(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)
父の兄弟が多いので、私にはずいぶんいとこがいる。でも私の住まいは海外で、親族が集まる葬式にも結婚式にも行かないので、彼らとはもう何年も会っていない。2~3年前、親戚のお葬式に出た私の父が、従姉のメールアドレスを聞いてきた。6歳年上の従姉で、子供のころはお正月に祖父母の家で会うのが楽しみだった。私は一緒に遊んでいるつもりだったけど、「面倒を見てもらって」いただけなのかもしれない。
前回の一時帰国時に再会の予定を立てていたのだが、相手の健康上の理由で取り消しになった。病気なのだろうかと訝しく思ったけど、週に3回病院で透析を受けていると、後になって知った。この日はその従姉に会いに行った。住まいは栃木県の宇都宮だ。
彼女はずっと宇都宮に住んでいたわけではない。
夫の転勤の理由であちこち引っ越ししながら過ごしたが、2年前に夫が定年退職し、それに伴って夫の実家のある宇都宮に移り住んだのだ。彼女はそこで、夫、そして夫の両親とともに4人で暮らしている。3人の子供たちは成人して東京に住み、上のふたりはもう結婚している。
「女三界に家なし」というけど、大変な暮らしだなと思う。
結婚して、引っ越しを繰り返しながら3人の子供を育てて、今は見知らぬ土地に夫の両親と住んで、自分も頻繁に通院する生活だ。ひとりで海外に住んで、やりたいようにやっている私の暮らしとは正反対だ。そういう人生を歩んだ人が自分の従姉だというのは実感がわかなくて、まるで知らない他人の話みたいに聞こえる。
最後に会ったのはどう考えても30年くらい前だけど、宇都宮駅の改札口で彼女を見つけるのは難しくなかった。こういう瞬間は面白いものだ。30年分の時間の経過を、一瞬で埋め合わせる。
5秒もあれば、アップデートは完了だ。
あとは普通に話ができるのが物足りないくらいだった。
お昼は従姉夫婦に、ランチをごちそうになった。自分たちの近況と、それぞれの家族の近況を報告しあった。考えてみれば彼らと会うのはいつも親戚一同が揃う新年会の席で、いままでゆっくり話したことなんてなかった。お互いの身内の面白おかしい話、そして子供のころの昔話がつきない。病気の手当てを受けているという事情のせいか、昔の話になると従姉の目元がうるうるした表情になる。
6歳年上の彼女の、そんな表情は見たことがなかったので、こっちが慌ててしまう。
手土産まで持たせてもらって、駅で彼らと別れた。喜んでもらえてよかった、宇都宮まで来たかいがあったと思った。そして、ほんの数時間の間だけでも、誰かの心に幸福感を作り出すポテンシャルが自分にはあるのだと気がついた。自分の能力を初めて自覚した魔法使いみたいな気分だった。この能力を上手に使うことができるのだろうか?
