クマ
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)


今回の一時帰国が特別というつもりはなかったのです。

長年海外に住むあいだ、度々一時帰国していました。
でも最近、私にとって一時帰国の意味は大きく変わってきました。

6~7年前までは、友人たちと会って楽しく過ごし買い物をするのが一番の目的でした。でも今は両親が高齢になったので、家族と過ごす時間の方が大事になりました。高齢者の生活感覚や生死感というのは独特で、短期間でも一緒に過ごしていると、私も影響を受けるようになります。慌てることはないんじゃない、と言われそうだけれど、自分の時間も限られていることも意識するようになりました。



「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。」

マルクス・アウレーリウス(『自省録』、岩波文庫、48頁)
 


《善き人》はともかく、《生きているうち》のほうは何となくわかるようになり、余裕のなさを感じています。

やっておこうと思うことを先延ばしにすることができず、今回の一時帰国の日程は支離滅裂になり、隠されていた宝物や地雷を探すような滞在になりました。また友人や知人と会えば何かしら得るもがあり、そういったできごとを少しでも自分の中にとどめておきたいと願うようにもなりました。

経験から得られた印象を固定化するのに、日記をつける習慣はとても役立っているけれど、自分にさえわかればいいという気楽さから、文章はゆるゆるです。そして実際問題、日記帳にペンで文章を書くというのは物理的に時間のかかる作業で、実際に起こったこととそれについての表層的な印象を書きとめるだけで終わってしまう。

それで、ここに、一時帰国の話を書いてみようと思ったのです。

書き始めてみると、その日のその時間の、それぞれの場所の風景を写生するような、あるいはその時に会った人のポートレートを描くような作業になりました。それでタイトルを『その時に、その場所で』としました。

写生はともかく、ポートレートは難しかったです。

2時間会って話しただけで、その人の人となりや生活がわかるわけはありません。自分の目線の角度から見える部分だけを書くしかないのですが、でも、考えてみれば私自身も、他人によって描かれた一面的なポートレートの集積であるという点では同じです。

それは、まわりにドーナツがあるからこそ存在する、からっぽの穴のようなものかもしれません。


12月15日(火) 昼 バンクーバー空港・国際線ターミナル

15日出発にしたのは、そのほうが航空券が安かったからだ。東京行きの直行便は高いのであきらめた。今回はカナダのバンクーバーで乗換だ。この日は朝4時10分にロサンゼルス空港行きの乗り合いタクシーが迎えに来ることになっていて、それにあわせて起床した。家を出る前にメールをチェックすると、知人からメッセージが入っていた。翻訳を手伝うことになっていて、一時帰国中は忙しいからその前に原稿をちょうだいねと頼んでおいたのだが、その原稿が用意できたという内容だった。まったくいいタイミングで原稿ができたものだ。原稿を見る時間の余裕はなかったので、メッセージだけ読んでラップトップの電源を落とし、バックパックに押し込んだ。

バンクーバーに到着したのは午前10時くらいだった。東京行きのフライトは午後の出発で時間に余裕がある。そのあいだに翻訳を片付けてしまおうと思った。マウスを使いたかったので、テーブルがあったほうがいい。搭乗ゲートから少し離れたあたりに電源つきのカウンターがあった。ラップトップやiPadを持った乗客が立ったまま使えるように設計したのだろう。座れないのは物足りなかったけど、飛行機に乗ればどうせ座ったままだ。私はカウンターの上にラップトップを広げてWi-Fiにつなぎ、原稿をダウンロードした。いつものように電子辞書を手元において翻訳し始めた。

翻訳する文章は短く、よくまとまっていた。団体名などの固有名詞は訳語を調べないといけないけど、これなら1時間でまあまあのところまで訳せそうだ。しばらくすると、インド系の男性が話しかけてきた。

「iPhoneでネットを使いたいんだけど、どうすればいいのかな?」
「え?私?よくわからない」
「だって(指差して)いまネット使ってるじゃない」
「これはパソコンだもの。私はiPhoneは使ったことなくて、よくわからないの。ごめんね」

