(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)
29日からあとは人と会う予定は入れていなかった。それまでも片手間に両親の家の掃除をしていたけれど、年末の3日間は掃除と片付けに専念した。
高齢者の住まいはどこでもこんな感じだと思うが、同じようなものが家の中のあちこちにばらばらに収納してあり、捨てるしかないような空き箱や古いプリント類が、手の届きやすい「一等地」を占領していた。いつか使うから、と適当な場所に放り込まれて、そのままになっているものも山ほどあった。捨ててもいいものは処分して、まだ使えそうなものは整理して収納し、父母が探すときに困らないように大きなラベルを貼った。
マンションは狭いから、と両親はよく言っているけれど、そんなことは決してなかった。広さは十分なのに、必要のないものが雑然と詰め込まれているから、そういうふうに感じるだけなのだ。引退した老人ふたりの生活で、どうしてこんなにモノが必要なのか疑問に思うくらいモノがあった。
でも、そういった《モノ》に悩まされているのは、私の両親だけではない。
そのときは必要と思って手に入れたさまざまな品物に埋もれて暮らすのは、経済的に発展した国の都市部に住む人々の宿命なのかもしれない。モノを貯蔵するというのは、きっと人間が進化の過程で得た本能なのだろう。みんながそういうモノを買い消費するから、経済も発展していくのだろう。そのかわり、清潔でさっぱりした暮らしを維持するのは難しくなる一方だ。
そうした事情もあってか、以前、日本人の若い女性の書いた片付けものの本が話題になった。彼女は「世界に影響を与える××人」に選ばれさえした。でも、私にはその本の人気が、こまごました努力をして片付けるより、発想の転換で一挙に事態を解決したいという米国人の安易な願望が反映された軽薄なものに思えた。
実際、その本の英語版のタイトルには「magic」という言葉が入っている。どの文化圏でも、人間はエキゾチックで神秘的なものが好きだ。あの片付けものの本を支持したのは、新渡戸稲造の「武士道」 (Bushido: The Soul of Japan) とか宮本武蔵の「五輪書」 (The Book of Five Rings) が好きなタイプの人たちだったのではないだろうか。
でも、ともかく3日間よく掃除した。
高齢の両親が思った以上の活躍でありがたかった。ひとりでは掃除する気力が続かなかっただろう。大晦日の夜になってもまだ片付け物をしている状態だったが、両親の家はだいぶさっぱりした。あと数時間で新年だ。
我が家には、一陽来復、という御守りがある。
毎年冬至の日に、家族の誰かが早稲田の穴八幡宮でその御守りをいただいてきて、それを各家庭に配り、新年の日付が変わるとき、室内の決められた方向に糊で貼り付けるのだ。それが、長年にわたって習慣になっている。もともとは父の実家でやっていたそうだ。
天井と壁の境に貼るので、脚立に上らないといけない。いつもは父が貼っているのだが、今年は私が滞在中なので私が貼ることになった。大晦日の夜、11時45分には御守りと糊、脚立を準備してスタンバイした。御守りを貼るのは居間だ。父はテレビをつけてNHKにチャンネルを合わせた。年末年始の番組で、画面には時刻がでている。脚立にのぼり、日付が変わるタイミングで御守りを貼りつけた。父とわたしは、互いに挨拶した。
"あけましておめでとう"
父が寝室に引き上げてしまうと、私はテレビを消した。各地の神社や寺院で新年を祝う様子を中継する真面目な雰囲気の番組だったが、消してある方が、気分がよかった。
私は、マンションのベランダに出た。
空気は冷たかったが風はなく、寒くて困ることはない。あちこちのお寺から、それぞれ違う鐘の音が途切れ途切れに聞こえてくる。瞑想のコースに参加するとき、いつも私が鳴らす起床のゴングの音を思い出す。最近5年は、年末年始を瞑想センターで過ごしていた。機会があればゴングの係を引き受けて、朝の4時、満天の星を眺めながらゴングを鳴らす。
センター内にはゴングを打つ場所が3~4ヶ所あり、それぞれの場所から少しずつピッチの違うゴングの音が聞こえてくる...