この日の夜は、新宿で読書会に参加する予定になっていた。宇都宮から電車に乗り、予定通り新宿に着いた。私はかつて、新宿の副都心に通勤していたことがある。だから読書会の会場になっている歌舞伎町が東口であることは知っていた。
年末の土曜日の夜という条件を考えれば当然なのかもしれないが、新宿駅の東改札口は大混雑していた。
寒い時期なので地下街を歩こうかと思ったが、迷子になりそうだ。そう思って地上に出たら、改札口を上回る混雑だった。忘年会に行くらしい男女でごった返していて、前後左右だけではなく、上下にも人がいるんじゃないかと錯覚するくいの人の多さで、身動きがとれない。
満員電車に乗っているのならともかく、屋外でこの混雑は尋常じゃないと思った。
人ごみで遭難するなんて聞いたことはないけど、半分パニック状態だったのかもしれない。すぐ近くにぽっかりと人間のいない空間があった。どうしてなのかと不思議に思ったが、そこは車道だった。
そこに行きたくて、私はガードレールを乗り越えた。
でも、ガードレールは思ったより高く、私は向こう側に転げ落ちてしまった。
周囲の人たちが不審に思ってこちらを見ているのがわかったが、そんなことはどうでもよかった。構うことはない、ここは新宿だ。私と同じくらいおかしな行動をする人はいくらでもいるはずだ。
私は起き上がり、本の入ったバックパックを背負ったまま走り出した。
たくさんの人が移動している様子は、歩いているというより流れているみたいだった。私も何食わぬ顔で一緒に流されて、その人たちとひと塊になって大きな交差点を渡り、商店の看板でびっしり埋まった細い路地を覗き込んだ。会場だと連絡されていたレンタルスペースの看板が見えた。駅から大した距離はないのだが、遭難しなくてよかったと思った。
小さなスペースに、この日は11人が集まった。初回の参加で誰が誰だかわからないので、司会者に頼んでそれぞれの参加者に自己紹介してもらった。男性のほうが多いが、年齢はばらばらだ。今回の読書会では特定の書籍を取り上げるのではなく、この1年の読書体験について話をする、と聞いていた。参加者は一人ずつ、自分の興味分野についての本や、ほかの人に勧めたい本について話した。
印象的だったのは、もっと本を読みたいけれど仕事が忙しくて時間が取れない、という人が多かったことだ。
読書会に参加しているのに矛盾する話だが、私はあまり本を読まない。会社勤めをしているので時間の制約は確かにあるけど、本を読まないのは時間が取れないからじゃなくて、そうしようと思わないからだ。
瞑想を始めてから、書かれた文字を通じて知識を得ることを軽視する傾向に輪がかかった。
時間が取れて気力が十分な時は、本を読むのではなく、海岸で走っているか自宅で瞑想しているかどっちかだ。
気力が十分じゃない時は寝てるか、そうでなければ雑誌みたいな気力に負担のかからないものを眺めている。
情報の量は少なくなるけど、読むよりも経験したほうが確実だと思うようになったのだ。毎日瞑想して、物事を感じ取る繊細さを維持すること。面倒くさくても、出かけて行って人と会い話をする、あるいは何かと「出会う」、もしくは「経験」すること。いつもそうできるとは限らないけど、そういうほうがいい。
たぶん私の精神の構造は、多すぎる情報をさばくのに向いていないのだ。
情報を集め、理論的に分析して結論を出すのも、もちろんありだけれど、私が頼るのは自分の直感だ。その直感が無意識の分析に支えられていることは想像に難くない。でもそれは理屈とは全然関係ない「どこか」からやってきて、往々にしてそのまま「結論」になる。
それが読書会参加の目的ではなかったけれど、時間と行動に関して自分がとても恵まれていることを再確認した。やがて会がお開きになり、他の参加者と一緒に外に出た。狭い通りは相変わらずにぎやかだ。
迷子にならずに新宿駅に戻れる地点まで送ってもらえたのは、ありがたかった。
山梨県まで出かけた。
早起きして八王子まで行き、そこで特急に乗り換えた。
列車の窓から、埼玉県で見るのとは段違いに大きな富士山が見えた。
もともとは、長野県の飯田の南、山の中にある小さな村まで行く予定だった。
5年前に亡くなった元恋人のお兄さんが山梨県に住んでいて、一緒に来てもらうつもりだった。
お兄さんが住んでいる集落から長野県のその村まで、レンタカーを一日借りてぎりぎり往復できる距離で、休憩の回数を最小限にすれば日帰りで行けないことはない。でも12月の末という時期を考えると慎重にならざるを得なかった。年末の帰省客で高速道路が渋滞するかもしれない。
カリフォルニアからお兄さんに電話して相談した。
寒い時期だし、今回無理して行く必要はないんじゃないの、ということになったが、お兄さんは最近右手が震えるのだと言う。病気の後遺症で半身が動かないので仕事はしていない。ずっと家で過ごす生活だ。
それだけでも不健康なのに、タバコと毎日の飲酒の習慣をやめる気はまったくない。
手が震えるというならアルコール中毒なのかもしれない。自業自得だと思った。
私は一時帰国の日程を立て始めたが、お兄さんを訪問するかどうかで迷っていた。田舎の男性は自分のことを大袈裟にしゃべらないものだ。「手が震える」と言っていたが、もしかしたら本当に健康上の問題があるのかもしれない。もしそうなら、長野県へ行かなくても、とりあえず会っておいた方がいいかも... そう考えて、山梨県まで挨拶へ行くことにしたのだった。
JRの駅で列車を降り、駅前のレンタカー屋で軽自動車を借りた。山肌をなぞるように走る幹線道路から集落へ入る道は細く、路肩が不十分なところも多い。普段はアメリカで左ハンドルの車を運転しているので、右ハンドルだと車幅感覚に自信がなかった。小さい車のほうが楽だろうと思ったのだ。
30分ほど運転して、お兄さんの家に着いたのは11時くらいだった。
一緒に住んでいる彼の母親は病院に行ったそうで不在だった。
母親も病気なのだろうか?
