新宿ルミネ-3

その時に、その場所で---2】から続く
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)


12月22日(火) 昼 東京都世田谷区


静嘉堂文庫美術館へ行こうということになり、両親と3人で出かけた。両親の住まいの最寄駅から直通電車利用で、乗り換えなしで二子玉川まで行ける。乗車時間は長いけど、座ったままで行けるので楽ちんだ。両親はもう階段の上り下りはつらいので、彼らと出かけるときは私もいつも一緒に駅のエレベーター利用する。二子玉川の駅にもエレベーターがあったが、それはいつも私たちが利用する東武線や地下鉄のエレベーターと比べるとずいぶん大きかった。

大きいのには理由があった。
ベビーカーを押した母親が、とても多いのだ。

東武線のエレベーター利用者はお年寄り、ベビーカー、大きな荷物を持った乗客の比率が1:1:1くらいだが、二子玉川はベビーカーが圧倒的に多かった。



駅の改札口を出て、タクシー乗り場へ向かった。静嘉堂文庫までバスで行けないこともないが、3人だし、面倒くさいからタクシーで行っちゃおうか、ということになったのだ。私はプリントした地図を見ながら両親をタクシー乗り場へ案内した。少年時代から青年期まで世田谷に住んだ父は二子玉川にももちろん来たことがあるが、今の二子玉川駅前にそのころの面影はなく、どっち方向に何があるのかまったくわからない。月島・八丁堀界隈で育った母は、東京の反対側まで来る用事など、もとよりなかった。私は私で、そういう名前の駅があるというのは知っていたが、二子玉川へ来るのは初めてだった。

母があたりをきょろきょろ見回しながら歩いている。

「おかあさん、何か探してるの?」

「自動販売機」

「何か買いたいの?」

「水。のどが渇いちゃったから」

「あー、それじゃ私が買ってくる。タクシー乗り場で、おとうさんと列に並んで待ってて。すぐ追いつくから」


私は自動販売機を探しながら、改札口の方向へ戻りはじめた。でも不思議と、自動販売機は見当たらない。改札口の周辺には駅ビルが並び、どこにでもあるチェーン店のお店よりちょっと高級かなという雰囲気のコーヒーショップやベーカリーがいくつもあった。自動販売機がなければコンビニで買えばいいかと思ったが、コンビニも見当たらなかった。どうしてなんだろう?二子玉川駅よりずっと小さな、東武沿線の両親の家の最寄駅だって、周辺に複数のコンビニがある。大体、改札口を出たほぼ正面がコンビニだ。

二子玉川駅の改札口を通り過ぎ、駅の反対側にある大きな通りを渡った向こう側、ぱっとしないオフィスビルの入り口に自動販売機が置かれているのを見つけた。そこで水を買って、両親の待つタクシー乗り場へもどった。ずいぶん時間がかかってしまった。

タクシーに乗り、静嘉堂文庫まで行って、琳派の美術展を見学した。
それから、静嘉堂文庫のすぐ近くの民家園へ行った。

築150年というかやぶきの民家が移築・保存されているのだが、毎日ボランティアの人が来て手入れしているそうで、建物には生活感がある。この日も複数のボランティアが民家の中や外で手入れの仕事をしていた。台所のかまどの上には大きな羽釜が、銅の流しには柄杓が置かれている。囲炉裏には火が入れてあり、薪の燃えるにおいが心地よかった。

世田谷

60歳くらいの女性が、座卓の上で正月用の輪飾りを作っていた。

彼女もボランティアなのだろう。どうぞおあがりください、と言われたので、たたきで靴を脱いで居間に上がった。その女性が民家の設備や、当時の農家の暮らしについて説明してくれた。ひととおり話を聞いたあたりで、母が聞いた。

「ここに住んでるんですか?」

「……ここは公園だから、住んだら、怒られちゃいますよ」


80才を過ぎた母が小学生みたいなことを聞くのがおかしかった。

母は町育ちなので、昔の田舎の暮らしなんて想像がつかないのだろう。確かに年寄りではあるけれど、だからといって昔のことをすべて知っている訳じゃない。私にもこういう状況の時がある。私は米国に住んでいるので、米国のことを何でも知っているように思われてしまう。スペイン語の心得があるというと、スペイン語のメディアに出ているものは、なんでもわかると思われてしまう。日本語だったらとりあえず全部わかるが、でも、《今どき》の話題になると、日本語のメディアに出ている話だってよくわからないのだ。