しばらくすると、今度はアジア人の家族連れが話しかけてきた。

「搭乗ゲートを教えてほしいんだけど?」
「搭乗ゲート?どっかに案内のモニターがあるんじゃない?」
「モニター?どこに?」
「えーっと... あっち」

私は遠くに見えるモニターを指差した。

バンクーバーはアジア系の住民も多い。無地のシャツを着てカウンターでパソコンのキーボードを叩いていると、空港職員にみえるのだろうか。

ひととおり翻訳がすんだ段階で、翻訳文をクラウドにアップロードした。先方にメッセージを送って向こうでダウンロードしてもらえばいい。ネットがあれば、どこにいたっておんなじだなと思う。便利だけど、つまらない気もする。東京行きフライトの搭乗案内が始まった。横浜でアルゼンチンのサッカーチームが対戦する試合を見に行くというアルゼンチン人のグループと相席になった。成田空港に着くまで、アルゼンチン訛りのスペイン語を浴び続けた。


12月18日(金) 昼 埼玉県越谷市

駅
Photo by Takashi Nakamura,  retouch by Ray To-ma


成田空港から電車を乗り継いで越谷市の両親の家まで行った。母が最寄り駅まで迎えに来てくれた。到着は夜の9時過ぎ、ほぼ眠らないで34時間旅行し続けていた計算で、どうにもならないくらい疲れていた。疲れていてもゆっくり眠って体を休めることができないのが、一時帰国の辛いところだ。両親はマンションに住んでいて訪問客用の部屋はない。私は居間におかれたテレビの前に布団を敷いて、そこで眠る。

私がいるあいだ居間のテレビをつけないで、と両親に頼んである。テレビがついていると考えたり話したりできない。テレビの音を聞き画面を見ているだけで疲れてしまう。日ごろテレビを見る習慣のある両親は不便そうだけど、私のいうとおりにしてくれる。

一時帰国の目的は家族や知人友人に会うためだけど、それ以外にやることがふたつあった。

ひとつは、両親の住んでいるマンションの掃除。

高齢者は一般的に掃除や整頓が苦手だ。私の両親も例外ではなく、彼らのマンションもそれなりの状態だ。それを掃除する。

もうひとつは、自分の古い持ち物の整理。

これは両親の住まいから自転車で10分くらいのところに物置を借りて、そこにしまってある。でももうすべて整理して、処分するものは処分して、物置を解約したほうがいい。

日本に到着した翌日、自転車で物置を下見しに行った。ここ何年か一時帰国のたびに少しずつ片付けてきたので、残っているものはあまりない。これなら2、3日でかたがつきそうだ。その翌日18日の昼は、人と会う用事は入れず、物置の整理のための時間を確保してあった。

実をいうと一時帰国を利用して訪ねたい場所があった。
私が卒業した中学校だ。

あの頃も「いじめ」という言葉はあったが、それは幼い子供たちのすることで、いじめっ子というのは《ドラえもん》に出てくるジャイアンのような子供のことだった。当時、学校でのいじめはまだ問題視されていなかった。学校での生活が、原因不明の腹痛やいつも頭のどこかにあるハゲと関係あるなんて、考えたこともなかった。学校は勉強するところで、生徒同士の問題は教員に相談するような事柄ではないと思っていたし、実際にそういう理解になっていたと思う。

私はひどかった。
中学校の生徒たちをバカにし切っていた。

ほかにどういうやり方で対処できただろう?女の子たちは頭の悪い動物のように低脳で、男の子たちは小汚くて、脳みそすらない雑巾みたいだと思った。私は素手で教室のガラスを叩き割って、それを弁償しなければならなかった。手には切り傷ができて血が流れた。幸か不幸か、引きこもるとかぐれるとか、そういうところまで頭が回らなかった。卒業式の日、もう二度とここへ来るものかと思い、その後本当に近寄らなかった。

気分の悪い思い出だが、このときの経験は間違いなく私のパーソナリティの一部になっていて、忘れてしまえばいいというものでもない。物事の良い悪いは一方的に判断することができず、少なくともふたつ以上の見方があるというのは、小学校の高学年の頃からうすうす感じていた。

それが確信に変わったのは中学時代だ。
そして同じ学校に通う子供たちを見返したいという一心で、私は良い成績を取ることに熱中した。

結果、人間関係に振り回されない勉強熱心な女の子ばかりが通う県立高校に入学することになり、ぬるま湯に浸かりすぎてのぼせたような高校生活を送ることになったのだ。

その中学校を見学しに行きたいと思ったのは、昨年の秋ごろだ。私は個人や集団の間の諍いを解決することについて書かれた本を読んでいた。その本のやり方を採用するにはそれなりの条件が整っていないとダメだなというのが私の感想だったが、私が注目したのは、和解のために実際に行動するというくだりだった。