土間で靴を脱いで居間に上がり、持参した雑誌をお兄さんに渡した。20年前のオートバイ雑誌で、故人の写真が掲載されている。
「物置の整理をしていたら出てきたの。見てもらおうと思って持ってきた」
「悪いな。もらっても良いのか?」
「うん。もう捨てなきゃいけないものだから、返さなくていいよ」
体が動かないお兄さんは、病歴が理由で運転免許の更新ができなかった。
町からこの集落までは一応路線バスがあるけれど、一日に3本だけだ。日ごろは外出もままならない。
この日は、レンタカーで一緒に町まで行く予定にしてあった。
町まで行き、コンビニや銀行を回った。お兄さんはコンビニでお酒とタバコを買い、私はそれを苦々しく思ったが、いい年の大人に「タバコやお酒はほどほどにしろ」と言ったところで意味がない。勝手にすればいい、と思った。
もう1時近くでお腹がすいてきた。定食屋さんで、昼ごはんを食べることになった。テーブルにつき、メニューを見て、注文するものを決めた。アルコールを指して、お兄さんが私に聞いた。
「飲むけど?」
まったくしょうがないと思ったが、私がどうこう意見するようなことじゃない。
「どうぞ」
ほどなく、氷が入った小さなコップへ注がれた透明なお酒が運ばれてきた。
グラスを持ち上げる手がぷるぷる震えているのが、私の目にも明らかだった。
「言ってたとおり、手が震えてるんだね。いつもこんな感じ?」
「そう」
お兄さんは一口だけお酒を飲み、テーブルの上にグラスを置いた。
すると、突如その上体が右側に傾いていった。
自然な動きで、何が起こったのか一瞬理解できなかったが、彼の体はそのまま床に崩れ落ちた。半分開いた目は何も見ていない。意識はなく、脚が痙攣していた。
定食屋には何組か食事客がいたが、私の連れが床に倒れてしまったことに気がついたようだ。地元の人間らしい男性の食事客に、救急車を呼んでください、と頼んだ。自分で電話したのでは、場所の説明ができない。地元の人に頼むのが適切だと思った。
私は、まったく慌てていなかった。
目の前で人が倒れ、意識不明で床に横たわり痙攣していて、救急車を呼ぶ事態になっているのに、完全に落ち着いているのが自分でも不思議だった。自分はもしかしたら心の冷たい人間なんじゃないかと思い、怖くなった。
私は床に散らばった持ち物を拾い集め、バッグに押し込んだ。そして病人の手を握った。意識不明のように見えても、もしかしたら聴覚や触覚は正常に機能しているのかもしれない。病人の名前を呼んだが、返事はない。
「これ、やってみましょうか?」
女性の食事客が、左右の手を重ね合わせる仕草をして私にたずねた。心臓マッサージの心得があるようだ。私は病人に脳出血の既往症があるのは知っていたが、心臓マッサージが有効かどうか判断がつかなかった。
「救急隊員の人がどうすればいいかわかるでしょうから、少し待ちませんか?」
「そうですね ...。でも、顔色がだいぶ悪くなってきましたよ」
それは本当で、彼の顔には血の気がなく、死人と大差ない顔になっていた。
このまま死んでしまっても、しょうがないんじゃないかとすら思えた。
そうこうするうちに、男性客のかけた電話が救急につながったようだ。病人の症状や一般情報について説明しているのが私にも聞こえた。電話を切ると、男性客は私に言った。
「救急車、すぐに来るそうですよ」
救急車は、本当にすぐ来た。
救急隊員が7人、定食屋に走りこんできた。手分けして病人の血圧や脈拍を測り、搬送の用意を整える。病人について救急隊員に説明しなければならなかった。
「病人とはどういうご関係なんですか?」
実は複雑な関係だが、私は「知り合いです」とだけ言った。
「どういう知り合いなんですか?」