民家園からバスを乗り継いで二子玉川の駅へ向かった。

朝、到着した時はまだ人出はあまりなかったけれど、もうお昼すぎの時間で、駅周辺はずいぶん混雑していた。私たちが乗った満員のバスは、渋滞した道路をゆっくりと進んでいく。華やかな通りには大きなデパートがあり、クリスマスの飾りの出たショーウィンドウの前を、ベビーカーを押した小奇麗な女性たちが歩いている。平日の昼だから就学前の子供や専業主婦の女性が多いのは当然なのだが、それにしても多いと思った。こういう時間帯に、赤ちゃんを連れて高級なデパートで買い物をする女性たちの生活なんて、想像もつかない。

駅前でバスを降り、そこで昼ご飯を食べようということになった。周りにはきれいな商業ビルがいくつもあり、食事するところも多そうだ。駅の近くに大きく表示された店舗案内を見て、ここなら何でもありそうだということで、ファミリーレストランへ行くことになった。

探し当てたファミリーレストランは、大層おしゃれな場所だった。店の入り口にはベビーカーの置き場があり、駐車場に並んだ高級車よろしく大ぶりのベビーカーが並んでいた。東武線の駅の近くや国道沿いにあるファミリーレストランとはまるで別物だ。店の中は子供連れでランチやお茶を楽しむ若い家族や母親のグループでいっぱいで、80代の親を連れた50代の客は私くらいのものだった。

席に着き、渡されたメニューを見ると、それぞれの料理に小さなサイズが設定されていた。きっと子供や小食の女性に配慮しているのだろう。私たちはそれぞれ小さなサイズで食べ物を注文したが、出てきた料理は丁寧に用意されたおいしいものだった。

お腹に何か入ると、気持ちに余裕が出る。

私たちは食べながら、二子玉川の不思議な感じについて話し合った。ベビーカーを押した母親の比率が高いというのは共通の印象だったが、それと同じくらい私たちが注目したのは、母親たちがみんなキレイでおしゃれなことだった。まるで既婚女性向けの雑誌からそのまま出てきたみたいだ。私たちが住む東武沿線にだって赤ちゃんを連れた母親はいる。でも二子玉川の母親たちには、東武沿線のお母さんたちとは比べ物にならないキラキラ感があった。

食事を終えて駅まで歩くあいだ、あらためて周囲を見ると、今すぐ雑誌の取材を受けられそうな整った身なりの親子連れだらけだった。そういう華やかな《母親時代》を経験することがなかった母は、なんだかうらやましそうだ。

所得の高い若い世帯が住む地域なのかもしれないが、お金のあるなしだけでは説明できないような嗜好の違いはあると思う。朝、二子玉川駅に到着した時に、自動販売機とコンビニが見あたらなくて不思議に思ったのだが、高級感のある景観を維持するために意図的に駅前から排除しているのだろう。東京のあっちの端とこっちの端で大きな文化の差があるのを、思いがけず発見することになった。

東武沿線にある私の両親の住まいは駅に近く、コンビニやスーパーの多い便利な地域だ。
帰宅したあと、私は母に言った。

「おかあさん、二子玉川の駅前のマンションになんか住んでたら、大変だよ」
「どうして?」
「お金がいくらあっても足りないよ。お惣菜は高島屋のお惣菜売り場で買わなきゃいけないし、食パンなんか一斤500円だよ」

母が怪訝な顔をして聞いた。

「……さっちゃん、パンの値段、見たの?」

見てない、そんなの。
でも、冗談抜きでそれくらいするかもしれない。


12月23日(水) 昼 東京都新宿区


日本滞在中に人に会いに行く計画を立てる時に、一番気を使った相手がこの人だった。年長で、男性で、目上の人である。失礼があってはいけない。大学卒業後2~3年経った頃、一度だけ挨拶しに行ったきりで、その後ずっと会っていない。

私は、大学時代にお世話になったカウンセリングの先生に会いに行く計画を立てたのだった。

一昨年、自宅で古い郵便物の整理をしていたら、10年以上前に受け取ったその先生からの年賀状が出てきた。いつか会って元気な姿を見せ、もう一度あのころの感謝の気持ちを表現したいと思った。

それを《今》やらないといけない理由はないのだが「いつかやろう」と思っていると決して実現しない。
私は、経験からそれを学んだ。

それ以外に何も用事はないのに、私は先生に手紙を書いた。

遠い過去のクライアントからそういう手紙が来ることは珍しいことなのか、それともよくあることなのか、私にはわからない。でも、先生は返事をくれた。私は今回の一時帰国中に先生に会うことを提案し、半ば強引にこの計画を立てたのだった。