《許す》、という言葉は語感がよくて安易に使われがちだが、実際にそうするのは生易しいものじゃないと私は思う。そして《許す》というのは精神の作用で、行動ではない。私が行動するとしたら、どんなことをすればいいのか。それで思いついたのが、中学校訪問だった。

12月になる頃、カリフォルニアの自宅から中学校に電話した。男性の職員が電話を取った。声や話し方から察して、30代後半から40代くらいではないだろうか。

「私は中学校の卒業生で今は海外に住んでいるのですが、今月後半に一時帰国するので、中学校を見学しに行きたいと思っているのです。そういうことはできますか?」
「見学ですか?」

しばらく間があった。

「目的はなんですか?」

言いにくい目的ではあったが、隠すようなことでもないので説明した。

「それなら学校公開日に来ていただくことになりますが、今年はもう、学校公開日は終わってしまったので...」
「学校公開日?」
「小学校6年生とその保護者を対象にした学校公開日があるんです」
「来年の公開日はいつなんですか?」
「4月か5月ごろになったら、電話で問い合わせてください」
「学校公開日に合わせて一時帰国できるかどうかわからないので、できれば今回の帰国中に見学したいのですが、ダメですか?」
「外部の方は公開日でないと学校に入れません」

電話の相手と交渉しても意味がないと思った。この人物には決裁権がないのかもしれないし、あったとしてもこれ以上会話を続ける気になれなかった。「お気持ちはわかります」と言われた。私の気持ちがわかる?本心とは思えなかった。学校や生徒を狙った犯罪を警戒しているのだろう。不愉快だったが仕方ないとも思った。私は、来年になったら問い合わせます、と言って電話を切った。

その中学校は、現在両親が住んでいるマンションからそんなに遠くない。

自転車で物置まで行くときに、遠回りしてその中学校まで行ってみたらどうだろうと、この日の朝思いついたのだ。台所の片づけものがひと段落すると、私は自転車に乗り中学校へ向かった。50代になった私が自転車をこいで中学校へ行くのは、まるでタイムトラベルを題材にした下手な映画の撮影のようだと思った。

学校周辺の様子はすっかり変わってしまっていて、私は迷子になった。行き当たりばったりに自転車をこいでいたら、グラウンドの端、ちょうど正門の反対側のあたりに出た。グラウンドを囲むフェンスに、【写真撮影禁止。不審な行為は警察に通報します】という表示がぶら下がっていた。そのすぐ近くに別の表示があり、【ご用のある方は必ず職員に申し出て受付をすませて下さい。校長】と書かれている。受付はともかく、撮影禁止だの通報するだの、ものものしい話だが、今ではこれが普通なのだろう。

グラウンドには誰もいなかった。

もう正午近いから、生徒たちは教室で給食の支度でもしているのだろう。私は自転車を押して、フェンスに沿って正門まで歩いた。ちょうど給食センターのトラックが校門を通って中へ入ったところだった。私は中へ入らず門の外で立ち止まったが、左右には不審者に注意だとか通報するだとか、その類の表示がいくつも出ていた。あまりここでうろうろしていると通報されかねない。校門を入ってすぐ左手が体育館で、私が記憶しているよりずいぶん小さかった。こんなものだっただろうか? 

校門の右側には、ガラスケース式の掲示板があった。

私が通学していた頃も、これと似た掲示板があった。教育方針とか目標とか、どこの学校にもある、特に見る必要のないありふれたものが掲示されていたが、なぜかその掲示板に室生犀星という詩人の《犀川》という詩が貼ってあった。私が入学間もないころから卒業するまで、同じものが同じ場所にずっと掲示されていたのを覚えている。


うつくしき川はながれたり
そのほとりに我はうまれぬ
春は春 なつはなつの橋
花つける堤に坐りて
読み本のなさけを展く

室尾犀星著、浅野晃編(『室尾犀星詩集』、白鳳社、64頁)
 