「私はもともと、この人の弟さんの知り合いなんです。今日はご挨拶にきたら、こんなことになってしまって」
救急隊員はその答えで納得してしまったのか、それ以上の質問はなかった。私も相当な役者だ、と自分で思った。そしてその頃までに、病人の意識が戻った。救急隊員が話しかける。
「ご苦労はないですか?」
この土地の言葉で、痛いところはありませんか、という意味らしい。彼は救急隊員の質問に弱々しい声で答えた。
「 ... ありません」
「体は動きますか」
「動きます」
「左手は?」
「これはもともと動かないんです」
救急隊員が床の上にブランケットを広げ、その上に病人を乗せて、かけ声とともにストレッチャーの上に移動する。私も一緒に病院へ行くことにして、救急車に乗り込んだ。レンタカーはここに置いていって、あとで取りに来ればいい。ひとりの救急隊員があちこち電話をかけていたが、それが終わると私に言った。
「上野原市立病院に行きます」
自分が今いるのは都留で、上野原はひとつ山を越えた向こうだということくらいは知っていた。あとでレンタカーを取りに来るのは大変だ。
「上野原へ行くんですか? 私、レンタカーを運転しているので、ここに置いていってしまうと、あとで取りにこられません。自分で運転して病院まで行ってもいいですか?」
救急隊員はいいですよ、といい、病院名と電話番号を書いたメモ用紙をくれた。
「あまり飛ばさないで、落ち着いて運転してくださいね」
少し安心した。
たぶん、ただちに生命にかかわる、という状況ではないのだろう。レンタカーに乗り込み、慣れないナビゲーションシステムを操作して病院の場所を探した。高速道路利用で所要38分という案内が出た。
病院に着くと、受付で彼のことを尋ねた。
「これからMRIの検査を受けるところです。検査室の前のイスで待っててください」
しばらくすると、看護士が病人を乗せたストレッチャーを押して出てきた。そのままどこかへ行ってしまったが、白衣を着た男性がやって来た。医師なのだろう。
「付き添いの方ですか?」
「そうです」
「MRIの検査をしました。てんかんの発作で、症状はもう落ち着きましたから、特に何か処置が必要ということはありません。でも経過観察をしたほうがいいので、一日入院してもらおうと思います」
「そうですか...」
「担当の者が来ますから、もうしばらくここで待っててください」
白衣を来た女性が来た。ケースマネジャーのようだ。書類を用意するので待つように言われ、入院患者用の談話室へ連れて行ってくれた。談話室でイスに座り、さすがの私も何もする気にならなかった。談話室で病気や親族の話に花を咲かせる見舞い客たちを眺めながら、どれくらい待っただろう。ケースマネジャーが戻ってきた。
病人の氏名、住所、連絡先を確認して書類を作成する。私が病人の家族でもなんでもないのがいかにも不自然だったが、ケースマネジャーは慣れた様子でてきぱきと書類を記入した。それがすむと、私を病室に連れていった。
発作はすっかりおさまったようで、お兄さんはいつもの表情だ。
病院には慣れているのか、落ち着いたものだ。私はケースマネジャーに聞いた。
「病人には、食事はさせてもいいんですか? 昼食を食べていないので、何か食べさせたいのですが、いいですよね?」
「食事は大丈夫ですよ。病院の夕食時間までまだ間がありますから、何か食べさせてやったほうがいいです」
「病院の売店で食べ物は売っていますか?」
「あることはあるけれど、たいしたものはないですねえ...」
「近くにコンビニとかないですか?」
「あ、それならあります。歩いていくとちょっと遠いから、車で行ったほうがいいですよ」