瞑想はしなかったけれど、冬の夜の空気のなかを通り抜けて行く鐘の音に意識を集中した。その音と空気を覚えておきたかった。そして"Inspiration"という言葉が心に浮かんだ。この数ヶ月、英語で何か書くとき、この言葉を使うことが不思議と多かった。一般的で、考えようによっては軽薄な言葉だった。
日本語だったら、どう言えばいいのだろう?霊感?というと、いかにも胡散臭い感じだ。
"ひらめき"、あるいは、"思いつき"、
くらいのおとなしい表現でいいのかもしれない。
Inspirationは自分の頭の中で起こる、自分の行為だ。そして必ず、そのきっかけになる何かが必要だ。その《何か》は外部からやってくる。でもそれをモノにできるかどうかは自分の力量次第だ。この数年、さまざまな種類の《何か》が流星群のように私に降り注いできた。予期しない時に、意外な場所でそういうものと出会うことも多かった。そして今回、半月前に成田空港に到着してからは、私の精神に変化を起こすような外部の力にもみくちゃに押しまくられたように感じていた。
28日までの連日の外出と、そのあとの大掃除でよれよれだったが、この日は早く起きた。日本滞在の最終日なので滞在中に使っていたリネン類を洗濯し、出発に備えて荷物のパッキングをすませる。元旦にふさわしい穏やかな天気になりそうで、綿の入った重たい布団はベランダに干した。そのあいだ母はお雑煮の支度で忙しい。10時になると妹の家族、弟の家族がそれぞれやって来た。夕食会の時と同じ12人で座卓を囲んで座り、乾杯し、お正月の料理を食べた。
毎年恒例、ということではないようだが、父がそれぞれ新年の抱負を言うように求めた。
ちょっとずるい感じだが年の若い順で、甥や姪は学校の成績の向上や受験の成功を願い、大人たちは家族の健康と仕事の発展を望んだ。
彼らの話を聞きながら、自分が何を話すか大急ぎで考えた。
でも、数年前から新年の抱負は決めないことにしている。自分の行動は自分で計画するものではなく、その時の状況に従って無理のないように振舞うべきなのではないかと考えるようになったからだ。
だから私には、この場で宣言するような「新年の抱負」はない。でも私の番になり、話し始めた。
私は新年の抱負は決めない。かつては決めていたけれど、今は決めないことにしている。そのかわり、一年のあいだ何にフォーカスするかは考えるようにしている。昨年は「会いたい人に会う」だった。今回の一時帰国で、滑り込みセーフで、ほぼ達成できたと思う。今年はインスピレーションの年だと感じている。いろいろな変化がある。その変化に、うまく乗っていきたい。
家族向けとしては不自然な内容だったが、適当なことを言ってごまかしたくなかった。
根拠はないが、「変化がある」という思いは確信に近かったので、そう言い切った。
午後の早い時間、荷物を持って両親の家を出発した。家族が最寄駅まで送ってくれた。改札口で彼らと別れ、電車で成田空港へ向かった。チェックインをすませ、セキュリティを通り、出国手続きを通過して、搭乗ゲートの位置を確認した。ここまでやって、やっと一息つくことができた。搭乗案内には、まだ時間がある。
飛行機が出発する予定がないのか、あまり人のいない搭乗ゲートの近くに、ラップトップ用のテーブルがあるのを見つけた。バックパックを降ろして日記帳を取り出した。いつも持ち歩いているクマのぬいぐるみも取り出して、テーブルの上に置いた。
長年海外で暮らして、英語やスペイン語も何とかわかるようにはなった。とはいえ、当たり前だが日本語での理解の深さは他の言語とは比べ物にならない。大抵の人はそのギャップを好意的に受け止めるようだが、いまの私にとっては、少し違う。日本語が飛び交う環境で何かを経験することは、本当は薄めるはずの原液をそのまま浴びるようなものだった。良くも悪くも、刺激が強すぎる。
ひとりで過ごす時間が、その刺激を和らげてくれそうだった。
やっとひとりになれた、と思った。
いつもの暮らしに戻るのは退屈だけれど、誰もいない家に帰るのが待ち遠しい気持ちもあった。
誰かと一緒に過ごして話をするのは良いことだ。ひとりで静かに暮らしている私にとって、それは本当に特別なことだ。いつも内向きの脳細胞に外の空気を吸わせてやることも必要だ。
でも、ちょっとやりすぎた。
毎日いろいろなことがあって確かに楽しかったけど、まるで竜宮城に滞在しているみたいで、いつも足をすくわれそうだった。
私は定期的に一時帰国しているけど、今回は得たものが多かった。今までの一時帰国と比べて、ずっと多かった。インスピレーションはやってくるだろうか。状況の変化にうまくついていけるだろうか。未知のできごとを待ち受ける期待と不安が頭をよぎるのは、日本で新年を迎えたからなのだろうか。答えは、年が終わるまで分からない。
とりあえず、今はまだ、元旦だ。
その時に、その場所で --- (了)