雨が降ったりやんだりの、さみしいお天気の日だった。新宿駅に早めに到着し、すっかり変わってしまった南口周辺の様子に感心しながら、待ち合わせ場所のビルの高層階へ向かった。そのフロアにホテルのフロントと、景色のよいラウンジがある。外のお天気はさみしくても、祝日ということもあり、ラウンジはくつろいで華やかな雰囲気の客でにぎわっていた。

久しぶりに会って、お互いの顔がわからないと不都合だと思って、先生には私の最近の写真を送ってあった。私は先生の写真はもらってなかったが、おんなじ顔で年を取っていて、遠くから見てもすぐ見わかった。私はあいさつして、先生のテーブルに座った。

気がついていなかったが、通っていた大学の学生相談室以外の場所で先生に会うのは初めてだった。一体どういうふうにふるまうのがいいだろう?

元気にしているということをわかってもらえればよかったのだが、逆に言えばそれしか用事がなく、自分のことを話したのでは、心理療法を仕事にしている先生の《仕事》のようになってしまう。かといって、先生のことをよく知っているわけではないので、こちらから取り立てて質問することもない。

私は自分の《その後》の、あたりさわりのない部分を話したが、隠しごとをしているようで落ち着けなかったし、すぐに話題が尽きてしまった。

それで、一週間前に日本に到着してからどんなふうに過ごしていたか話し始めた。
中学校訪問の話をした時に思い切りがついたのだと思う。

先生にとっては、日ごろカウンセリングの仕事でよく聞く類の話に間違いないが、その点にどこまで配慮すればいいのか見当がつかなかった。先生と会う機会はもうないかもしれない。後になってから、あれを話しておけばよかった、これを言っておけばよかったと、思い返すのはいやだった。

「もう何年もたっていて、自分もいい年の大人になってしまったし、今からこんなことしてもしょうがないと思ったけれど、中学校へ行ってきたんです」


私は話し始めた。米国から中学校に電話したけれど、見学を断られたこと。実際に出かけて行ったら、《不審者》を警戒する表示が多くて驚いたこと。体育館がとても小さく見えたこと。《犀川》の掲示の思い出。そして、現在の掲示物に非常に違和感を覚えたこと...…

「中学校が嫌いだ、ということが、今度は納得できちゃったんです。学校の中へ入ることはできなかったけど、もう学校公開日に学校訪問しなくて大丈夫です」


体育館が小さく見えた、という話が、先生の個人的な経験と重なる所があったようだ。
自身の経験については先生はあまり話さなかったけど、そのかわり自分が指導している後進の研究者や、最近考えていることについて話してくれた。

話は自然に流れ始めた。

自分らしく過ごしていることを先生にわかってもらえればそれでよかったのだが、どうやって今の状態にたどり着いたのか、説明したほうが誠実な態度だと思った。それで結局、ほとんど全部しゃべってしまった。

遺書を残して自殺したかつての恋人のこと、
断食と瞑想、
そして、一年前のブータン訪問から得たもの、現在の私を取り巻く人たち...…

断食や瞑想は、きわどい話題だ。
迷信じみた調子にならないように気をつけたが、先生は言った。

「思いがけないタイミングでそれまでの努力の成果がでることがある。そんな時、それがすべて自分の行為の結果ではないと感じるのです。なんと言えばいいか... 自分が起点じゃないのです。そう、自分が起点じゃない。そういう何かは、人間とは関係のないところからやってくるのかもしれないと感じています。何かが起こるとき、もちろん、それを行う行為者としての人間は必要なのですが、それが自分である必然性はないのかもしれません」

「こういうことが、いろいろ、還暦近くなってからわかってきました。自分というのは、興味の尽きない対象です。深く掘り下げる価値があります」


このウェブサイトの自己紹介に書いているように、私は自分のことにしか関心がない。
正直でありたいと願う心からそう書いているのだが、そうした態度を恥ずかしいと思う気持ちもあった。

それだけに、先生の意見は印象的だった。
《自己》をもっと陽の当たる場所に出してやったほうがいいのかもしれない。

先生と会い、誰かと話す、理解しあう、学ぶという充実感を味わうことができた。一時間半ほど話して別れたが、後日、お礼のメールを出した。私は、「《自分が起点ではない》という感覚と、自分を動かす何かへの感受性を大切にして生きて行こうと思います」と書いた。

先生からは、「長浜さんがご自身が感じられていることを大切にして生きようとしておられることに、感銘を受けました」と返事が来た。


その時に、その場所で---4へ続く)