弁当を買いにコンビニまで出かけた。
もう、午後3時過ぎだ。
お兄さんに渡す弁当を買い、自分の分も何か買うか少し迷ったが、やめた。彼の病室で、落ち着いて食べられるとは思わなかった。弁当と飲み物、車の中に置いたままだった彼の荷物を持って病室に戻った。
「お弁当を買ってきたよ。温めてもらったから、冷めないうちに食べたほうがいいよ」
「さつきは食べないのか?」
「私はいい。大月まで戻って、レンタカーを返して、4時半の特急で帰る」
「今日は悪かったな」
「それは気にしないで。でも、倒れたのが定食屋さんでよかったよ。運転している最中だったら、どうしていいかわからなかったと思う」
「なんでそんなに急ぐんだ?」
「夜、東京で友だちと会う用事があるの」
彼は病室のベッドの上に座り、にやにやしながら言った。
「今度会うときは、棺おけの中かもな」
そういうこともあるかもしれない。でも私は、また会いに来るから、とだけ言って病室を後にした。
特急に間に合わないかも、と思ったが、ナビのお陰で迷子になることなく大月まで戻れた。
レンタカーを返し、新宿行きの特急列車に飛び乗った。定刻通りに新宿駅に到着し列車を降りると、どっと疲れが出てきた。空腹感はなかったが、お腹がすいていたのかもしれない。この日は朝の7時過ぎにドーナツ屋でコーヒーを飲みながらドーナツを食べたきりだった。
湯島駅の近くの小さなワインバーで友人たちと食事した。
仕事で知り合ったデザイン会社の男女で、もうかれこれ10年の付き合いになる。それぞれ20代、30代、40代だったが、今は10の位がひとつずつ繰り上がった。そのあいだ、20代だった女性と30代だった男性はそれぞれ結婚し、今は子供がいる。私は相変わらず一人でアパートに住んで会社勤めをする生活だ。30代後半の留学生時代を除けば、最近20年はずっとこんな感じだった。
自分の進歩のなさが嫌になるのはこういう時だ。
親がまだ若いので、彼らには私と同世代の友人のような親の病気や実家の掃除の心配はない。そのかわり、仕事と家庭生活のバランス、そして育児が最大の関心事だ。私にとっては未知の領域で、話を聞けば理解はできるけれど実感はわかない。つまらない気もしたけれど、家庭を離れてお酒を飲みながら育児や仕事の話をする機会を逃すまいとする、当人たちの必死な気持ちを感じた。
私もこういう席でしかしない、オフレコの会話を楽しんだ。海外から見た日本人の行動や政治センス、そして数日前の中学校訪問ついて...…。
子供のいない私にとって、学校教育は子供世代の問題ではなく、いまだに自分の問題だ。
おかしな具合にくっついたままだった傷が、何年も経ったあと、もっと無理のない状態へ変化していくのを感じていた。
国産のおいしいワインをそろえたお店だった。
カリフォルニアもワインはおいしくて、私も機会があれば飲んでいた。もともとそんなに飲むほうではなかったが、2~3年前に自宅で飲むのをやめ、買いおいてあったワインはみんな人に譲ってしまった。そして昨年の秋に、人から勧められて、全面的に禁酒することに決めた。だからここでもお酒は飲まなかったが、禁酒する前にここに来たかったなと思った。
友人たちはよく飲んだ。
日常の生活でストレスがたまることもあるのだろうが、お酒を飲んでも態度や話し方が乱れることはなかったから、ふたりともアルコールには強い体質なのかもしれない。
私は、昼間の出来事をもうちょっと忘れてから帰宅したかった。病院で別れた時のお兄さんのにまにました笑いが、チェシャ猫の笑いのように私の記憶に染み付いていた。
でも彼らと過ごしたおかげで、あの騒ぎから受けた衝撃もだいぶ和らいだ気がした。
(その時に、その場所で --- 6 へ続く)