まだ一般用のワープロやプリンターのない時代で、《犀川》の掲示も楷書の毛筆だった。なぜこんなによく覚えているかというと、私が中学校で好きだったのは《犀川》の掲示だけだったからだ。

私は掲示板に近づいて、中の掲示物を眺めた。

毛筆で清書された詩のような悠長なものはなく、パソコンで作成された掲示物が並んでいた。


最重点項目〔指導・取組〕
……………
規範意識の向上(規律ある態度の育成)と明るく・しっとりした集団の育成
清掃活動の徹底と落ち着ける・やる気の芽生える生活学習環境(美化)の整備・充実
……………
……………
授業の時は
……………
聞き方名人: 自分の意見と比べたり、質問することを考えながら聞こう
……………
以上は、ほんの一例です。
大切なことは、相手を尊重する気持ちを持つことです。
その尊重する気持ちがコミュニケーションを円滑にするポイントです。
 

こんなもの、みんな真に受けているのだろうか? 
もしかしたら、生徒たちも教員も私よりずっと器用で、こういう掲示物を毎日眺めながら適当に受け流しているのかもしれない。でももし、そうじゃなかったら?

正直なところ、外の世界を見てすっかり大人になった私の眼には、できの悪い冗談か、何かのパロディにしか見えなかった。ジョージ・オーウェルの「1984年」の舞台がもし中学校だったら、掲示板にはこういう掲示物が出ているんじゃないかと思った。

こ  れ  は  だ  め  だ

頭の中にこの6文字の大きな字幕が出たような気がした。それくらいはっきり自覚した。
こんなもの、きらいに決まっている。

そして、それを《嫌う》自分を、初めて受け入れることができたように感じた。私は今まで心のどこかで中学校を美化していたのかもしれない。それを楽しみ愛せなかった自分を、受け入れることができなかったのかもしれない。でももう、それも終わりだ、こだわる必要は何もないのだ。

この学校に通っているのが今じゃなくて本当によかったと思った。もたもたしていて、本当に通報されるようなことになったら厄介だ。私の目的は騒ぎを起こすことじゃない。

私の目的は違うことで、それは達成されたのだった。


12月18日(金) 夜 埼玉県さいたま市

高校時代の友人と夕食を食べることになっていた。

早めに到着して、駅ビルの中の紅茶の店でお茶を注文する。そしてテーブルの上に日記帳を広げて書き出した。昼の中学校訪問もあり、頭の中が飽和状態だ。書かないと、頭がおかしくなってしまいそうだ。でも1時間ほどで切り上げて、待ち合わせ時間ぴったりに待ち合わせ場所へ行った。その3分後、友人が現れた。

とりたてて目立たないけど、とても機知に富む人だ。私は彼女と、必要以上に盛り上がらないでくつろいだ話をするのが好きだ。彼女と話すとき、私はまるで楽しいお酒を飲んでいるみたいにケラケラ笑う。中学校まで出かけた日の夜、こういう友だちと過ごせるのはありがたかった。

地方公務員の彼女は、やはり地方公務員をしている夫と二人で海外旅行をすることが多い。子供はいない。海外で、何回も行きたい場所はどこ?という話になった。友人は、イタリアへ行くのが好きだと言った。彼女は中国語が堪能だ。中国語圏ならいざ知らず、どうしてイタリアなのだろう?

「帰ってきたヨッパライ風に言えばだな」

と彼女は芝居じみた口調で言った。

「メシはうまいし、兄ちゃんはやさしい。そういうこと」

彼女のこういう言葉のセンスが、私は好きだ。逆立ちしたって真似できない。彼女は文章を書くのも上手だ。私より、うんと上手だ。ネットが普及して誰も彼もがサイバー空間で文章を発表するようになったけど、彼女が何か書いていると言う話は聞かない。特技の中国語も、まったく不自由しないレベルなのに、遠くまで授業に通って勉強を続けている。そして彼女の仕事は文章の作成や中国語と関係ない。

もったいない、という人もいるかもしれない。
でも、本人は気にしていないようだ。

特技と関係ない仕事をする。余裕があるというは、そういうことなのかもしれない。能力を100%活用する必要はない。宝の持ち腐れ、能力の垂れ流し、他人の羨望... 狂風の本道かもしれない。

そしてそれは、狙ってそうするものではないのだ。


(その時に、その場所で--- 2に続く)