の縮図ともいうべき豊かさを持ち、生命活動にも等しいものであったという解釈は、これからも基本的には変わらないだろう。
 1981~82年に大規模なモランディの回顧展がアメリカを巡回した際、『TIME』紙の展評は「マティスを除けば、モランディほど20世紀の出来事と歴史の不安について語らなかった画家はいない」と書いた。だが、「自分の絵は座り心地のいい安楽椅子のようなものであってほしい」と語ったマティスとは違って、モランディは自分の芸術が安楽椅子的な癒しで終わることなどは望んでいなかったのではないか。モランディの「天職」は世俗的な愉悦には奉仕しない営みであり、おそらくもっと別の、正体不明の何物かに向けて捧げられていた。

 本稿の前編で取り上げた『天職の運命』の言葉をふたたびここに添えよう。


「人間は不死と無縁である。霊魂も不滅ではない。しかし、人間は、人類の記憶の流れに入ることによって、永遠とかかわりあうことができる。それは心の歴史であり、文学も思想もその中に太古から流れをつくっている。「永遠の人質」としての芸術家は、「時間の捕虜」の状態で獲得した天職の成果をもって、在るべき場としての永遠へ帰る。天職への献身は、記憶の大河へ入る準備である。天分や才能は、その岸辺まで歩んでいく力である。」(504頁)
 
 
 画家の没年から約半世紀が経った現在も、モランディの沈黙の絵画から読み取れることは、まだまだ沢山ある。


(了)
 
 
[註]モランディも一時期はファシスト党の組織に入会していたという説がある。ただしこれには、党員にならなければ教員資格が得られず、国家支援の展覧会にも参加できないという事情が関係していたのかもしれない。また驚くべきことに、ムッソリーニがモランディの小さな静物画を買い上げた記録も残されている。詳しくはジャネット・アブラモヴィッチ『ジョルジョ・モランディ―静謐の画家と激動の時代』(バベル・プレス、2008年)を参照。


[追記]モランディの1940年代の作品について主に論じた「沈黙の形態―1940年代のジョルジョ・モランディ」を筆者のウェブサイトにて公開中です。